ひらがなおだい@Air.


とける


 承太郎の部屋で、いつものように、今日はレコードは面倒くさいからと、カセットテープでリピートしていたのは、ずっとStingだった。
 ふたりで、それぞれ気に入ったフレーズに、時折別々に、あるいは同時に耳を引かれながら、承太郎は古い音楽雑誌を、花京院は英和辞典を片手に、承太郎のレコードコレクションから引っ張り出した、怪しげなバンドの歌詞を読んでいる。
 承太郎は、本棚の近く、机のすぐ傍に坐って、花京院は、ステレオの真正面になる位置で、ベッドにもたれて床に坐っている。承太郎の部屋に来ると、ここが花京院の定位置だ。
 今日は承太郎がすぐ隣りにいないのを、少しだけ気にして、辞書のつるつるとした薄い紙をめくるついでのように、ざらざらとした音楽雑誌のページに熱心に見入っている承太郎を、ちらちらと盗み見る。
 何年も前のそんな古い雑誌が、そんなに楽しいのかと、何度かすでに思ったことを、また思う。
 ぷつんと、レコードの針が離れたことを示す音が、回っているカセットテープから、もう何度目か聞こえて、余ったテープの分、オートリバースで再生されるまで、3分くらいの空白がある。
 花京院は、辞書をめくる指先を止めずに、承太郎に声を掛けた。
 「夕べ、ハイエロファントを全部ほどいてみたんだ。」
 あ?と、承太郎が少々礼を欠いたような声音で、手の中の雑誌から顔を上げた。怪訝そうに目を細めて、言っていることがよくわからないと、とても素直にその表情が告げていた。
 「わかるだろう? 足から、全部ほどいたんだ。姿が消滅するほどハイエロファントをほどいたことなんてなかったから、どうなるのかと思って、やってみただけだ。意味なんかない。」
 少し早口に、まるで言い訳するように言って、花京院は承太郎がちょっと目を光らせたのに、ひるみもせずにその目を見返す。
 「・・・どうなった?」
 話しかけられたからには応えなければならないと、こんなところは礼儀正しく、承太郎が訊いてきた。
 花京院はちょっと肩をすくめて、夕べやった、その下らない意味もない馬鹿げたことを思い返して、少しの間遠くを見つめる。
 「別に、特別なことなんか何もない。ただの、きらきら光る翠の紐だ。多分、1kmくらいはあったと思う。糸みたいに細くすれば、もっと長くできるだろう。でもそんな糸、どう使えばいいのかわからない。実用的じゃないな、多分。」
 ほんものはまだ見たことのない、繭の糸のようになるかと、無造作に積み上げた、紐状のハイエロファントグリーンを見下ろして、思った。
 足元から伸びる、平たいリボンのようなハイエロファントは、それがあの姿のスタンドとは思えず、けれどどこか自分を写したようなあの人型よりも、こんなふうに、奇妙に柔らかな鎖のように投げ出されているハイエロファントの方が、自分の本性なのだという気がした。
 こんなふうに放り出しておいたら、どこかで絡まってしまいそうだと、埒もないことを考えてから、人型には戻さないまま、ハイエロファントをするすると自分の中に引き戻した。
 そういえば、法皇の結界を使ったのは、あの時きりだ。承太郎には見せたことがまだないことに突然思い当たって、何だか、とても奇妙な気分になる。
 お互いに、知らないことなどないと思い込んでいるのは、一体どうしてなのだろうか。
 ほどいてしまったハイエロファントの方が、自分により近いと思って、そうして、口から糸を吐く蜘蛛を連想する。
 あの時宙に張り巡らせたハイエロファントの触脚は、正しく蜘蛛の糸のようだったし、そして夕べ、細い糸にしたハイエロファントで、承太郎を絡め取ってしまうことを、考えもした。
 一度に巻きつけば、スタープラチナも激しく抵抗はできないかもしれない。全身を翠の糸に巻かれて、ごろりと丸太のように転がった承太郎---とスタープラチナ---の、星のアザのある辺りに、歯を立てたいと唐突に思って、花京院は承太郎の筋肉の感触を思い出しながら、意味もなく唇を舐めた。
 自分を蜘蛛だと思うことも、承太郎をそうして捕らえて、食べてしまうという想像も、どちらもぞっとせず、埒もない想像にとらわれている自分を、ひとり胸の中でうっそりと笑う。
 辞書の、つるつるしたページを指先に撫でながら、細かな字がびっしりと印刷されたインクさえ、そこに滅多とひっかからないなめらかさに、ハイエロファントの手触りを思い出していた。
 紐ですらなく、糸ほど細くなってしまったハイエロファントが、目の前に、透き通る翠に光って、やわらかく山を作り、それから、それをうまく束ねれば、承太郎そっくりに姿を写せるかもしれないと、不意に思いつく。
 何もかもを、承太郎に悟られないために、また流れ出した音楽に聞き入っている振りで、口には出さずに思い浮かべるだけにして、承太郎そっくりのハイエロファントも悪くはないと、自画自賛の笑みを薄く口元に刷いた。
 「承太郎。」
 花京院は、辞書と歌詞カードを手に、承太郎の方へ、膝を滑らせた。
 なんだと、肩越しに振り返った承太郎に笑いかけながら、その肩へ手を伸ばし、そうして、承太郎の背中に、自分の背中を重ねた。
 「なんだ。」
 また承太郎が訊く。その怪訝そうな声に、小さくもれる笑い声を返して、花京院は、自分の肩を、承太郎の肩甲骨の辺りにごりごりとこすりつけた。
 肩の位置が揃わない。背の高さが違うのだから、仕方がない。
