ひらがなおだい@Air.


おもいおもい


 首筋と背中の鱗を光らせて、承太郎がゆっくりと歩いている。
 ただそれだけなのに、地面がかすかに揺れ、周囲にあった小さな気配は、さあっと潮が引くように消えてゆく。
 それに気づいている承太郎は、ふんと言うように大きな肩をそびやかし、そんなこと気にもしていないという無表情で、回りを見渡すこともしない。
 承太郎は、花京院に会いに行くのだ。
 承太郎と同じに、花京院も全身を鱗に覆われて、けれど承太郎と違って、花京院のそれは丸くてやや小さめだ。承太郎の、どちらかと言えば菱形に近いそれは大きくて、だから花京院と首の辺りをこすり合わせる時は、方向と強さに気をつけないと、互いに引っかけ合って痛い目に遭う。
 今では、花京院の白い腹に、うまく自分の胸や腕をこすりつけることができるようになっていた。
 花京院の白い腹、と思って、承太郎は、その冷たさとなめらかさを思い浮かべる。
 体のどこよりもいっそうひんやりとして、承太郎の膚よりもさらに冷たい。銀色の影の差すその腹に、夏になれば承太郎が触れたがり、冬にはその腹を、花京院が承太郎に押し当てて来る。
 そうやって、夏と冬を過ごしたふたりだった。
 承太郎も花京院も、仲間たちと群れることのない種だったから、承太郎は適当な木陰に体を丸めて過ごし、花京院は洞窟の奥に、身を隠すようにひっそりといる。
 承太郎は小さな生きものの肉を好み、花京院は植物を好んだ。承太郎のそれを、花京院は野蛮とは言わず、花京院の好みを、何だか理解できないと承太郎は思うことはなく、明らかに似たような種ではあったけれど、仲間ではないふたりは、何が気に入ったのか、互いの暮らしぶりからは一線置いて、そうやって互いを訪れ合う奇妙な友情を育てていた。
 承太郎よりは体の小さな──とは言え、他の生きものよりはずっと大きい──花京院は、承太郎の大きな体が、自分だけがちょうど納まる大きさの穴には、首を差し入れるしかできないと気づいてから、承太郎と一緒に、承太郎も一緒に入れる洞窟を探し始めた。
 花京院が、そうしてわざわざ洞窟を移ったのは、そうすれば、穴の中で承太郎の、自分よりも温かな体にくっついて過ごせるからだった。冬の前に、それはとても大切なことだった。
 夏に、洞窟の中はひんやりと涼しく──承太郎は花京院の傍で、とても快適そうだった──、冬には承太郎と一緒に、冷たい北風や雪を避けることができた。
 いつものように、まずは花京院のいる洞窟の前で、首だけまず中に差し入れ、花京院を呼ぶ。
 「おい、いるか。」
 いない心配はないのだけれど、一応そうするのを礼儀とわきまえ──どれだけここにいようと、ここはやはり花京院の住み処だから──て、承太郎は奥からの返事を待った。
 「やあ承太郎、すまない、ちょっと寝てたんだ。」
 首を持ち上げた気配があって、それから、引きずるような足音が聞こえて、薄暗闇の中から花京院が現れる。
 ひょろりと長い首、肩幅はあまりなく、長いけれど細い脚は、速く走るためのものではない。承太郎の、動く生きものを捕まえるための体とは、ほとんど正反対に見える造りだった。いつも食べる葉っぱの色を写したように、鱗は優しい緑色──花京院の言葉では、それを青いと称するのだそうだ──だ。
 「起こしたか、悪かったな。」
 花京院の首筋辺りに目を細めて、承太郎は、口先でだけそう言った。花京院がその響きを正確に聞き取って、鼻先の長い口を薄く開けて、ほのかに笑う。
 招くように肩を回し、また中へ向かう。その拍子に、細く締まった体には不釣り合いに長くて太い尻尾の先が、承太郎の、爪の長い爪先をかすめた。
 寝ていたと言う通り、まだきちんと目が覚めていないのか、尻尾を地面に引きずったまま、花京院は歩いてゆく。
 承太郎は、飛ぶように花京院の後ろに追いつくと、その尻尾の中ほどを両手でつかみ、それなりに優しい仕草で取り上げる。
 「引きずってるぜ。」
 「あ? ああ?」
 承太郎を振り返り、薄茶の瞳がまだ眠そうに揺れている。
 見かけの通りに案外と重いその尻尾を、歩みに従って承太郎が持ち運んでいることを、不愉快ともすまないとも思わないらしいのは、寝ぼけて気が回らないせいかと、承太郎はそのまま尻尾を持って、洞窟の突き当たりまで行く。
 顔よりも表情豊かな承太郎の尻尾──花京院のもそうだけれど──が、ぴんと立って、先近くがくねくねと回って動く。うれしいとか楽しいとか、そういう感情を表す承太郎の尻尾の動きに、けれどいつも先に気づくのは花京院の方だったから、承太郎はしっかりと尻尾を背中に引きつけて、不意に振り向いた花京院がそれを見つけてしまわないように、ことさら背筋を伸ばして歩いた。
 入り口から真正面に来て、そこからわずかに曲がった先の、丸い小部屋のようになっているその奥は、花京院の体温のせいか、ほのかに冷えていて、丸まって寝ていたらしい地面の跡へ戻り、花京院はわざわざ手を添えて承太郎が持ったままの尻尾を受け取ると、静かにそこに腰を下ろした。
 「君に尻尾を持ち運んでもらえるなんて光栄だなあ。」
 言いながら、小さくひとつあくびをする。
 「どうした、風邪でも引いたか。」
