hereafter

 固くて小さい、座り心地の悪い椅子に腰だけ乗せ、ずるりと背中を滑らせた行儀の悪い姿勢で、承太郎は右膝に左のくるぶしを引っ掛けて座っていた。
 傷だらけの革靴の先を、まるで音楽でも聴いているように軽く振りながら、けれど膝は一緒に動いたりしないようにして、軽く開いた両腿の上には、白布に包まれた、小振りの箱。承太郎の爪先が動くにつれて微かに揺れて、けれど音はしない。
 承太郎は、深く下げた帽子のつばの陰から、その箱をじっと下目に見ている。
 わずかにとがらせた唇の間から、小さな口笛が奏でるのは、承太郎が唯一知っているStingの曲だ。全部は知らない。歌詞も知らない。曲の始まりとサビの部分だけ繰り返して、承太郎はそうやって、この椅子に大きな体を押し込めてから、ずっと口笛を吹き続けている。
 単に、自分の飛行機の出発を待ちくたびれて、諦め半分のその気持ちを表しているような態度にも見える。
 混血の承太郎を除けば、他に東洋人らしい乗客の姿はなく、承太郎をそうと見分けるだろう日本人の姿などさらにない。
 だから、この場の誰も、今自分のの膝の上のこの箱に、焼かれた骨が入っているなど想像もしないだろうと承太郎は思う。。
 できれば陶器の壷状の容器に、なるべく白木の箱を、そしてそれを、できるだけ真っ白な真新しい布に包んでくれと、承太郎は頼んだ。
 SPWは否とは言わず、承太郎の望みを精一杯叶えてくれた。
 最初に手渡されたそれは、折り紙か何かのように白布に包まれていた──どういう風にとは言わなかったからだ──から、受け取ってから承太郎が、直の経験はまだなくけれど見覚えているように、布の四辺を箱の上で結んで形を整えた。
 布は、承太郎が期待したようではなく、端はそれなりにかがってあったけれど、きちんと真四角というわけには行かなかった。
 苦労してそのややいびつな四辺を合わせながら、その布の形と、織り目の整然とは揃わずにでこぼこと不規則にぶ厚い無骨さが、ここが間違いなく異国であることを承太郎に思い知らせ、日本ではない、それこそ地球の裏側で命を落とした花京院の、無念さとか淋しさと言ったものではなく、ただ何か、やるせない気分を、承太郎は代わりに味わったような気分になった。
 少なくとも、花京院の遺骨を納めたそれは何もかも真新しく清潔で、湿気のない砂漠の国のここは、まさしく焼かれて肉も何もかも落ちてしまった骨の乾いた白さそのもので、終日太陽に晒されるすべては、花京院の遺骨とそれを納めた骨壺の清浄さ同様に、さらさらと手応えなく、ただぎらぎらと強烈だ。
 花京院と呼べば、なんだ承太郎と答える。行くぞと言えば、行こうと言う。あるいは、言葉などいらず求めもせず、こちらが期待した通りに行動する、そんな男だった。
 今は、あの腹に大穴の開いた体もなく、ただ白い骨になって、承太郎の膝の上にいる。
 箱の中で、音も立てず気配もなく、求めに応じるハイエロファントも同じように、どこにいるとも知れない。
 花京院。承太郎は口笛を止めて、箱に向かって呼んだ。声に出したつもりだったけれど、唇が動いただけだった。
 声にしなければ、聞こえない。聞こえなければ答えられない。答えがなくても不思議ではない。呼んでも答えないのは、ただ承太郎の声が聞こえないだけだ。
 花京院。
 なんだ承太郎。
 返事がない。あるはずもない。承太郎の声は聞こえない。届かない。花京院には届かない。
 おい、花京院。
 今度は、きちんと声にした。小さな声だったけれど、それは確かに承太郎の声だった。そして、箱は無言のまま、花京院の返事はない。
 おい、聞こえねえのか。
 声には出さず、まだ口笛にも戻らず、承太郎は頭の中で言った。
 おい。
 聞こえねえのか。
 あるいは、聞こえないのは承太郎の方なのかもしれない。花京院の声が今聞こえないのは、承太郎の耳に届いていないだけなのかもしれない。互いの声が届かないほど、ふたりは隔たってしまったのかもしれない。
 あちらとこちら。彼方と此の方。ふたりの間を阻むのは、河だろうか砂漠だろうか。それとも、果ても見えない海だろうか。
 案外とそれは、ただ地面に引かれただけの、1本の線なのかもしれない。そこらにある石が木切れか、あるいは指先で、土の上に戯れに引いた、腕の長さほどもない、ただの線。その線の、こちら側とあちら側。そんな線をまたぐことなど、造作もないことのはずなのに、承太郎はその線の手前、こちら側に立ち尽くしたまま、ただ動けずにいる。その線を越えて進めば、花京院に会えるかもしれないのに、体が動かない。足が前に進まない。
