天国の階段

 奇妙に頼りない感触があるのに、足元はしっかりとしていて、けれど何か靄のようなものが足首辺りから掛かり、実のところ足元ははっきりと見えない。
 普段なら、歩くたび足にまとわりついて鬱陶しいコートの長い裾が、今はまるで微風になびくように、ちょうどよく前へ進む足を避け、気分良く歩けた。
 いわゆる機嫌がいいとも不愉快だとも、不思議なほど気分は波打たず、どこかあやつり人形めいた自分に自覚があり、承太郎は、自然に足が進む方へ、かすかに疑問を抱きながらも歩き続けている。
 空気は澄んでいる。車のようなものはまったく見当たらず、そもそも他に誰の姿もなく、歩いているのが、果たして道なのかどうかもはっきりしない。
 方角はこれでいいのだと、何の根拠もない確信がある。歩き続ければいいのだと、頭の隅で自分が言う。
 本で見たり読んだり、あるいは頭の中で想像したり、周囲の景色はそれらとそれほどかけ離れてはいず、やはり自分はここへ来たのかと、肩越しに振り返って承太郎は思った。
 突然前方に、ささやかな入り口のようなものが現れた。
 少しばかり凝った造りの、洋風の家にはよくある、細身の金属を組み合わせた両開きの門だ。上部は丸みを帯びて、近寄らなければわからないけれど、承太郎の身長とさほど差はないと思える高さに見えた。
 それがぽつんと、そこへ立っている。金属は、元々そういう色なのか、あるいは塗られたものか、艶を帯びて黒々と、ここに夜や昼と言うものがあるのかどうかはわからないけれど、どこから降って来るとも知れない光を浴びて、ひどく華やかに輝いている。
 そしてその門扉の前に、なぜそんなものがあるのかわからない、短い階段がひとつ。4段か5段か、さして高さもあるようには思えず、門扉の艶やかさとは対照的に、素っ気ないコンクリートのように見える、冷え冷えとした灰色をしていた。
 その真ん中の段へ腰掛け、膝に肘を乗せ、そして掌にあごを乗せて、いかにも待ちくたびれたと言う風の、学生服の少年がひとり。
 最後に見た時よりも、むしろ健やかそうに見える顔色で、腕に隠れて見えない緑色の制服の腹へ、承太郎は目を凝らした。
 「承太郎。」
 弾んだ声に合わせて、腰が軽く上がる。立ち上がり、記憶よりも華奢に見えるのは、それは過ぎ去ってしまった時間のせいだ。この年頃の少年の、学生服姿など久しぶりの承太郎は、16、7と言うのはこんなにもまぶしく見えるものだったかと、思わず細めた目の上へ腕を上げる。
 「花京院。」
 近づく歩調が、知らずにゆるむ。それでも前へ進みながら、もう長いこと、声には出していなかったその名を、小さく呼んだ。
 花京院の腹に傷はなく、けれど目を細めて眺めれば、目を縦に切り裂いた傷跡は残っている。瞳は避けたその傷は、痛々しいよりも、ややそぐわない重みのようなものを花京院に与えていて、少年くささと、現実離れしたような理知的な空気が、不思議な調和で花京院を囲っていた。
 憶えているままだ。25年だ。承太郎は、足を進めながら、口の中でだけつぶやいていた。
 「やあ、承太郎。」
 階段のいちばん下へ着き、そこから花京院を見上げる。3段目に立つ花京院は、ちょうどふたりが肩を並べた時の倍ほどの差で承太郎を見下ろし、その後に言葉は続かない色の薄い茶色の瞳が、何もかもを承太郎に伝えて来る。
 「君も、来てしまったんだな。」
 「ちと、時間が掛かったがな。」
 それが変わらない癖で、帽子のつばを引き下げて、目元を隠しながら言う。再会の照れくささよりも、今にも泣きそうな自分の表情を隠すのが目的だ。
 「もっとゆっくり来ればよかったんだ。」
 「おれが選んだわけじゃない。」
 ぴしりと背筋を伸ばして、どれほど気を抜いているように見えても、指先までぴりぴりと神経が行き渡っている。こんなところへ来てさえ、花京院のそんな様子は変わらず、承太郎は、数えて来た自分の歳を忘れて、無意識に17の頃へ戻っていた。
 まだ階段へは足を掛けずに、承太郎は花京院を見上げ続けていた。
 17にならずに逝った彼と、25年の後に、やっとここへ来た承太郎と、変わっていないはずもない承太郎を、花京院は一目で見分けて、そして承太郎は、自分の記憶の確かさに今驚いている。
 憶えているままだ。姿も、顔形も、声も、そして、承太郎を見る時の、瞳の色も。制服の色や、裾のなびき方さえ、何も変わっていない。襟の硬さも、触れればきっと思い出すだろう。
 この時を、指折り数えて待っていた。けれど承太郎は、まだ、もう1歩花京院へ近づくことをせず、階段の手前で、じっと花京院を見上げている。