 数秒、何の遊びか花京院がちょっと夢中になっているのに視線を当てて、けれど承太郎はまた、それ以上は何も言わずに、さっきから読みふけっている雑誌に、顔の位置を戻した。
 制服越しの背中が暖かい。血の通った人の体だ。スタンドに体温はないから、今はよけいに承太郎のぬくもりを恋しい。じかに抱き合うには、時と場所を慎重に選ばなければならない自分たちのことを、花京院は少しだけ残念に思った。
 丸まった承太郎の背中に、自分の背中を預け気味にして、花京院は、何度か承太郎の方へ振り返った。
 うつむいて、雑誌の誌面に見入っている承太郎が、自分の方を見ないことに、ひとりで勝手に傷ついて---ほんの、少しだ---、今日ここから自分の家に帰るのが、不意に億劫になる。
 それを口にすれば、なら泊まって行けと、あっさり言われるのはわかっているから、花京院はことさら口元を引き結んで、そんなことは死んでも口にするものかと、けれど承太郎の背中から離れる気にはならない。
 離れたくても、離れられないようになれればいい。体の一部が合わさってしまった双子のように、想像を絶するだろうその不自由さを、承太郎となら分かち合いたいと、ひどく下らない、不謹慎なことを考えている。
 そうなってしまえば、真っ先に不平を口にするのはきっと自分の方だと、わかっていて、けれどかなわないから望んでみるのだと、自分に向かって屁理屈を返す。
 花京院は、今だけは素直さを剥き出しにして、承太郎の肩に、後ろ頭も預けた。
 ハイエロファントの糸で、そっと承太郎を巻いてしまえばいい。承太郎だけではなく、今このまま、自分ごと、ハイエロファントの透き通る翠の糸で、そこから決して逃れられないように、しっかりと巻いてしまえばいい。
 繭か、それとも殻に包まれたさなぎのように、中にいるのはふたりだけだ。そうしてその中で、いつかひとつに溶け合ってしまえばいい。
 手足を絡め合わせて、胸や背中を合わせて、重なる皮膚はいつの間にか1枚になって、内臓も血管も何もかも、どちらがどちらのものともわからなくなる。
 承太郎の心臓の送り出す血が、花京院の血管を満たす。花京院の肺を通った酸素が、承太郎の体の中をめぐる。
 主たちを見習って、極限までほどけたハイエロファントは、きっとスタープラチナと交じり合うだろう。翠と薄青は、まだらに色を合わせて、奇妙な色合いの繭で、主たちを静かに包むだろう。
 溶け合うのは、呼吸と体温だけではなく、いつもそうあればいいと願っていた通り、何もかもだ。
 もう離れることはできない。分かつことなどできない。引き剥がせば、皮膚が破れて、血を吹き出す。その血も、混ざり合ってひとつになったものだ。その血に含まれる酸素は、一体元は、どちらの肺に吸い込まれたものだったのだろうか。
 そんなふうになれないものかと、夢見るように思いながら、花京院は膝の上に広げていた辞書を、静かに閉じた。
 承太郎の背中に体を預けて、そのまま眠ってしまう素振りで、ゆっくりとまばたきをした。
 位置の重ならない心臓がふたつ、それぞれに鼓動を打っている。承太郎の音と、花京院の音だ。生きているあかしのリズムは、ずれる途中で時折ぴったりと重なり合って、その時だけ、力強く体の内側を揺らす。
 子守唄のようにその音を聞いて、花京院は、重くなるまぶたに逆らうまいとした。
 不意に、けれど静かに、承太郎の背が伸びる。
 「・・・重いなら、悪かった。」
 そう言いながら、預けた体の重みを動かすことはせず、花京院は、むしろ承太郎に向かってもっと喉の辺りを伸ばす。
 「テープ、替えるか。」
 承太郎の声に、ステレオの方へ頭をめぐらせ、ついでのように、承太郎の手元に手をやってから、そこに雑誌がないことに気がついて、花京院はちょっと目を見開いた。
 どうやら、読み終わった後も、自分のために動かずにいたらしいと悟って、花京院は初めて承太郎の背中から肩を浮かせた。
 「Zeppelinにしないか。」
 「どれにする。」
 「4枚目。」
 おう、と承太郎が言って、そっと花京院から離れて行く。
 ほとんど迷いもせずに、目当てのカセットテープを見つけて、デッキに入れる承太郎の背中を、花京院はじっと見ている。
 承太郎が、花京院の隣りに戻ってくる。肩を寄せて、両足を投げ出して、互いに寄りかかって、今度は、ぴったりとくっついたままだ。
 花京院は、気配を消して、細い糸にしたハイエロファントを、指先からそっと出した。
 透き通る翠のその糸に、目を閉じて音楽に聞き入っている承太郎が気づくはずもなく、花京院は、その糸を、承太郎の右手の親指に、一周だけ巻きつける。
 これが今は精一杯だ。
 溶け合うという比喩が、比喩でなくなることはないのだろうけれど、それでも、触れ合えば、体は暖かい。体だけではなく、心も。
 ほどけたハイエロファントは、流線を描いて、花京院と承太郎を繋いでいる。
 目を閉じている承太郎に見入った後で、花京院は、4本並んだ自分たちの足に微笑みかけてから、あやすような仕草で、承太郎の髪を撫でた。指に絡む承太郎の髪が、ハイエロファントの糸の手触りに、似ているような気がした。



* 2006/7/12 以前、リアルタイム更新途中で停止していたものに加筆、若干の修正。
* BGM by Color: "Good Bye My Love"

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