ひらがなおだい@Air.


体勢 (たいせい)


 起きた時から、妙だった。
 いつもよりもさらに口数が少なく、そして顔色も冴えず、何かしようとするたびに、歯を食い縛っているのが見える。どこかが痛むのだろうと見当はつけていたけれど、どの程度深刻かわからず、承太郎は黙っていた。
 いつものように服を着替えて、きちんと襟のホックまで止めて、けれど花京院は、素足のままベッドとバスルームを数回往復して、一体何をしているのか、手の中には靴下が握られたままだ。
 「うろうろなにしてやがる。」
 ようやく、そろそろ心配している素振りを見せても、いやな顔はされないだろうと、承太郎はわざと面倒くさそうな語調で、花京院に声を掛けた。
 ああ、と少し慌てたように、肩を丸めて胸の辺りをかばうと、花京院は頬を薄く染める。
 「・・・いや、別に。」
 言いながら、目が泳いで、それを捉えた承太郎に、花京院はいっそう狼狽たえた表情で、丸めた肩をさらに縮めた。
 途端に、また歯を食い縛ったのが頬の線に現れて、やれやれだぜと口の中でつぶやいてから、承太郎は花京院の方へ寄った。
 「どこか痛むのか。」
 いつもなら、身支度を整えるのは花京院の方がはるかに早い。それなのに今朝は、もう承太郎の方が先に支度をすませている。
 手の中の靴下を背中に隠しながら、承太郎から1歩逃げて、花京院が床に視線を落とした。
 「・・・みぞおちが、少し。」
 「少しか?」
 少し強く問い詰めると、花京院はかすかに唇をとがらせて、渋々という表情を隠しもせずに、
 「・・・体が、曲げられない。」
憮然と白状した。
 なるほどと、声には出さずに、承太郎は横顔を見せている花京院の肩越しに、ひとり掛けのソファを眺めて、それに向かってあごをしゃくる。
 「そこに坐れ。」
 人に弱みを見せるのを、死ぬほど嫌う花京院は、それでも承太郎に強い声でそう言われると、悔しそうに唇の端を一瞬だけ曲げた後で、痛みに耐える表情を少しあらわにしてから、ゆっくりと後ろの椅子に腰を下ろす。
 なるべく体を折り曲げない形に、腰の位置を定めてから、
 「貸せ。」
と、承太郎が手を伸ばして来るのに、また一瞬ためらって、花京院は握っていた靴下を手渡した。
 「傷は?」
 床に投げ出された、骨張った花京院の足に向かって、承太郎が膝を落とす。
 承太郎のそれに比べればひと回り小さいけれど、取り上げれば持ち重りがする。花京院が気を使って膝を軽く曲げ、承太郎の手を煩わせずに、爪先を宙に浮かせた。
 「ない。赤く内出血してるが、それだけだ。」
 「腹ん中がどうにかなってたらどうする。」
 ややとがめる口調になって、承太郎は、けれどそこで黙り込んだ。
 花京院の足を取って、自分の膝に乗せて、そうして、爪先に靴下をかぶせてゆく。花京院はもう観念したのか、ソファの背に背中を伸ばして、まるでくつろいでいるように、大きく息を吐いて喉を伸ばした。
 甲の高い、肉の薄い足だった。皮膚の下に、骨の形がはっきりと見える。靴下を履かせながら、えぐれたような土踏まずの辺りに、うっかり指先が触れてゆく。承太郎は、そんな必要もないのに、壊れものでも扱うように、なるべくそっと、花京院に靴下を履かせていた。
 ズボンの裾をたくし上げて、無駄な肉などどこにも触れない花京院の足首と、そしてこれも筋肉ばかりのふくらはぎへ、真っ白な靴下を引き上げて、それから、かかとの部分がきちんと定まった位置に収まるように軽く引っ張ってから、ようやく左足が終わる。
 今度は右足だ。
 承太郎が、花京院の右足を取ろうとするより一瞬早く、花京院がその足を承太郎の肩へ持ち上げ、そして、そこを軽く蹴った。
 濃い眉を少し寄せて、にらむつもりはなく、そんなことをした花京院に、承太郎は目を凝らす。花京院はあごの辺りに指先を添えて、何だか何か面白いものでも見つけたような表情で、うっすらと笑っていた。
 「なんだ。」
 花京院の裸の足首が、今は承太郎の肩に乗っている。それを振り払うことはせずに、承太郎は真っ直ぐ花京院を見つめていた。
 「君をこんなふうに見下ろすなんて、そうあることじゃない。」
 花京院の足を乗せたまま、承太郎は肩をすくめて見せた。
 花京院の足に手を添えて、まるで惜しむように、ゆっくりと肩から膝へ向かって下ろす。花京院の素足に触れるのは、これが初めてだ。首筋や胸元すら普段見せることもない花京院の、剥き出しの皮膚だった。
 うつむいて、花京院の爪先を見ている。骨の形や膚の色を覚えておこうとするかのように、どうして、そんなことを覚えておこうと思うのか、自分でもわからずに、しっかりとした形の、けれど小さな足指の爪を、ひとつびとつ、視線でなぞる。そうしながら、もうひとつ残った靴下で、花京院の素足を覆ってゆく。
