背中

 一緒に校門を出て、その途端承太郎が煙草を取り出し火をつける。一応、校内では大っぴらには吸わないことにしているらしいけれど、この制服姿で下校中では、結局は同じことではないかと思いながら、花京院はもう咎めてやめさせるようなこともしない。
 歩くにつれ、承太郎が吸って吐く煙は後ろへ流れてゆき、そうしながら、花京院の制服にも匂いを残す。
 その匂いに気づいたのは、たまたま家にいた母親が、ただいまと花京院が台所へ入って来た途端に、振り向いて顔をしかめた時だった。
 誰も煙草を吸わない家庭で、けれど母も父もよく仕事先からその匂いを持ち帰っていたから、花京院にはその匂いがさして奇異でもなく、けれど高校生の制服に残る臭いとしては最悪の類いだからと、その時母親には一応釘を刺された。
 付き合う友達はちゃんと選べと、煙草の匂いのことを言う時の母親の気持ちを言葉の外に聞き取りながら、花京院はそれには気づかない振りをして、煙草を吸おうと吸うまいと、不良と言われようと言われまいと、承太郎が承太郎であることには変わりなく、その承太郎が、花京院にとってはとても大事な友人であることにも一向に変わりはない。それをわざわざ言葉を尽くして説明するほどの、熱意は母親に対してはなく──まだ、思春期は終わっていないから──、花京院はいつものように、聞き分けの良い子の笑顔を口元にかぶせて、ああそうだねと応えただけだった。
 承太郎といることで受ける誤解は、花京院にはさしたる問題ではなく、別に承太郎と一緒に歩きながら煙草を吸うわけでもなく、必要なら喧嘩の加勢をするにやぶさかではないにせよ、自分から売ることも買うこともしない。世間が心配する、不良に染まって非行に走るという可能性は、花京院に限ってはとても低かった。
 人通りの少ない、一方通行の道へ入ったところで、
 「おい。」
 承太郎が、花京院へ軽く肩をぶつけて来た。
 「なんだ。」
 2本目の煙草へ火をつけたばかりの承太郎は、それを唇から外しもせず、端にくわえたまま、花京院の足元へ向かってあごをしゃくって見せる。
 承太郎の視線に促されてそちらを見れば、何の変哲もない革靴が見えるだけで、なんだと花京院は顔の位置はそのまま、承太郎へ首をねじ曲げる。
 「靴ひもが、解けてるぜ。」
 1服吸ったのを、ゆっくりと吐き出しながら承太郎が言った。しゃべる時にはさすがに煙草を唇から離して、それでも言葉が終わった途端に、それは唇へ差し戻される。
 「ああ、ほんとうだ。」
 しゃがむために体をかがめようとした途端、落ちかけた肩に承太郎の掌が乗り、それを止めた。
 「おれが結んでやる。」
 どうしてわざわざと、訊こうとする前に、目の前にずいと吸いかけの煙草が差し出された。
 「持ってろ。」
 どうやって受け取るべきかと一瞬だけ悩んで、いつも承太郎が吸う時にはそうしているように、人差し指と中指の間に挟み込んだ。
 承太郎は制服の裾をさばいて大きな仕草で花京院の足元へしゃがみ込み、そうしながら、脇に挟んでいた薄い学生鞄は地面に置いて、立ったままの花京院の足へもたせ掛ける。
 何だ、僕は君の荷物持ちか。
 ちょっとおかしくなって、花京院は心の中でひとりごちる。
 帽子のつばで手元は隠れてしまい、けれど小さく動く承太郎の肩の動きで、細い靴紐をつまみ上げて、結ぶために丸めたりまとめたりしている動作が目に見えるようだった。
 自分の指の間にある承太郎の煙草は、似合っているような恐ろしく不似合いのような、今これを口元にでも持って行くところを誰かに見られれば、明日から自分も立派に不良の仲間入りだと、そんなことを考える。
 それから、また承太郎の丸まった背中へ視線を移し、花京院は煙草の匂いを鼻先に嗅ぎながら、盛り上がった肩胛骨の辺りへ目を凝らした。
