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 「まだ起きてやがったのか。」
 寝乱れた髪をくしゃくしゃかきまぜながら、承太郎が立っていた。
 たった今ひとりのベッドから這い出て来たのか、パジャマのズボンの片足が、ふくらはぎまでまくれ上がっている。素足で寒くないかと、板張りのキッチンとの境にいる承太郎の爪先を見て、花京院はぶるっと、毛布にくるまれた肩---その下には、ご丁寧に、承太郎の大判の半てんを着ている---を震わせた。
 「キーボードがうるさかったかい。」
 そんなはずはないと思いながら、丸めていた背中を伸ばして、花京院は一旦キーボードから手を離した。
 「何熱心にやってやがる、こんな遅くまで。」
 不機嫌という声ではなく、けれど不審そうに、承太郎が訊く。寝起きでかすれていた声が、そこでやっとはっきりする。
 「いや、ちょっとね。」
 腕を動かしたせいで、少しずれてしまった毛布を、また体にきっちりと巻きつけながら、そう答える花京院の息が白いのに、承太郎が眉を寄せた。
 「暖房くらいつけやがれ。」
 部屋が散らかるし、ぐうたらになるからと、ここにはこたつは---まだ---ない。花京院は、床に座布団を敷き、座卓と洒落た呼び方をされる、いわゆるちゃぶ台の上に自分のノートPCを置き、そのモニタと承太郎を、交互に見ていた。
 「僕ひとりだし、もったいないじゃないか。」
 承太郎が、足音に気をつけて、けれど大きな歩幅で、花京院のそばへやって来る。素早くしゃがみ込んで、毛布の端を握っていた手を取った。
 「冷てえ手しやがって。」
 右手の指先をまとめて握り込み、それから、自分の両の掌の間に挟んで、はあっと息を吹きかけながらこすり始める。
 「いいよ、大丈夫だ。」
 そう言いながら、もうずっと、指先に息を吐きかけながらキーボードを叩いていたことは言わない。
 「まだ起きてるつもりか。」
 花京院の、まだ氷のように冷たい指先に目を凝らして、承太郎が訊く。
 モニタにすっと視線を滑らせ、一拍黙った後で、花京院がうなずいた。
 「そうだな、もう少し。」
 どこか曖昧な表情で応えて、また視線はモニタに戻ってゆく。
 承太郎に取られていない左手は、その間さえ惜しんでキーボードの上に戻り、承太郎が起き出してしまっているから、もう音を気に掛けることもなく、キーボードの下部にあるマウス代わりのタッチパッドに人差し指を当て、何やらまた熱心に、ベージュがかったその画面を見つめる花京院の横顔を、承太郎は、ちょっと面白くない気分で見つめている。
 「コーヒーでも飲むか。」
 花京院の指先の冷たさをどうにかしたくて、承太郎は言った。
 「いれてくれるのかい。」
 花京院の声がいきなり弾む。
 「インスタントだがな。」
 もう深夜を過ぎている。こんな時間にコーヒーをきちんと豆から挽いて淹れる気には、さすがにならない。ちょっといたずらっぽく言った承太郎に、花京院がうっすらと微笑んだ。
 「それならカフェモカにしてくれよ。甘い方がいいな。」
 「おう。」
 そろそろ体が冷え始めていたから、承太郎は早々に立ち上がって、けれど花京院の手には名残りを惜しんで、もう花京院がモニタに集中してしまったのを見下ろしてから、やっと手を離した。
 ぱちぱちと、平たい、厚みのほとんどない、ノートPCのキーボードを叩く、軽い音がする。それにはなるべく背を向けて、承太郎はまず湯を沸かすことにした。
 ほんとうは、エスプレッソとチョコレートシロップを使うのだけれど、そういう本式よりも、家で自分で作って飲む時には、インスタントでいい加減に作った方が美味に感じられる、不思議な飲み物だ。普段は、目をやることすらしないインスタントコーヒーと、すでに砂糖のたっぷり入った、鳥肌の立ちそうなにせもののココア、それを適当に混ぜて、熱い湯を注ぐ。その安っぽい甘さが、寒い日や疲れた夜にはちょうど良いのだ。
 花京院の分は、少しだけコーヒーを少なめに、自分のには、ココアを少なめに、そうして、沸いた湯を注ぐ。湯気にはずっと掌を当てていたから、手が湿っている。その手を、パジャマのズボンで拭ってから、承太郎はカップをふたつ手に、花京院のところへ戻った。
 「ありがとう。」