 日に焼けた跡もない、常に陽射しを避けている膚の色だ。やや茶色の強い髪の色から考えれば、元々色素の薄い性質(たち) なのだろう。爪の色も、わざとそう塗ったように、白っぽかったと、骨の形にただ皮膚の乗った足首に、靴下を引き上げながら、承太郎は考える。
 冷たい足だ。血の色のあまり見えない、骨と筋肉が承太郎の掌に硬い、もっとずっと眺めていたいような、花京院の剥き出しの脚だ。
 履かせ終わった後で、ズボンの裾をきちんと整えてやってから、承太郎はまだ花京院の右足を膝に乗せたまま、後ろに向かって上体をねじる。ベッドの傍に揃えて置いてある花京院の革靴を、手元に引き寄せるためだ。
 それは、と花京院が椅子の背から体を浮かせた。
 「動くな。」
 きちんと、夜のうちに磨かれたらしい、けれどこの旅の間にずいぶんとくたびれてしまった花京院の革靴を、指先を差し入れて自分の方へ引き寄せながら、花京院が逃げないように、承太郎は膝の上でその甲の辺りを押さえる。花京院は、一度体の動きを止めた後で、またぱたんと、背中を椅子に投げ出した。
 とても長い付き合いだとか、あるいは恋人同士だとか、でなければごく血の親(ちか)い間柄だとか、そんなことなら、こんなふうに、戸惑ったり照れたりすることもないのだろう。足を差し出して、靴---や靴下---を履かせてもらうというのは、何だかとても奇妙な親密さが必要なことなのだと、花京院の爪先を扱いながら、承太郎は考えている。花京院も同じことを感じているのだと、足指が承太郎の手から逃げるように動くのに見て取って、照れくささをあらわにしてしまえば、きっともう、視線を合わせることさえできなくなると、そう思った。
 常に、地面にいちばん近いところにあり、視線からはいちばん遠い足先を手に取って、こんなに近々と眺められるというのは、何かとても特別なことなのだ。
 花京院の爪先を、革靴の中に導いて、少しゆるめた靴紐の揺れる先を眺めているふりで、承太郎は、添えた自分の掌にぬくもってゆく花京院の素足の膚のあたたかさに、帽子のつばの陰で、こっそりと目を細めている。
 革靴の底で汚れるかもしれないことには頓着もせず、承太郎は、自分の膝に花京院の足を乗せたまま、靴の紐を丁寧に結んだ。
 自分で結ぶ時には、いつも蝶々結びが縦になってしまうのを、気をつけて、花京院が結べば必ずそうなるように、きちんと横に結ぶ。ちょっと肩を引いて、その出来に満足してから、今度は右足の方を持ち上げる。
 花京院は、無言で承太郎の手元---と自分の足先---を見つめている。
 ひざまづいて、花京院の足に触れている。花京院の靴を取り上げ、履かせている。息を潜めて、言葉も交わさずに、それはまるで、何か秘めごとのようだった。
 ようやく、両足とも履かせ終わって、もう一度ズボンの裾を整えてから、承太郎は立ち上がる前に、自分のズボンの膝も軽く払った。
 「立てるか。」
 すっかり用意の整えられた自分の足から、そう問われて承太郎の方へ視線を移して、花京院が、平たい声で答える。
 「いや、手を、貸してくれ。」
 言葉と同時に差し出された花京院の手に、今度は承太郎が一瞬戸惑う番だった。
 花京院は、痛むらしい体をかばうように、腹の辺りに掌を当てて、そうして、承太郎にもう一方の手を取られても、もう顔色も変えない。
 花京院の腕を引いて、まるで抱き起こすように腰の辺りに手を添え、承太郎は、花京院をそっと椅子から立たせた。
 「ありがとう。」
 肩の辺りで、静かに声がした。息のかかりそうな近さに立って、このまま抱き合ってしまっても、何の不思議もないように、ふたりは感じていた。
 「行こう、ジョースターさんたちが待っている。」
 促す花京院の声に、ふと我に返って、目の前で体を回した花京院の背に引き寄せられるように足を前に出しながら、承太郎は、さり気なく肩を並べる位置に立つと、花京院の肩に腕を回した。
 承太郎の腕を振り払うことはせずに、むしろ承太郎の方へ体を傾けながら、花京院が、ささやくように言う。
 「ありがとう、承太郎。」
 自分の見上げる花京院の、白い頬にうっすらとひと色、血の色が濃く見えて、承太郎は慌ててそこから目をそらしながら、帽子のつばを深く引き下げる。
 おう、と喉の奥で答えて、掌に触れる花京院の肩の骨の硬さに、膝に乗せた花京院の足の重さを思い出していた。


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