愁色



 奇妙な夢だった。
 何の変哲もない街中で、けれどその街を見知っているわけではなく、何かわけがあってそこを訪れているのだということだけはわかっていた。
 どこかへ行こうとしていた。街のどこか、今承太郎のいるそこからは、歩くには少し遠いところだ。そこに、ジョセフがいる。ジョセフのところへ行かなければならないのだ。ジョセフに会うために。どうしてジョセフに会わなければならないのか、きちんとした理由はわからなかった。ただ、自分の祖父だから会いたいのだと、そう思ってから、世界が終わろうとしているのだと、気がついた。
 ああ、だからだ。だから、ジョセフに会いに行きたいのだ。
 目の前には、長い下り坂があった。一体どれほど続いているのかわからない、長い長い坂だ。どうやってここまで来たのだろうかと、辺りを見回しても、人の姿も見当たらない。
 世界が終わるというのに、騒ぎもなく、承太郎はただ、ひどく静かに、坂の上から街並みを眺めている。
 不意に、後ろからトラックがやって来た。
 逃げているというほど慌てた運転でもなく、承太郎のそばをゆっくりと通りながら、運転手が窓から顔を出す。
 乗せて行ってくれないか。
 承太郎は、会ったこともないはずなのに、顔見知りだと思ったその運転手---承太郎よりは年上の、若い男だ。汚れた作業服を着ている---に、そう声を掛けた。
 祖父に会わなければならないのだと言うと、運転手はジョセフを知っているような素振りで、ちょっと唇をとがらせる。
 目を伏せて、言いにくそうに、ぼそぼそと言った。
 ジョースターさんは会いたくないって言ってたよ。お互い死ぬところなんか見たくないからって。
 なぜそんなことを、この男が知っているのだろうかと思いながら、ジョセフが自分に会いたがってはいないということに軽くショックを受けてから、承太郎は、けれどすぐにいつもの冷静さを取り戻すと、そうかと、男に向かって肩をすくめる。
 じゃあなと言って、トラックは坂を下りて行った。
 死ぬ時は、誰だってひとりだと、承太郎は、坂を眺めて目を細める。
 承太郎の死ぬところを見たくないというのは、ジョセフの、祖父としての愛情の表れだ。
 ジョセフのところへ行く必要がないなら、これからどこへ行こうかと、ちょっと頭をめぐらせる。
 世界の終わりが、刻一刻と近づいていて、見知らぬ街でひとり死ぬ不思議を思った。
 その自分を見ている自分がいる。これが夢だと知っている自分だ。眠っている。眠っているけれど、醒めていて、夢を見ているのだと知っている。夢を見ながら、ああ、この夢のことを花京院に話さなければ、ちゃんと夢の内容を覚えておかなければと、そう考えていた。
 夢は、いつ終わったとも知れず、世界の終わりがやって来たのかどうか、承太郎にはわからなかった。


