ひらがなおだい@Air.


痕 (あと)


 いつも必ず、そこに痕を残す。
 左の二の腕の内側、皮膚のやわらかいところだ。どちらかと言えば色の白い花京院の膚には、いつだって簡単に痕が残せた。
 濃い紅色は、時間が経てば、少し気味の悪い黄色と、黒っぽい紫に変わり、それを、例の腹の傷の治り具合にそっくりだと、花京院が笑う。
 所有のしるしと、そう思ったわけではない。ただ何となく、最初にしてみたその痕が、完全に消えてしまうのが惜しいような気がして、花京院と抱き合うたびに、承太郎は同じところへ唇の痕を残し続けているだけだ。
 皮膚の上に痕が残るのは、つまりは花京院が生きてるあかしなのだと気がついたのは、一体いつのことだったのか。
 いつものように、花京院の腕を持ち上げて、そこに顔を埋めるようにしながら、不意にそんなことに思い当たったのはきっと、胸の近くに触れた耳に、花京院の心臓の音が届いたせいに違いない。
 承太郎は、いつものように紅色の痕をくっきりと残した後で、黙って花京院を抱きしめた。
 どうしたんだ承太郎。
 怪訝そうに、承太郎の厚い肩にあごを乗せて、歳にも似合わない無邪気な声で、花京院が訊いた。承太郎は、黙ったまま答えなかった。
 おまえが生きていて良かったと、そう口にするのは、なぜかはばかられていた。
 引き裂かれて、絶命したはずの花京院が戻って来たのだという事実は、隠しようもなくその腹の傷跡に現れているのに、その傷跡すらいとおしみ---それも、今では花京院の一部だから---ながら、なぜか、花京院が生き長らえたのだということを、承太郎は口にできずにいる。
 死にかけたのだということすら、思い出したくもないのか。花京院を失いかけた、あるいは瞬間とはいえ、確実に喪っていたのだと、そう自覚することが怖ろしいのか。
 水と血に濡れた花京院を見つけた瞬間の、あの、身の凍るような、体の内と外で、空気の消えた真空の瞬間を、承太郎は決して忘れないだろう。
 全身が凍りつくというのは、ただの比喩ではなく、まさしくその通りのことなのだと、知りたくなどなかった。
 指先すら動かせず、声も出なかった。あれを失ったら、自分もその瞬間に死ぬと、予感があった。そうして、その予感通り、心臓は鼓動を弱め、いつでも止まることができると、血の流れをゆるめながら、主の意思に逆らい---あるいは、従い---始めていた。
 自分という存在以外のものに執着することは、そもそも性に合わない。何かにすがらなければならないという弱さは、承太郎のものではなかった。
 少なくとも、花京院に出逢うまでは。
 ありとあらゆる弱さに背を向けて、それが、幼さ---歳相応の---ゆえの意固地なのだとしても、承太郎は無自覚に自分を強いものだと思っていたし、強いということはつまり、失うものを持たずに、何ものにも固執することがないということだから、承太郎は、自分がいわゆる孤独であることを、恥じるという以前に、自覚すらしていなかった。
 ひとりであることを強さのあかしだと誤解するなら、尚更のこと、承太郎は、何ものにも執着しないということに、意識すらせず執着していた。
 実体のあるものに執着するというのは、奇妙な気分だ。
 花京院を抱き寄せながら、承太郎は思う。
 失いたくない、傷つけたくない、傷つくところなど見たくもない、だから、守りたいと思う。けれど守りたいと思うことが弱さなのだと気がつけば、そんな自分を直視できなくて、まるで八つ当たりのように、少し歪んでしまった花京院の体を、穏やかさのかけらもなく押し潰す。
 人の体というのは、思ったよりも丈夫なものだと、ひきつれと縫い跡を刻み込まれて、そこに開いた大穴の名残りを、いつまでもとどめている花京院を自分の下に敷き込みながら、承太郎はいつだって、最後には優しさを失っている。
 一度死んでしまった、もう健やかさの永遠に失われてしまった花京院の体を、思いやろうといつだってしているくせに、気がつけば、腕の中で苛んでいる。抱き寄せるそのこと自体が、花京院を傷つけているのだと思えば、それなら、一体どこまで傷つけられるのかと、花京院を喪うぎりぎりを試したいとそそのかす自分の中の何かは、弱さの発露なのだと、今では気がついてしまっている。
 誰かに奪われるくらいなら、自分で壊したい。失うことすら、他の誰かの手によって行われるということが、承太郎には我慢がならない。
 自分の、そんな執着を、醜悪だと嘲笑う余裕はありながら、花京院を目の前にすれば、一瞬にしてそんな余裕は失われる。何かに急き立てられるように、花京院を抱き寄せて、その体があたたかいことを確かめずにはいられなくて、触れれば、熱を増すことを、自分の皮膚の上に確かめたくて、そこに花京院が、生きて在ることを、承太郎は、一瞬も逃さずに自覚していたかった。
 自分のものではないのだと、そう思わせる、どんな些細なことも許せずに、あの時砕かれてしまった肋骨の数が、今では1本足りないことすら、ひそかに花京院を責める材料になる。