 テーブルの上に、けれどノートPC本体からは、20cm程度離れたところに、湯気の立つ、甘い匂いのする大きなマグを置く。ありがとうと微笑んだ花京院の口元に、白い息が舞う。
 マグを両手に挟んで、花京院が、それで手を温める仕草をする。その丸まった背中を見ながら、承太郎はすぐ後ろのソファに、そっと腰を下ろした。
 「で、何やってやがるんだ。」
 「ちょっとね。大したことじゃないんだ。」
 「大したことじゃねえ割りには熱心じゃねえか。」
 ずずっと、自作のカフェモカを、承太郎はひと口音を立ててすすった。
 承太郎に背を向けたままで、花京院が軽く肩をすくめる。
 「捨て猫を探してるんだ。無事見つかるのを、みんなで待ってるだけだよ。」
 「みんな?」
 花京院の口からは、あまり聞くことのないその単語に、承太郎は反応する。
 ちょっと唇を尖らせた横顔を見せて、頬の赤みは、熱いカフェモカのせいだけでもないように見えた。
 「大したことじゃないんだ。ちょっと前に、どこかのスーパーの駐車場の植え込みで、ヘソの緒のついた子猫を見かけたって、誰かが書き込みをしてて。」
 ネット上の、どこかの掲示板の話かと、承太郎はちょっと肩の力を抜いた。
 「そんな子猫、拾うわけには行かないから放って来たって言うから、みんながどこだどこだって言い始めて。」
 ただ、その掲示板を、たまたま同じ時間帯に眺めていただけのはずだと言うのに、花京院は彼らを、まるで友人のように言う。
 「そんな小さな子猫を放置って、鬼じゃないかって誰かがレスしたもんだから、きっと場所とかを言いにくくなったんだと思うんだ。しばらく反応がなくてね、みんなでずっと詳細を待ってたんだ。」
 ふん、と承太郎は、またカフェモカをひと口飲んだ。
 「何人か、場所が近ければ保護しに行くって言って、それでやっと最初のヤツが詳しいことを書き込んで、それで今、保護するつもりの何人かが現地に着いて、その植え込みの子猫を探してるところなんだ。」
 モニタを指差して、花京院が言う。言いながら、キーボード上部F5キーを、見もせずに押し続けている。
 「猫のために、こんな夜中にご苦労なことだな。」
 「自分で動ける子猫なら、きっとこんなには必死にならないよ。ヘソの緒がついてるなら生まれたてだろうし、雨が降ってるらしいんだ、そこは。雨の中でそんな小さな子猫が夜明かしなんて、死ぬに決まってるじゃないか。」
 すでにマグを半分空にして、花京院は新たな書き込みがないかと、掲示板をにらみ続けている。
 さすがに、パジャマ1枚では体が冷えて来て、承太郎はひとつくしゃみをした。
 「大丈夫かい? 君まで付き合うことはないよ。ベッドに戻ればいい。」
 声は確かに心配そうだったけれど、視線は相変わらず半分はモニタの方だ。
 きっと、もうそこも冷えてしまっているだろうベッドに、ひとりで戻る気になるわけもなく、承太郎はマグを一気に空にすると、それを、テーブルのあちらの端に、腕を伸ばして置いて、それから花京院の肩を叩いた。
 「ちっと寄れ。」
 「え、何だい。」
 人差し指はF5キーを押しながら、花京院が斜め上を見上げる。
 承太郎は、もうひとつ小さくくしゃみをしてから、花京院の肩に巻いた毛布を引き剥がし、何だ何だと眉を寄せる花京院を座布団から立たせ、座布団を少しだけ後ろへ引き寄せてから、自分がノートPCの前に坐る。
 そうして、たった今花京院から剥ぎ取った毛布を自分の背中と肩に回し、両腕と膝の間を広げて、半てんの袖に両手を交互に差し込んで、納得の行かない表情で立っている花京院を、斜めに見上げた。
 「ここに来い。」
 自分の、立てて開いた膝の間に向かってあごをしゃくり、ようやく合点は行ったものの、やや不満気な表情は消さずに、花京院がぶ厚い毛糸の靴下---ホリィが編んでくれたものだ---の爪先を、そこへ差し入れて来る。
 「こうすりゃ、ふたりであったかいじゃねえか。」
 否定はできずに、花京院が、背中を承太郎の胸に添わせて来る。その花京院の肩の上から両腕を回し、胸に両膝を引きつけた花京院のその足を、承太郎は自分の足でもっと近く引き寄せる。
 何とか、大男ふたりで座布団と毛布の中に収まって、口元を覆う毛布の中に息を吐き出しながら、花京院がまたキーボードに腕を伸ばす。
 「ひとりで書き込んでるわけじゃねえだろうな。」