 目が覚めて、いつもと同じように明るい自分の部屋の中で、まだ布団から抜け出さないまま、承太郎はしばらくの間、見ていた夢を反芻していた。
 なるべくきちんと覚えていようと、そうすれば、あれこれ辻褄が合わないにせよ、物語としては成立するはずだから、こんな夢を見たんだと、話をすることができる。世界の終わりにどこかの街にいて、同じ街にいるジョセフに会いに行こうとした。そうして、とそこまで考えながら、まるで映画のように脳裏に甦ってくる夢の場面を、ひとつびとつ鮮やかに思い返して、承太郎はようやく洗面所に向かおうと、自分の部屋を出た。
 寝ている間に、だらしなくゆるんでしまった寝間着の襟元を合わせながら、風呂場の脱衣所にある洗面所の、大きな鏡の前に立って、まずは顔を洗った。
 冷たい水を浴びている間中、頭の中に流れ続けている夢のフィルムを、きちんとなるべくそのまま伝えられるように、同時進行で言葉に組み直している。濡れた顔を上げて、寝乱れた髪に手をやってから、承太郎は、ようやく気がついていた。
 誰に話すつもりだ。
 夢の中で、花京院に話すために、この夢のことを覚えておこうと思ったことを覚えていた。そして今の今まで、そのつもりで、夢の細部を思い出そうとしていた。
 何が変だとも思わずに、当たり前のように、花京院のためにと、そう思っていた。
 鏡の中で、頬の辺りが歪んだ。
 濡れた顔を拭いて、部屋に戻ってとりあえず制服に着替える。手を動かしながら、夢と、そしてそれを花京院に話そうとしていたことを、承太郎はずっと考えていた。
 夢の中で見たあの街と同じように、何の変哲もない朝だ。
 ホリィが作った朝食を食べて、玄関で、行ってらっしゃいと、ホリィが自分の頬に向かって伸び上がってくるのをいやがるふりをして、姿が見えなくなるまで自分を見送るホリィを、一度だけちらりと振り返って、そうして、同じ方向へ流れてゆく人並みに、無言で滑り込んでゆく。
 今朝は、とても足が重い。
 同じことを考えながら、いつもの通学路を歩いている。
 花京院、と口の中で呼んでみた。
 返事があるわけもない。花京院はこの街にはいない。どこにもいない。花京院はもう、存在すらしない。
 腹に穴を開けて、向こうが見える血まみれの穴が、背中まで突き抜けて、最期に言葉を交わすことすらできなかった。気がついた時には、もうすべてが終わっていた。
 そんなことはもう、あれ以来、気が狂いそうになるほど思い知っているというのに、なぜ今朝、夢の中で花京院のことを考えていたのだろう。
 目が覚めた後も、平然と、花京院と話すのだと、そう考えていた。疑いの一片もなく、自分の、水に濡れた寝起きの顔を鏡の中に見るまで、花京院がとっくに死んでいるということを、きれいさっぱり忘れ去っていたのは、なぜなのだろう。
 夢の話を始めたのは、花京院の方だ。最初は、一体何の話をしていたのか、花京院が絵を描くのが好きだと言って、そうして、だから見る夢にはいつも色がついていると、そう言った。それが確か始まりだった。
 夢に色がついているかどうか、そんなことなど考えたこともなかった承太郎は、そう言われて昨夜見た夢を思い返して、夢に現れた物体の色が思い出せず、夢の色の話を面白いと思った。だから、花京院に、別の時に見た夢の色合いのことを訊いた。
 そうしてふたりで、その日は一日中、飽きもせずに、今まで覚えている夢のことを話し続けた。
 他愛もない話だ。日記にでも書いておけばすむような、殊更人に話すようなこととも思えなかったけれど、そんな話をしても、鬱陶しいとも思わないこともあるのだと、承太郎は初めて知った。
 空が真っ赤だった、石壁の下から、這い出すように咲いていた小さな花を見て、ちょっと感動した、日に焼けた首筋が痛い、ホテルの埃っぽい部屋はきらいだ、何だっていい、考えずに口にしたことを、誰かが聞いて応えてくれるということに、承太郎も花京院も、次第に馴れて行った。
 あれは、そんな旅だった。
 前夜見た夢の話をする。花京院の、色鮮やからしい夢は、その色と同じほど語り口が生き生きと聞こえて、承太郎はいつも、そんな時にだけはよく動く花京院の色の薄い唇を、飽かずに眺めていた。
 誰かに置き去りにされる夢、ひとりで空を飛んでいる夢、あるいは、誰かに追われて、必死で逃げる夢、花京院の夢は、あまり愉快な内容ではない---らしい---ものが多かったけれど、それを吐き出して楽になっているように見えたから、承太郎は、夢を思い出してつらいならやめろとは、一度も言わなかった。
 承太郎の白黒の夢は、花京院のそれほど波乱万丈でもなく、前日に経験したことがそのまま映し出されるような、そんな夢が多かった。物事を、人に伝えるために描写することに馴れていなかった承太郎は、頭の中にあることを言葉にするという作業を、花京院のために習慣化した。
 そう言えば、今朝の夢には色がついていたと、承太郎は不意に足を止める。
 運転手の男が着ていた作業服は、汚れてはいたけれど、確か灰色がかった青だったし、トラックはつやのない、鮮やかではない赤だった。ところどころに浮いていた、錆のざらついた茶色も思い出せる。見下ろした坂の両側に建っていた家々は、様々な色の壁と屋根だった。
 夢の中で見た色が、いっせいに、目の中にあふれた。めまいがして、承太郎は、その場に立ったまま、強く目を閉じた。
 だから、花京院に伝えなければと、そう思ったのか。夢を見ていた承太郎は、あの色鮮やかさに、花京院を思い出していたのか。色のあふれる夢の中で、目覚めれば花京院のいないことを思い知ると、それすら思いつかずに、花京院のことばかりを考えていたのか。
 学校の正門が、そろそろ目の前だった。のろのろと足を引きずりながら、今朝はいつもよりいっそう、校舎と制服が、味気ない色に見える。口の中に広がる苦味を噛んで、エジプトから戻って以来触れていない煙草が、不意にひどく恋しくなった。
 もう、夢の話はできないのだ。どんなに楽しかった夢も、どれほど恐ろしかった夢も、荒唐無稽で下手な映画よりも興奮した夢も、それが、どれほど色鮮やかだろうと、目を覚ませば、消えてしまう夢と同じほど、もう花京院の存在もはかない。
 花京院はいない。どこにもいない。そんなことはとっくに知っているはずなのに、どうしてか今、ひどく動揺していた。
 いつまでもそこに立ち止まっているわけにも行かず、数瞬逡巡してから、承太郎はついにくるりときびすを返した。
 元来た道を引き返して、途中にあるどこかの店で、煙草を買うつもりでいた。久しぶりに喫う煙草は、きっと肺を焼いてくれるだろう。ひどくむせて咳込めば、あるいは、煙が染みたと言い訳すれば、今あふれそうになっている涙を、自分で許せるかもしれないと思う。
 花京院はいない。見た夢を語る相手はいない。色のあふれるその中にも、この世界にも、花京院はもういない。そのことが、初めて、痛みをともなって承太郎の全身を貫いていた。
 あの、花京院の腹に空いていた血まみれの穴を思い出して、思わず自分の腹に触れる。掌の下で、自分の体がとても冷たいような気がした。
 うつむいて、学校へ向かう生徒の波に逆らって歩きながら、ふと、前へ出す革靴の爪先に、ぽたりと水滴が落ちて、丸い染みを作る。頬を流れて、あごから落ちた涙だと気づかずに、承太郎は、その染みをじっと見下ろしている。


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