 向こう側。声の届かない、あちら側。
 翠の光が、承太郎の視界の中をよぎった気がする。
 承太郎は無意識に、スタープラチナを呼び出していた。
 承太郎の背後に現れたその薄青い巨人は、承太郎の見ている虚空を一緒に眺めて、スタンドの思念をそこへ送る。言葉を持たない巨人は、他のスタンドとそうやって意思を交わし、けれどスタープラチナの思念も、承太郎の呼び掛け同様に、どこにも届かず誰も応えず、ただ空しく宙を漂う。
 唇と舌すら持たないハイエロファントは、そう言えば表情の浮かぶ瞳すら持たなかった。滅多と己れの意思──本体である花京院の意思──を表に出すことすらしなかったあれは、一体最初はどうやって生まれたものなのか。
 言葉は持たなくとも、主同様喜怒哀楽の激しいスタープラチナは、まさしく承太郎の現し身だったし、ひっそりとあらゆる場へ溶け込むハイエロファントは、いつも控え目だった花京院そのものだ。
 花京院と一緒に消えたハイエロファントは、生まれた時から花京院に寄り添い、たった17年でも、承太郎が花京院と分かち合ったたった50日に比べれば、ずいぶんと一緒に長い時間を過ごして来たのだ。
 17年も一緒にいれば、わざわざ交わす言葉ももう必要ないのだろうか。表情すらなくても、互いの考えがわかるのか。
 そうやって、承太郎は自分の両親と、ジョセフとスージーQのことを考えた。彼らはいつか、承太郎に教えてくれるだろうか。時間の長さは大事だ。けれど、たった50日であっても、永遠のように通じ合えることもあると、理解してくれるだろうか。
 50日の旅の後で、死に様を目の当たりにし、遺体を焼き、骨を拾い、その骨を抱いて日本に帰る。もうきっと、こんな風に誰かに関わることはないだろう。誰かの骨を、こんな風に抱えて、どうか応えてはくれないかと、呼び掛け続けることもないだろう。
 肋骨が1本半、粉々に砕け散って跡形もなかったという花京院の体。内臓と筋肉の一部も砕け失せ、繋ぎ合わせて繕うこともできず、腹の大穴は、塞げないままだったそうだ。
 遺体の保存のために、室温を下げてある遺体安置室で会った花京院は、制服を脱がされ、きれいに血を拭われた分色褪せて、抱き上げれば確かにあるはずの重みが、どこかへ消え去ってしまったように見えた。
 花京院が目を傷つけられ、うろたえながら膝に抱き上げた時の、あの確かな重みは、確実にこの世から奪い去られていた。あの時触れた血は確かに温かく、花京院の体は、承太郎の腕の中で確かに充分に重かった。
 骨になれば、掌一杯分ほどに軽くなる。魂の重さは、焼かれて灰になって、煙と一緒に空に上がる。空気に漂うほど軽く、焼かれた魂は、そうやってこの世のどこかをさまよい続けるのだ。
 花京院。
 答えがないのを承知でもう1度呼んで、承太郎は10数えてからスタープラチナを自分の中に引き戻した。
 唇をとがらせて、また口笛を再開する。
 膝の上の箱に、優しく抱えるように手を添えた。
 おい花京院。なんだ承太郎。呼べば応える。
 行くぜ。ああ行こう。一緒に並んで歩き出す。
 承太郎の隣りは、今は空だった。
 おい花京院。返事はない。
 どこにいやがる。応える誰もない。
 膝の上の箱は、手応えもないほど軽い。抱きしめても、それは固く承太郎の腕や胸に突き刺さる。耳を寄せれば、かさこそと、灰と骨の揺れる音が聞こえる。
 やっとすべての手続きと準備が終わったらしいジョセフが、向こうから承太郎を手招きしている。
 いかにも面倒げに肩を持ち上げ、のろのろと立ち上がり、花京院の骨を胸の前に、それだけは大事そうに抱えて、承太郎は向こうにいるジョセフに向かって歩き出す。
 これから乗る飛行機の便名が騒がしくアナウンスされ、自分を手招くジョセフの隣りに並びながら、一度だけ、承太郎は花京院の肩があった辺りへ視線を流し、それきり、口笛もやめてしまった。
 掌の中の花京院の骨の軽さを、ちょうどあの穴の開いたと同じ辺り、自分の腹に押しつけて、呼び掛けても誰も応えない無音の気配だけが背後に通り残され、承太郎は、この砂漠の国からの最後の1歩のために床を蹴った。
 制服の長い裾を、風などないはずの空港内の空気がそよがせたけれど、承太郎は振り向かなかった。

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