花京院の手を取る。
 長くて形のいい指を、指先まで丹念に眺める。目の前に持ち上げて、爪の形や光り方まで、しっかりと覚えていようとするように、関節の形と、皮膚を盛り上げる陰影と、何もかもを目の前に観察する。
 ぶ厚すぎない掌は、まだどこか幼くて柔らかくて、傷跡ひとつ見当たらないのは、きっと喧嘩をしたこともなければ、誰かを殴ったこともない証拠のように思える。
 手の甲に浮かんだ骨に沿って、青い血管が走っている。血のあたたかさは、けれど指先には届いていないように、少し冷たい。
 なめらかな、親指の付け根の辺りを、親指の腹で軽く押してみた。ゆるく盛り上がったそこには、確かな弾力があって、青と紫の血管が、皮膚の下にはっきりと見える。
 つるつると光る掌の皮膚には、くっきりと線が刻まれていて、どれが頭脳線だとか生命線だとか、承太郎にはよくわからない。
 承太郎は、様子をうかがいながら、その掌を自分の口元に近づけた。


 承太郎の手は、いつもとてもあたたかい。
 不思議なものでも見るように、自分の手を間近に眺めている承太郎の手は、花京院のそれよりも一回り大きく見える。
 ぶ厚い掌と、太くて長い指と、皮膚と肉を剥ぎ取って、頭の中で白い骨だけにしてみると、しっかりと肉厚な手首は、やはり骨も大きくて、そこから繋がる掌の骨は、指先まで堂々としていた。
 手の甲には、いくつか小さな傷跡が見える。右の拳のところには、いちばん盛り上がっている中指に、小さな星を貼りつけたような、白い傷跡が目立った。
 誰かか、何かを殴ってできた傷なのだろう。承太郎らしいと、花京院はひとり笑う。
 きっと、足や腕の他の部分にも、そんな小さな傷跡が散らばっているのだろう。その傷跡のひとつひとつを、承太郎の制服の下に想像しながら、花京院はゆっくりと下唇を舌先で湿した。
 承太郎の指先が、花京院の掌を探る。くすぐったいとちょっと肩をすくめると、その動きのどさくさのように、引き寄せられていた手が、承太郎の口元へ運ばれた。花京院は、驚いて、薄く唇を開いた。


 自分の、高い頬骨に、花京院の掌を添わせる。
 もっと近く引き寄せられたのに驚いたらしい指が、少し丸まる。けれどかまわずに、頬に触れさせると、観念したように、頬の丸みに添ってくる。
 ひやりとしていた掌は、じきに承太郎の体温でぬくもって、次第に指も伸びてくる。そうして、少し大胆に、花京院の指先が、承太郎の目尻の辺りを探り始めた。
 そう言えば、誰かが自分の顔に触るなんてことは滅多とないなと、承太郎は少し目を細める。
 花京院の指の腹は、まるで傷つけることを恐れているように、とてもかすかに承太郎に触れる。それがひどく心地良くて、承太郎は思わず息を吐いた。
 驚いたのか、花京院の指の動きが止まった。見ると、どうしようかと、迷うように、花京院が承太郎を見ている。花京院の掌に向けて顔を傾けて、承太郎は、そこに頬を軽くすりつけた。
 花京院の掌があたたかい。
 承太郎は、逃がさないように、その掌に自分の手を重ねて、それから、掌のわずかなくぼみに向かって唇を滑らせると、そこで湿った息を、もう一度吐いた。


 承太郎が触れさせた頬や目尻の辺りを探って、骨の形を指先に読む。骨にはぬくもりはないだろうけれど、承太郎の膚はちゃんとあたたかい。
 人の顔に触れることなど滅多とないから、絵に描く時に見る形を、今は指先が視ている。人の質感だと思いながら、花京院はちょっと目を細める。皮膚のあたたかさとなめらかさと、紙の上では現しきれない奥行きを確かめたくて、こめかみの辺りにも指を伸ばす。承太郎の、軽くうねった髪が、ひやりとその指先に触れた。この髪のやわらかさを紙の上に表すには、一体どうしたらいいかと、頭の中に、指に触れている感覚を写し取ろうとする。
 架空のキャンバスに、架空の絵の具で、指先に視ている承太郎を描く。自分の見ている承太郎を、そのままそこに描き出せるだろうかと、色を混ぜ合わせて、髪や肌の色を作って、そうして、花京院の承太郎が出来上がってゆく。
 もっとよく触れたいと、そう思った時に、承太郎が息を吐いた。驚いて手の動きを止めると、まるでもっととねだるように、承太郎が頬をすりつけてくる。それから、ふっくらとした承太郎の唇が触れて、その息のあたたかさに、花京院も思わず息を吐いた。