 薄いベージュの背景に、書き込まれたメッセージの部分は優しいピンクで表示されるその掲示板の、やけに可愛らしい見かけが花京院にはそぐわず、しかもメッセージの名前は全部同じ男名で、まるで吐き出すように書き込まれたメッセージは、どれも短く攻撃的な文体なのが、いっそう奇妙だった。
 「違うよ、何人いるかわからないが、無記名で投稿すると、全部この名前になるんだ。」
 「じゃあ、てめーの書き込みもあるわけか。」
 「・・・僕は見てるだけだ。」
 少し声を小さくして、花京院が答える。
 どれだとは追求しないことにして、承太郎は花京院の肩にあごを乗せ、興味のない素振りで、その掲示板の書き込みをゆっくりとひとつびとつ読み始めた。
 主には、最初に子猫を見かけたけれど放置したというメッセージの主に対する憤りの発言と、今その子猫を探している数人に対する励ましの言葉と、どちらも同じ熱っぽさなのが、見ているだけなら面白くはあった。
 よく理解できない一体感が、確かにそこにはあって、恐らく年齢も境遇も違うのだろう不特定多数の人間たちが、お互いのことなど何も知らずに、こうして、捨てられた猫のために一致団結している。そこに花京院が参加しているのだということが、承太郎には不思議だった。そして、正直を言えば、ほんのかすかに、ほんとうに、ほんのわずか、ここに集っている、名も顔も持たない面々に、嫉妬も感じていた。
 花京院を抱いているのに、花京院はここにはいない。心をネットのどこかへ飛ばして、承太郎のことなど見ようともしない。花京院は、この連中と猫を見守るのに必死で、現実のことなど、すっかり忘れてしまっている。
 吐く息はまだ白いけれど、体はあたたかくなっていた。花京院の冷たい体をじかにあたためているのは自分だと、ちょっと虚勢を張るように思って、承太郎は、知らずにモニタに向かって唇をとがらせていた。
 励ましの言葉の合間に、今そこににいるという誰かが、応えるように子猫捜索の状況を伝えている。見える植え込みは全部見た、見つからない、雨がひどくなっている、早くしないと猫が死んでしまうかもしれない、少しずつ、焦りの色が、投稿される発言の字面に、濃く浮かんで来るようになっていた。黙ってキーボードを押し続ける花京院を毛布の中に抱きしめて、いつの間にか、承太郎も、幸運な進展を、祈るように待ち始めていた。
 「来たッ!」
 花京院が叫ぶ。
 見つけた。生きてる。
 デニムのシャツの裾にくるまれた、小さな白い塊まりがぼんやりと写る、はっきりとしない小さな写真が一緒に上がっている。
 「やったッ!」
 両手を握り拳にして、花京院が思わずガッツポーズを取る。
 サイトをF5キーでまた読み込むと、やったなと言うような祝いの言葉が、すでにずらずらと投稿されていた。どうやら20人以上、花京院と同じように、事の成り行きを見守っていたらしい。
 ヒマな連中もいるもんだなと照れ隠しに思いながら、承太郎も口元がゆるむのを止められない。
 これから連れて帰ってミルクやってあっためる。みんなありがとう、お疲れ。
 シャツの胸ポケットに、すっぽりと納まっているらしい子猫の姿が、またうすぼんやりと見える小さな写真も一緒だ。
 「・・・良かった。」
 大きく息を吐き出して、キーボードには手を乗せたまま、花京院が承太郎の胸の中で体の力を抜いた。
 「死んでたらどうしようって、思ってたんだ。」
 たかが猫1匹のことでと、軽々しくは言えないような、親身な声で花京院が言う。
 「まともな野郎に拾われたんなら、きっと大丈夫だな。」
 同意したつもりで、承太郎はそう言った。
 顔も見えない、見も知らぬ他人が、責任感のあるきちんとした人物だと、なぜ信じられるのかと、心のどこかでそう思ったけれど、捨て猫探しで今夜一致団結していたこの場所に集まる連中---無事に見つかるようにと、祈るように見守っていた面々ばかりだったらしいこの掲示板---には、何か通じて伝わるものがあるのだろう。部外者である承太郎にはわからない、けれど、この掲示板を頻繁に眺めているらしい花京院にとっては、見知らぬ他人ではあっても、心を通わせる仲間と同じことだ。