 何もかもが自分のものだと、そう思う根拠がどこにあるのか自分でもわからずに、今では自分のその傲慢さに吐き気すら覚えることができるのに、それでも、醜悪な自分の執着を消せずに、承太郎は、花京院を抱き寄せては、その腕に自分の痕を残す。
 腹に開いた穴の代わりだ。永遠に消えないだろう、体の半分を覆うその大きな傷跡の代わりだ。花京院が、自分の下へ返された---誰によって?---のだというしるしを目の前にして、けれど、その傷を負わせたのが自分ではないということが許せずに、そんな傷を負うことを防げなかった自分が、さらに許せずに、花京院をそんなふうには傷つけられない自分の弱さと、傷つけたくはない自分の弱さと、花京院が傷つくことに耐えられない自分の弱さと、そんな自分の何もかもから、承太郎は、目をそらしたままでいる。
 花京院の傷跡は、承太郎の弱さだ。花京院自身が、承太郎の弱さの具現だ。
 だから承太郎は、心のどこかで、花京院を憎んでいる。憎んでいると思い込まなければ、自分の弱さに飲み込まれてしまう。
 飲み込まれるくらいならその前に飲み込んでやると強がりばかりの後ろで、剥き出しにされた弱々しい自分の姿が、視界の端に見える。
 何もかもが、自分の身が可愛いだけの身勝手だ。
 だからと、花京院の腕に唇を寄せて、そこに歯を立てて痕を残しながら、思う。
 だから、花京院を、完全に自分のものにしてしまいたいのだ。
 自我を溶け合わせて、皮膚も血管も骨も繋いで、内臓を共有して、ひとりの人間の、ひとつの存在になってしまえばいい。そうなりたいと、全身から血の噴き出るほど、強く願う。
 承太郎は、自分の残した紅色の痕を眺めて、そこから少しずつ、花京院を侵してゆく自分のことを想像する。入り込み、絡みつき、交じり合って、いつか、どちらがどちらと分かち難く結びついてしまえればいいと、思いながら、そのやわらかな皮膚を食い破る強さのない自分の弱さを、小さく嗤う。
 自分の弱さを、花京院の中に流し込んで、代わりに、花京院のその靭さを奪い取る。壊されることを厭わなかった、あの花京院の強さと、そこから生還した、何かの意志を引き寄せたあの靭さを妬みながら、それを自分のものにしたくて、承太郎は、花京院と同化することを、かなわないと知りながら、願うことをやめられない。
 それが、承太郎の執着の正体だ。
 承太郎が残した痕を、持ち上げた腕を軽くひねって確かめながら、花京院がうっすらと微笑んだ。
 その微笑みのまま、承太郎の肩を押して、花京院は、承太郎の鎖骨に噛みついた後で、その唇を少し下に滑らせる。
 不自然に引き寄せられ、薄く張った皮膚が縫い合わされたその痕が、承太郎の、肋骨のくぼみの辺りに這う。数の足りない肋骨の分だけ、歪んでしまっている花京院の脇腹の辺りに伸ばした手を、やんわりと拒まれて、承太郎は、傷ついた表情を口元に浮かべた。
 その承太郎に向かって、また花京院が微笑みかける。
 そうして、きちんと数の揃った承太郎の、右側の肋のひとつびとつに、薄くて横に広い唇が触れて、花京院にはない一番下の肋骨の上で、しばらくとどまった。
 唇は、皮膚を食んで、歯列が、骨を噛んだ。骨の形をなぞって、まるで皮膚を剥ぎ取るように、舌が動いていた。
 小さな痛みと、熱と、花京院の呼吸に、じわじわと溶かされているように思って、承太郎は、思わず逃げるように体をねじる。
 ほら、と、ようやく花京院が顔を上げ、また、ひどくきれいに笑った。
 承太郎がそうして残す痕と同じ色が、そこにあった。
 小さく、ぽつりと咲いた花のように、紅色の染みが承太郎の肋骨の上に乗った皮膚に残され、指先を滑らせたそこは、かすかに火照っているように感じられて、承太郎はその熱さに戸惑いながら、花京院に笑い返すことがまだできずにいる。
 互いが、互いのものだと、そう示し合っているに過ぎないその痕には、けれど痛いほど深い意味が込められているのだと、気がついているのは、今は承太郎だけだ。
 作った笑いを頬に張りつかせて、弱さが隠し切れずに、今にもあふれ出しそうになるのに耐えながら、承太郎は、花京院に向かって両腕を伸ばした。
 反った喉に噛みつこうとして、けれど果たさずに、すでに濃く残した花京院の二の腕の痕に、もう一度唇を寄せる。そこから血をすすり上げたい衝動に、ひとり耐えている。



* 2006/5/9午後11時半〜翌午前2時、リアルタイム更新ログ。加筆修正なし。
* BGM by Queensryche from "Hear In The Now Forntier": All I Want/Chasing Blue Sky/The Killing Words/I Will Remember 、by Ego-Wrappin' from "満ち汐のロマンス": Kind Of You

戻る