 わざわざ、地面近くに大きな体を折り畳んで、ほどけた花京院の靴の紐を、花京院のために結び直している。単なる気まぐれだと言う風でいて、そうでないのは、花京院がいちばん良く知っていた。
 実のところ、腹の傷のせいで、今も体を動かすのに手間が掛かる。走ったり飛んだりはなるべく避けているし、体を前に折る時も、いつも腹の辺りを押さえてゆっくりとやる。しゃがむのは普通にできるようになっているけれど、今度は起き上がる時が大変だ。
 承太郎はそれを知っている。学校の行き帰りと、校内であちこちへ行く時も、ずっと一緒の承太郎が、きっと今はいちばん花京院の体のことをわかっているだろう。
 家でちらりとしか会わない、自分の両親よりも、と花京院は思った。
 ただベッドに横たわっているのが精一杯で、ろくに声も出せなかった花京院を、承太郎はよく憶えている。その頃は痛みと熱でいつも朦朧としていた花京院よりも、それをずっと見ていた承太郎の方が、いろんなことを鮮明に記憶していた。
 図書室で、用もないのに花京院のそばにいて、背伸びが必要な棚には承太郎が腕を伸ばし、いちばん下の棚にある本が気になれば、承太郎がかがみ込む。
 さすがに、体の大きさでさり気なくと言うわけには行かないけれど、それでも押しつけがましくはならないように、花京院が気を悪くしないようにと、気を使っているのは微笑ましいほどあらわだった。
 一緒にいれば、異和感で目を引かずにはいないふたりだ。
 花京院にとっては、選んだからこその友人だった。承太郎だから一緒にいる。承太郎が不良だろうと、他校の生徒からも恐れられて避けられていようと、自分がそれに染まる染まらないは埒外で、そんなことも、いつかは母親にだって笑って話せる時が来るだろうかと、あまり好意的には解釈してもらえない、自分と承太郎の関係を考える。
 そうして、では承太郎はどうだと、ふと思った。
 承太郎はなぜ、自分のそばにいるのだろう。こんな風に、まるで敬いすらするような所作で、花京院の足元にかがみ込んで、こんな姿を、彼を恐れる連中に見られるのは恥ずかしいことではないのかと、まだ丁寧に靴紐と格闘しているらしい承太郎の丸まった背中を改めて眺める。
 同情されているのだとは、不思議に思いつかなかった。承太郎が、同情や憐憫で心を動かされる人間ではないと、旅の間に思い知っているからだ。
 それなら、なぜ。
 花京院が爪先を突き出せば、迷わず唇を近づけて来そうな、そんな雰囲気すらある。
 やっと、足の甲が軽く締め付けられた感触があった。
 立ち上がった承太郎は、花京院の指から煙草を抜き取り、まるで待ちかねていたように、深く吸った。厚い胸が呼吸にふくらんで、花京院はなぜかそれを正視できず、するりとそこから視線を外して、車が来ないか気にしている振りをする。
 女の子たちがよくそうしているように、手を繋いだり抱き合ったり、人目はばからずじゃれ合うような、あんな親愛の表現が、自分たちの間にないことを心底残念に思って、旅の間にはジョセフが、よくそうやって自分たちにじゃれ掛かっていたことを思い出す。
 ジョセフの腕の長さも固さも、きっと承太郎とよく似ているのだろう。
 まるで片思いみたいだと、不意に思いついて胸が騒ぎかけた時、承太郎が行くぞと声を掛けて、先に肩を回した。
 その背を慌てて追いながら、自分の方へ流れて来る煙草の煙を、承太郎が吐き出したものだと思って、花京院は胸の奥へ向かって吸い込む。
 目の前の承太郎の背中を思う様抱きしめたいと思って、伸び掛ける腕を止めるのが、今は精一杯だった。

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