彼岸



 肩から君が振り返る。まるで、ここにいる僕の気配を、感じ取ったかのように。
 あの頃から変わらず、君の大きな背中は、いつも静かだ。揺るぎもせず、鉄骨でも通っているのかと思うほど、真っ直ぐに伸びて、それを痛々しいと感じるのは、僕の感傷なのだろうか。
 また夏が過ぎてゆく。
 あの夏の初めに、暑い国々を通りながら、君も僕も、心頭滅却などと気取ったわけではなかったけれど、言い合わせたように、冬服のままの学生服を着て、君のそれは、まさしく不良と呼ぶに相応しく、僕の方はと言えば、古色蒼然とそれ以外に意味も何もなく、今僕の腹には大きな穴が開き、君は時が止まったかのよう---そう望んでいるのだろうかと思うのは、それもまた、僕の感傷なのだろうか---に、学生服に良く似た姿で、何も見てはいないような瞳を、前の方へ据えている。
 君はいつも、うろたえたりもしなければ、慌てたりということもなく、悠然と構えて、どんな時もゆっくりと、その長い足を持て余すように歩く。肩をほとんど揺らすこともなく、あの頃、君の後姿ばかりを見ていたような気がするけれど、あの頃の君と今の君と、その背の表情の何かが違うように思えて、けれど何が違うというのか、僕自身にも説明はできない。
 あの頃の君に、怖いものなどなかったろう。怯むことはなく、恐れることもなく、思ったままに動いて、ただ前へ突き進む。君は正しいことをしているのではなくて、君のすることが正しいのだと、そう悟るまでに、大した時間は掛からなかった。
 ひとりに慣れた僕には、目の前に誰かがいるということが珍しかったし、その誰かが、自分の隣りにいるということは、もっと珍しかった。
 君に慣れてしまった後で、またこうして、ひとりになってしまった後で、僕は、もうひとりきりで時間を過ごすそのやり方を、思い出すことができなかった。
 たった50日だ。17年生きた僕の---短い---人生の中の、たった50日間だった。その50日に、君はどれほど僕の中に深く食い込んで来たのだろう。それ以前の自分自身が思い出せないほど、君と一緒にいるという自分のことを、僕はそうとは知らずにひどく気に入っていた。
 僕が失くしたのは、砕けた骨でも、引きちぎられた筋肉でも、弾け飛んだ内臓でもない。僕があの時失くしたのは、目には見えない何かだ。
 君がまた振り向く。立ち止まって、ほんの少しだけ眉を寄せて、唇が、かすかに動いている。その唇が僕の名を、音にはせずに呼ぶのを、僕の、切り裂かれたことのある目が、けれど確かに読み取る。
 承太郎。
 呼び返す僕の声は、けれど君には届かない。
 腹の傷を、思わず掌で覆う。乾いた血に硬くなった千切れた制服が、がさがさと掌に触れ、けれど長い時間の後にも色褪せることのない僕の制服は、それ以外はあの頃のままだ。
 君があの学生服を着ることは、もう二度とないだろう。君はもう、17歳の高校生ではないし、すでに学生ですらない。過ぎてしまった時間を、君と僕との時間の流れの差を、指折り数えることも、やめてしまって久しい。
 君に触れることは許されはしないから、代わりに、君の足元から伸びる影の中へ、そっと爪先を下ろす。君の影の中へ入り込んで、君と同じ形ではなくても、確実に君と繋がっている、君の一部であるその影の中に、僕は自分自身を収めて、そうして改めて、君の背中の大きさを思い知る。
 無理だと知っていて、僕は君の背中に腕を伸ばした。ちょうど心臓の辺りめがけて、僕の左手が、君の背を突き抜ける。足を2歩前へ踏み出して、君の背中を押すように、けれど伸ばした僕の腕は、何の抵抗もなく君の体の中へ吸い込まれ、僕の腹の傷と同じ具合に、君の胸から飛び出す。
 君はもちろん、僕のそんな不様には気づかず、ただ、それでも空気の変化を感じるのか、ほんのわずか、右肩が下がる。
 君に触れられない僕を、君が感じることはなく、君のスタンドほども、僕の存在はこの世にはなく、この世に残っているのは、僕があの時残した、想いの残滓だけだ。
 腕を抜き戻しながら、できないと承知で、君の心臓を探ろうとする。あの時は、君が---スタープラチナが---、僕の心臓に触れた。動きを止めた、血の通わない心臓を、ごつごつとした大きな、体温のない掌が、包み込んで、動かそうとしていた。
 薄青い巨人の掌だ。君のじかの掌の感触と、とても良く似た、あの掌だ。
 僕は、ことりとも動かない自分の左胸の辺りに、掌を置いて、まるで祈るように目を閉じた。
 忘れたことはない、けれど、薄れてゆくことを止められない記憶の鮮やかさを、わずかでも引き止めたくて、僕はまた、あの掌の感触を思い出している。
 力の抜けた僕の体を抱いて、君は、傷をふさごうとするかのように、僕の背中側の穴を、掌で覆っていた。そうして、少しばかり耳障りな罵りの言葉をわめいて、僕が返事をしないことに、とてもわかりやすく腹を立てていた。
 君の怒鳴り声は別に珍しくも何ともなかったけれど、涙に濡れた頬と、涙にかすれた声は、あんな時でなければ、僕も素直に驚くことができたのだろう。