 承太郎には理解できないその連中を、貶めるようなことを言うのは、花京院を馬鹿にするのと同じことだと理解して、承太郎は口をつぐむ。捨て猫のために、雨の中わざわざ出掛けてゆく必死さを、ここにいて笑うことは簡単だったけれど、その必死さには、確かに小さく胸を打つものがある。素直に、それを感動らしきものだと受け入れて、それを分け合いたくて、承太郎はまた花京院を抱き寄せた。
 「・・・みんな、誰かの正義の味方になりたいんだ。」
 掲示板には、良かった、おめでとうと言う、同じような書き込みがずっと続いている。憤りも焦りも消え、まるで皆で肩を叩いて喜び合っているようななごやかな空気が、無機質なモニタの上にも漂って来る。
 それらの書き込みに目を走らせながら、花京院がつぶやいたのに、承太郎は自分の耳を近づけた。
 「死にかけた子猫を拾うのが、正義の味方なのか。」
 意地悪をするつもりではなくて、実際に世界を救った花京院の言葉とも思えずに、承太郎は思わず問い返す。
 「自分ができることをすればいいんだ。自分が正しいと思ったことを、正しいと思うようにすればいい。誰もわかってくれないと思っても、どこかで誰かが、きっと理解してくれてるよ。そう思わないか、承太郎。」
 自分の首辺りに巻かれた承太郎の腕を、両腕で抱きかかえ、今では翠の光が、キーボードに触れている。
 花京院が、承太郎を見上げるために、首を後ろに思い切り反らした。
 「正義の味方なんざ、めんどくせえだけだ。」
 自分を見上げる花京院の、深い信頼をたたえた視線に照れて、承太郎は素っ気なく言う。
 「君はいいんだ、もう。君はもう、正義の味方をやって、世界を救ったんじゃないか。捨て猫の心配は、他の誰かにしてもらえばいい。」
 花京院の肩を押して、承太郎はそこから静かに立ち上がった。
 寝るためにベッドに戻るのだという仕草で、自分が巻いていた毛布を、花京院の肩に戻してやる。その肩に両手を置いて、
 「じゃあ、今度てめーがどこかの可哀想な捨て猫を探しに行く時は、おれも連れて行け。」
 え、と花京院の唇が開いて、そのまま固まる。
 「寝るぞ、いい加減にして来い。」
 ベッドのある部屋へ向かう承太郎の背中を追うように、座布団の上に正座すると、毛布が滑り落ちるのも構わずに、腕を伸ばして、花京院はひそめた声で叫んだ。
 「いいのか!?」
 振り向いた承太郎がうっすらと笑っているのに、つられて口元をほどいて、花京院は急いで立ち上がり、承太郎のところへ飛んで来る。
 「掲示板にわざわざ書き込んだりはするなよ。」
 「しないよ!」
 微笑んで、自分に抱きついてくる花京院を抱き返して、承太郎はそのまま花京院を、奥へ引きずって行こうとする。
 「承太郎、ちょっと待ってくれ!」
 「待てねえ、ひとりは寒い。てめーも一緒に来い。」
 何か言う唇を、自分の唇でふさいで、軽く抱き上げたまま、もう承太郎は耳を貸さない。
 「電源・・・電源を、コンピューターを消してない!」
 やっと自由になる腕を、明かりもついたままの部屋に向かって伸ばし、花京院が無駄な抵抗をする。
 「ハイエロファントにやらせろ。てめーはおれと来い。」
 「正義の味方のくせに強引だな君は。」
 頬を染めて、もう同意を、体の線で示して、花京院が怒ったように言う。
 足を止め、花京院の額に唇を押し当てて、そのまま、承太郎はつぶやいた。
 「正義の味方はおれじゃねえ。てめえだ。」
 真摯に、誰かに愚かと笑われかねない行動を、祈るように見守っていた花京院の、モニタに据えられていた眼差しを思い出して、承太郎は、心の底からの慈しみを感じていた。
 今度は、照れで頬を染め替え、花京院がうつむく。
 「・・・でも君は、いつだって僕の正義の味方だ。」
 そんな表情と声で言われたら、照れないわけには行かない。承太郎も、薄闇の中で、花京院には知らせずに、頬を薄赤く染めた。
 声だけは低く、またぶっきらぼうに言う。
 「それなら、正義の味方の言うことは素直に聞いとけ。」
 言いざま、今度こそ花京院を腕の中にすくい上げ、もう離さないつもりで、唇を触れ合わせた。
 ほんのしばらく、じたばたと争う音が聞こえて、それから、ひそやかなささやきがその後に続き、それももっとかすかな息遣いに変わる。ある、冬の夜のことだった。


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