 花京院の指の間から、思わず見つめ合う羽目になった。
 承太郎は、花京院から目をそらさずに、握った花京院の掌に、もっと強く唇を押し当てる。ややふっくらと盛り上がった指の付け根から、指の腹に向かって、注意深く花京院の反応を観察しながら、滑らせる唇の間から、そっと舌先を差し出す。
 舐めて、それから、花京院の指のやわらかいその部分を、きちんと痛みを感じるだろう程度に、噛んだ。
 承太郎は、花京院が肩をすくめたのを、じっと見ていた。それでも手は逃げずに、歯列を食い込ませた承太郎の唇の間で、かすかに震えたままでいる。
 噛んだその指の肉を、承太郎は舌先でまた舐めた。
 そのまま、肉だけをしごくように、指先の方へ唇が滑る。そうして、たまたまざらりと触れた感触に、それが中指で、妙な形に変形しているらしいそれが、ペンだこだと気がついて、承太郎は、花京院を見つめているまま、その指を噛んだまま、にやりと笑う。


 まさか掌を舐められるとは思わず、挙句に指を噛み始めた承太郎を、花京院は震えながら見つめていた。
 承太郎の白い歯が、きりきりと指の腹に食い込むたびに、骨と皮膚の間で、風の吹き抜けるような音が聞こえる気がした。
 噛みちぎられるような、そんな痛みではなく、やわやわと肉だけを味わうような、そんな承太郎の噛み方に、まるで食べられているような錯覚に陥って、花京院は強く目を閉じる。
 承太郎の歯とあごなら、花京院の指くらい、根元から噛みちぎってしまいそうに見える。中指の欠けた手は、思い浮かべるととても間抜けな形に思えて、ひどく淋しげに感じられた。
 承太郎が欲しいなら、指の1本くらいと思って、けれど、中指がなくなったら鉛筆も筆も持てなくなって、絵が描けなくなるなと、花京院は思わず悲しげに瞳を曇らせていた。
 左手が自由に使えるようになるには、どのくらいかかるだろう。承太郎が、噛みちぎった右手の中指をごくりと飲み下して、血に染まった唇をぐいと制服の袖で拭う様は、それはそれで絵になると、ばかなことを考え続ける。
 承太郎の体の中で、皮膚と肉が溶かされて骨だけになった自分の中指が、承太郎の血肉に変わるのだという想像に、花京院はうっかり口元をゆるめていた。


 血の色の上がった花京院の頬の辺りから、目が離せない。
 熱に潤んだ瞳には、まつ毛が翳を落としていて、承太郎が歯を食い込ませるたびに変わる花京院の表情は、そのせいで読み切れない。
 どの辺りが限界かと、それを知りたくて、承太郎はついに花京院の指を、口の中に入れてしまった。
 中指をそのまま、唇の間に招き込んで、アメでもしゃぶるように、舌の上に乗せる。逃がさないようにしっかりと噛んで、そうしながら、舐める。
 舌で確かめる花京院の指の形は、目に見えるそれとは違うような気がして、これはほんとうに花京院の指だろうかと、承太郎は、そこはやけに固い第二関節に、ぎりぎりと歯を立てた。
 痛いと、花京院が眉をしかめて声を立てる。確かに花京院の声だ。それなら確かに、これは花京院の指なのだろう。
 承太郎は、花京院の手をしっかりとつかんで、噛み切るように歯を立てるのを、まだやめない。