 「ここは、それほど悪いところじゃない。時々雨も降る。とても優しい雨だ。皮膚が少し湿る程度の、霧のような雨だ。」
 そう言う花京院の声の底が、わずかに震えている。声変わりを完全に終わらせなかったための不安定さが残る、今の承太郎の耳には、ひどく稚なく聞こえる声だ。そしてその震えは、同時に、その霧雨とやらが、地上で承太郎がひそかに流せずに耐え続けた涙なのだと、花京院が知っていることを表わしてもいる。
 花京院は恐らく、様々なことを知っているのだろう。今日、ここへ承太郎がやって来ることも、恐らくずっと以前に知っていたに違いない。承太郎が待ち続けていたように、花京院も待ち続けていた。それが決して、希望に満ち満ちた未来ではなかったとしても、待ち続けることをやめられなかったふたりだった。
 花京院に、1日も早く会えることを、承太郎は望むべきではなかった。承太郎に1日でも早く会いたいと、花京院は願うべきではなかった。けれどそれはふたりの希望であり願いであり、25年を経てやっと聞き届けられた祈りでもあった。
 喜ぶべきことではない。ここへは生者は来れない。死ななければ会えないふたりは、その時を迎えて、心が弾むのを抑えるのに必死だ。
 ふと承太郎の耳に、音楽のような声が、注ぎ込まれるように直に響いた。
 その少年は、おまえのことばかりを話していた。おまえがどんな人間で、どんなことをしてどんなことを言って、そしてどんな風に一緒に時間を過ごしたのか、その少年は、ずっと語り続けていた。彼のおかげで、我々はおまえのことを、おまえ自身よりもよく知ることになった。
 そうか、とその声に応えて、承太郎はやっと階段のいちばん下の段に、ブーツの爪先を乗せる。
 手伝うつもりのように、承太郎の前に、花京院の手が差し出された。
 手を取り、軽く引き寄せられ、まるでひとりではそこへ上がれない風に、花京院の手を借りて、承太郎は階段を一段上がった。
 背中から、何かが滑り落ちて行った。何か重みのような、嵩張る荷物のような、そんなものが、承太郎の背中から滑り落ち、確かにどこかへ消えてゆく。すっと軽くなった体に一瞬慣れず、承太郎は目を閉じるように長い瞬きをして、目を開けても花京院が消えていないことに安堵したように、取られたままの手をそっと握った。
 「ここへ入ったら、今ある怪我や傷は全部治る。痛みもなくなる。もう、苦しまなくてもいいんだ、承太郎。」
 苦しみなどもうどこにもない。花京院に会った瞬間から、まるで何もかも洗い流してしまったように、承太郎の内側はすっかり透明になって、ぽっかりと空いていた穴も、今では手探りで跡すら見つかりそうにない。
 胸を通り過ぎてゆく冷たい風と、その風が鳴らす自分の骨の鳴る音を、もう聞かなくてもいいのだ。
 自分の体が、半分欠けてしまった感覚。ちぎり取られた断面を、見つめ続けなければならない苦しみ。傷は塞がらず、血も止まらない。その何もかもが、この瞬間にすべて終わった。
 承太郎は、もう一度花京院の手を強く握りしめた。
 「承太郎。」
 門をくぐろうと先を促すと言うわけでもなく、花京院が承太郎の名を呼んだ。
 階段2段分の差のまま、花京院がゆっくりと承太郎へ体を傾けて来る。触れていた手を外し、代わりに、花京院は両掌でそっと承太郎のあごを包み込み、自分へもっと近づくように軽く持ち上げた。
 息が掛かると思う間もなく、唇が触れ合う。承太郎の帽子は、上向いた拍子にずれて、花京院の額に押されて背中を滑り落ちた。呼ばれるまでもなく現れた青い手がそれをつかみ、その青い手に向かって、翠の触手が伸びて来る。
 触れるだけの口づけを交わすふたりの背中から伸びる青と翠の手が、ふたりを一緒に抱き込むように、光を集めて輝いている。
 唇を、わずかだけ遠ざけて、花京院が薄く微笑む。
 「行こう、承太郎。」
 自分から離れた花京院の手をまた取って、承太郎は、おう、と短く弾んだ声を出した。
 2段目を飛ばし、3段目に、跳ねるように上がり、花京院と肩を並べる。右と左に並んで、自分の周囲に懐かしい空気が甦るのを、承太郎はそこで胸いっぱいに吸い込んだ。
 爪先を同時に4段目に掛け、しっかりと手を繋いだまま、花京院が先に門に空いた方の手を伸ばした。
 承太郎はもう振り向かず、花京院と一緒に門を開き、ふたり一緒に、大きく開いた門扉の向こうへ、揃えた爪先を滑らせて行った。

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