 やけに眠そうなその仕草に、承太郎はついに心配になって、声にそれを響かせて、訊いた。
 「いや違うんだ。」
 先が尖った尻尾を、くるんと足から腰辺りに添わせて、まだそこに突っ立ったままの承太郎を、花京院が涙のにじんだ目で見上げる。
 「夜明け頃に、あらいぐまの家族が騒いでいてね、どうやら乳離れにもう少し時間が掛かるらしくて、母親が食べ物を探しに行くのを、子どもたちがいやがる声が聞こえるんだ。今朝は、それがいつもよりうるさくて眠れなかったんだ。」
 「なんだあらいぐまか、おれが見つけて食っといてやろうか。」
 承太郎の、極めて承太郎的な反応に、花京院が慌てたように顔の前に前足を上げる。尻尾の先が、同時にぱたぱた震えた。
 「いやいいよ、大丈夫だ。君の食事のメニューに口出しする気はないんだが、あれはもうちょっと育たないと、母親なしでは餓死してしまうよ。」
 あらいぐまの子が今餓死してしまうと、この先君の食料が減ることになってしまうかもしれないよと、そう匂わせて、睡眠不足の原因にも関わらず、幼児と母のあらいぐま家族の健やかな行く末を祈っているのだということは、ひとまず隠しておくことにする。それが花京院の礼儀正しさだ。尻尾の動きであらわなのは、これはふたりの間では仕方のないことだけれど。
 「そうか。」
 短く言って、もうそのことは関係ないと、承太郎が花京院の傍へ寄って来る。
 その承太郎を目で追って、花京院は自分の隣りを前足で叩いた。
 促された通りに、そこへ腰を下ろして来る承太郎のために、長い尻尾の位置を変えて、体の逆側にくるんと巻きつけて、ふたりそうして一緒に並んで、互いに向かって首を伸ばす。足や肩や胸に比べればやや鱗が柔らかな、喉の辺りをこすりつけ合うためだ。
 鱗が引っ掛かったりしないように、角度と強さに気をつけて、こすりこすり、気がすむまでそうして鱗の膚を触れ合わせる。花京院の緑の──青い──鱗と、承太郎の、ほとんど白に近く銀に光る鱗と、かすかな音を立てて触れ合って、洞窟中の、あまり動きのない空気をそっと揺らす。
 時折、気持ちよさげな声のようなものが、それぞれの喉からもれて、それよりももっとあからさまに、ふたりの尻尾は宙に浮いて揺れ、ついには先から互いを見つけて、蔦のように絡み合うことになる。
 ふたりが交わすこの親しげな挨拶は、その後で、舌で口の周りを舐めるとか、前足に噛みつくとか、そういう形で終わることが多い。
 花京院は、承太郎を舐める程度のことしか興味が湧かなかったけれど、承太郎はどうやら、花京院を食べてみたいという衝動に、時折逆らい切れなくなるらしく、鋭く尖った牙を、肩の辺りに立てて来ることがある。
 ちょっとだけ、それだけ、そこだけ、口にはしない言い訳を、ふたり揃って目の辺りに浮かべて、そしてもちろん、こんな時には違う動きをする尻尾が、特に花京院のそれの先が、少し強く地面を叩く音で我に返って、承太郎はいつだって慌てて牙を外す。外して、食い込んだその跡を残す鱗を、またぺろぺろと舐める。
 何となく危ういふたりの友情ではあったけれど、ふたりはそれでいいと思っているし、自分の肩を噛む承太郎を見て花京院は、尻尾を半分か、前足の1本くらいなら、承太郎にあげてしまってもいいかと考えることがある。けれどそう思っていることを、素直に言ったら承太郎を傷つけてしまうような気がして、どうしてそう思うのかわからないまま、花京院は口をつぐんでいる。
 「まだ眠そうだな。」
 花京院の頬を舐めながら承太郎が言う。
 「うん、そうだな、もう少し寝たいな。」
 遠慮なく、とろんとした目を承太郎に向けて、花京院はもう地面に横たわる準備を始める。
 「おれも寝る。」
 ふうん、と花京院はかすかにうなずいた。
 もう何に頓着する風もなく、体を丸めて地面に転がった花京院の傍へ、承太郎も同じように横たわるために、花京院を蹴ったりしないように気をつけながら、ゆっくりと体を伸ばした。
 花京院が、腰の辺りに巻きつけるように引きつけていた尻尾を取り、それを頭の下に敷くために、自分の方へ引き寄せる。
 足の間をくぐったその尻尾を体の前に抱き込み、頭を乗せ、同じように自分の尻尾も脚の間をくぐらせて、花京院の方へ差し出してやる。
 頬を撫でるそれに気づいた花京院が、もう半ば眠りかけていた目を薄く開き、腕の中に抱いて頭の下に敷き込む。
 承太郎よりは小さな体をそこに丸め、承太郎は、その花京院をやや囲い込むような形に体を曲げ、大きくはないその小部屋のような空間で、ふたりは一緒に昼寝をする。
 夜が更けたら、ふたりで一緒に外へ出掛けるのだ。花京院は、果物は木の葉っぱを食べに、承太郎は、花京院とは少し離れて、小さな生きものを狩るために。
 今夜はあらいぐまは避けてやろう。承太郎はそう思った。
 そうしていつか、花京院がいつも食べている、緑色の葉っぱや何か酸っぱい匂いのする赤い実を、一緒に食べてみたいと思うのだ。それを食べる花京院はどんな味がするのだろうと、眠りに落ちかける瞬間に思ったけれど、承太郎はそれを覚えてはいなかった。


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