 生暖かく、承太郎の舌が、中指全体を包み込んでくる。唾液に濡れて、承太郎の口の中で、滑る。
 ほんとうに食べられているのだと、そう思うと、背骨の付け根の辺りが、うるさくざわめいた。
 熱いのは、承太郎の息ではなくて、自分の呼吸の方だ。花京院は、知らずに頬を染めていた。
 承太郎の口の中にあるのが、指だけではないような気がして、ろくでもない自分の想像を恥じながら、目を伏せる。
 まるでそのことへの罰のように、承太郎の歯が、ぎりぎりと関節に食い込み始めた。締め上げるように、骨を噛んで、痛みに声を上げても、承太郎は一向に力をゆるめる気配もない。
 承太郎のあたたかな舌が、花京院の指を濡らす。食い込む歯が、骨を鳴らす。
 花京院がまた声を上げると、やっと唇がゆるんで、真っ赤なそこから、濡れた白い指が、ぬらりと引き抜かれる。
 その色合いに目を奪われていると、引き抜いた指の回りに、ぐるりと見事な歯形が残っていることに気づくのが、一瞬遅れた。


 「・・・痛いじゃないか。」
 まだ手を離してはくれない承太郎を上目に見て、抗議するようにそう言ってから、花京院はゆっくりと中指を曲げ伸ばしした。
 承太郎に噛まれた指は、赤い歯形に囲まれて、けれど動かすのに痛みはない。
 「いやなら振り払え。」
 いっそう強く花京院の手を握りしめて、承太郎が言う。声に、ふざけている調子はなく、ろくでもない遊びの後だというのに、まだ真剣勝負の続きのように、承太郎の頬の線が、奇妙に固いままだ。
 腕半分の距離は、抱き合うには少し遠すぎて、突き放すには近すぎる。
 承太郎の唇に向かって背伸びをするのをやめて、花京院は、代わりに承太郎の手を取った。
 手を取り合った形になったのに、承太郎はちょっと驚いて、まだ自分の歯の跡で赤い花京院の指を、自分の手の中に改めて見下ろしてから、次に何が起こるかと、肩の力を抜いた。
 花京院は、承太郎の指を、親指の腹で何度も撫でながら、ゆっくりとそこに顔を近づけて行った。そして、承太郎の手に残る傷跡ひとつびとつに、唇を落とす。
 うやうやしい接吻のような花京院の仕草に、承太郎はまた驚いて、丁寧な扱いには慣れないので、居心地悪さに、ちょっと肩をいからせた。
 「なにしやがる。」
 抗うわけではなくて、ただ照れ隠しに声を低めると、承太郎の手に顔を伏せたまま、花京院が瞳だけを上向かせた。
 「・・・いやなら、振り払えばいいじゃないか。」
 平坦な声に、けれど口元はうっすらと笑っている。
 承太郎の言葉を写してからかうのは、花京院のいつもの手だ。
 歯形の残る花京院の指を強く握りしめて、承太郎は、ちょっとだけ唇の端を吊り上げた。
 「食えねえ野郎だな、てめーは。」
 「君に食われてたまるもんか。」
 ほとんど間を開けずに切り返しながら、花京院は、承太郎の手の中で、中指をぎりっと折り曲げた。
 絵筆が動く様と同じほどなめらかな花京院の手指と、荒事にばかり始終使われている承太郎の手が、今触れ合っている。
 もっと親密な触れ合い方をするには、もう少し時間が必要なふたりだった。
 承太郎の、濡れた舌の感触を思い出して、意外と鋭い指の感覚に、花京院は、未知の自分をさらけ出されたように感じて、うっかり湧いた好奇心を抑えるのに、今は必死になっている。
 花京院の唇を、自分の指先で割り開きたいと思いながら、ほんとうにしたいのはそんなことではないのだと、承太郎はけれどそこからは必死で心をそらす。
 重なる思惑は、今はまだすれ違っているとふたり一緒に思い込んで、唇を重ね合わせるだけで精一杯だ。
 手は触れ合ったまま、絡まる指が、主たちの思うところを指し示している。まるでふたりの分身のように、手指は、まだ見えないふたりの未来を探り合っている。


戻る