 君が泣いたのは、あの時きりだ。あれから、僕はずっと君をこうして見守って来たけれど、まるで拭ったような無表情に、もう何の感情も浮かばず、あれきり君は、僕の凍った時間を写し取ったように、色褪せた時間の中を漂っている幻のようだ。
 君は生きている。呼吸をして、巡る血の音を聞いて、力強く打つ心臓は、僕のそれとは違う。スタープラチナが呼び返せなかった僕の鼓動は、あれから君に受け継がれている。君が、それを望んでいたかどうかは、今もわからないままだけれど。
 承太郎。
 僕が生まれて生きたことに、何か意味があったのだとしたら、それはきっと、君を生かすためだったのだろう。
 まるで、僕自身が絶望の具現化であるかのように、僕は生まれたことを喜んだこともなければ、生き続けたいと思ったこともなかった。あっけない死が、すみやかに訪れることばかりを望んでいた、僕の人生だった。そうして、望み通りに短く終わった僕の生は、君の生に繋がって、その中で、僕は死を通して生き続けている。君を通して、僕は、君の中に生き続けている。
 君は、僕を絶望から引き上げて、生かした。50日ばかり、僕の生を引き伸ばし、そうして、この世に希望と呼ばれるものが確かに存在するのだと、君が背中で教えてくれた。
 誰も見せてはくれなかった希望を、僕は、君の背中に見つけた。
 あの50日のために、僕は絶望の中を這い回りながら、自分を殺すこともせずに生き続け、僕の下らない生にも意味があったのだと、そう気づくための、あの50日間だった。
 君を生かすために、僕は生まれて、生き続けて、君と出会った。君に救われた僕の命は、あの時から君のものだった。
 僕は、君を救えたのだろうか。君が僕を救ってくれたように、僕は君を救えたのだろうか。
 君は、僕のために泣いてくれた。逝くなと、僕を引き止めようとしてくれた。狼狽や動揺とは無縁な君が、みっともないほど取り乱して、とっくに止まっている僕の心臓を動かそうと、無謀な試みを、無駄とも思わずに、自分が、誰かにとってそれほど大事な存在になれるのだと、生まれて初めて僕が知った瞬間だった。
 死ぬための旅ではなかったにせよ、予感がなかったと言えばうそになる。僕がそう言えば、君はきっと僕を殴るだろう。君と殴り合いすらできないことを、少しばかり淋しく思いながら、君に向かって苦笑することを、僕はやめられない。君が見えないと知っていて、君の背中に向かう、僕自身にもきちんと理解はできない苦笑だ。僕の生が無意味ではなかったことへのうれしさと、君のそばにいられない淋しさと、そして、君を悲しませていることへの後悔と、何もかもをない交ぜにして、僕の口元に浮かぶのは、君に向かう苦笑と、僕自身への苦笑だ。
 あれから君は、泣くことも笑うこともしなくなった。あの50日の間に僕が学んだ、さまざまな表情を持つ君の仏頂面は、今はただの、ほんものの無表情にすり替わり、僕でさえ、時折君の感情を読み取るのに苦労する。
 君の無表情に僕が読み取るのは、恐ろしいほど深い、悲嘆の色だ。僕が長い間抱き続けていた絶望の色と、それはとてもよく似ている。ような気がする。
 承太郎。
 君は僕を生かし、僕は君を生かした。そのために出会った僕らだった。
 けれど、君はそれを望んだのだろうか。君自身を生かすために僕を生かしたのだと、運命論をあっさりと受け入れてしまえるような君であるはずがなく、だからこそ君は、何もかもを後悔しているのだろうか。
 僕をあの時、生かしたことさえ、後悔しているのだろうか。
 死によって僕---と僕の絶望---は浄化され、そして君は、僕の死によって、失意の苦さと重さを思い知った。
 君の中の何かが、あの時僕と一緒に死んでしまったのだと、君は気がついているのだろうか。
 僕は、まだ君には触れられない。僕と君は、まだ遠い。君が僕に近くなるのは、もっとずっと先のことだろう。その時がやって来るまで、僕はこのまま待ち続ける。君の背中を見守り、いつかまた、君が笑う時を望んで、その笑顔が、僕に振り向けられたものではなくても、その時僕もまた、心の底からの笑顔を浮かべるだろう。
 足を止めて、後ろに伸びた承太郎の影の中から抜け出ると、僕はもう一度、承太郎の背中を見つめた。
 もう行かなくては。
 また会いに来る。けれど今は、また去らなければならない。
 左足を一歩後ろに引いて、そうして、ようやく、歩き続ける承太郎に背を向ける。
 こちらとあちら。重なるのは、ほんのひと時だ。引き剥がすように、前を見据えて、ひとり歩き出す。
 承太郎が足を止めた気配があった。こちらへ振り返っているのだと、振り返らなくてもわかる。けれど、歩く足を止めずに、そちらへ振り向くことはしなかった。
 花京院。
 承太郎の唇が呼ぶ。応えたくて、けれど、声は届かない。
 赤黒く乾いた血まみれの腹の傷に、風の通る音が聞こえる。承太郎と、呼んだつもりの声が、風の音に混じった。今では流すこともできない涙を飲み下して、ただ前を見て、ひとり歩き続けた。


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