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* くららさんから強奪した素敵トニ億に、台詞をつけさせていただきましたー☆

繋ぐ手

 今日はほんとうに面白くない日だった。
 昼休みに、ちょっと学校を抜け出してアイスでも買いに行こうぜと仗助を誘いに行くと、女の子たちに囲まれて、内のひとりに何やら弁当箱らしきものを差し出されている場面に出くわした。仗助は別にありがたがっている風もなく、それでもいらないと断るのも悪い気がして困っているのが遠目にも分かり、億泰はひとりで唇をとがらせてその場を離れた。
 放課後は仗助と連れ立って下校する気にもならず、校舎の裏へ向かう辺りでちらりと康一と由花子の後ろ姿を認め、けれど足は止めずにそのまま校門を出た。
 トニオの店に、カプチーノを飲みに寄ろうとしたら、今日は休み──定休日ではない──とドアに小さな黒板が下がっていて、億泰は思わずドアを蹴飛ばしそうになった。
 しょうがないとそのまま家に帰り、少し早かったけれど夕食の準備に取り掛かって、食卓に皿を並べてから父親を呼ぶと、テーブルに乗った料理にまず顔をしかめ、指先をくたくたに煮た野菜の中に突っ込んで味見めいた仕草をしてから、父親はさらに眉の辺りを寄せた。
 昼間から溜め込んでいた苛立ちがその辺りで上限を振り切れ、いかにもまずそうにちびちびと食べ始める父親から、料理の皿を取り上げてしまいたいと思ってから、
 「まずけりゃ無理して食うなよ。」
 忌々しそうに吐き捨て、父親が丸い肩をすくめる仕草がいっそう神経に障り、そして自分もひと口食べてから、億泰はまずいと思わずつぶやいた。
 入れた塩が明らかに多過ぎた。そのくせ出汁はまったく効いていない。ああくそと、箸の先をぎちぎち噛みながら思う。
 父親はそんな億泰を上目に見て、身を縮めるようにして、ぼそぼそと夕飯を食べている。
 味噌汁だけはそれなりで、それで何とか一膳分の米を胃の中へ押し込み、いつもなら皿をきちんと舐めてきれいにする父親が、煮汁は残したまま立ち上がり、億泰も父親もご飯のお代わりはせずに、ごちそうさまも言わずに食事を終えた。
 汚れた食器は放ったまま、上手く出来なかった夕飯で食が進まずまだ空腹が残り、億泰は菓子でも買って来ようともう暗い外へ出る。
 何でもいい、インスタントラーメンくらいまだ食べられるだろう。それなら億泰だって失敗はしないはずだ。
 ただでさえ侘しい、父親──化け物の姿の──とふたりきりの食卓で、食事の味までああではただひたすら気が滅入る。
 形兆の作る食事は素晴らしく美味いと言うことはなくても、億泰の作る風にまずくて食べるのに苦労すると言うことはなく、おまえは頭が悪いんだから、手伝いは後にしてまず勉強しろと言われ続けて、形兆の生きている間に料理の手伝いをしなかったことを億泰はひどく後悔していた。
 形兆が生きていれば、こんな風にインスタントラーメンやらジャンクフードやらを求めて、夜の街をふらふらする必要もなかったろう。
 仗助みたいに、弁当を差し出してくれる誰かもいない。
 あにきィ・・・。
 億泰は両手をポケットに突っ込んで、背中を丸めて、まるで雨に濡れた野良犬みたいにとぼとぼしょぼくれた姿で歩いていた。
 店に向かうつもりで、いつの間にか駅を越えて繁華街へ出てしまい、酒を飲むために仕事帰りの大人たちのたむろうそこで、学生服の億泰はいやでも目立ってしまう。
 化粧の濃い女たちが甲高い声でさんざめいている傍を通り過ぎながら、彼女らがちらりとも自分を見ないことに勝手に傷ついて、億泰はちぇっと舌打ちをした。
 何の取り柄もない自分は、ただただひとりぼっちだ。誰も自分のことなんか見もしない、ここにいることにも気づいてくれない。
 億泰を気遣ってくれるのは、死んだ形兆だけだった。仗助だってきっと、こんな億泰よりも、弁当を作ってくれる可愛い女の子とつるむ方がいいに決まっている。
 同じようにひとりぼっちの父親と、ひとりぼっち同士、まずいメシを一緒に食って生きて行くんだ。オレにはそれがお似合いだ。尖った革靴の先へ向かって視界が狭まり、それがぼやけて、鼻をすすり上げるのに唇を引き結んだ時、どんと体がよろめくほど強く何かに突き当たる。
 電柱にでもぶつかったかと思ったら、チンピラの見本のような大人の男が3人、
 「クソガキ、前見て歩きやがれ。」
 道いっぱいに広がって歩いていたのはそちらだけれど、避(よ)けなかった億泰が悪いらしい。
 「あぁ?」
 気分の悪さが、そのまま声に出た。億泰の歪(ひず)めた声音に、男たちが一斉に頬の線を歪めて見せる。
 億泰の、これも分かりやすい不良高校生の風体に、凶暴さをそそられたのかどうか、酒を飲ませる店の裏口がいくつか並ぶ細い路地に、彼らは素早く億泰を引きずり込み、口の聞き方を教えてやるとか、いきがるなとか、俺たちを誰だと思ってるとか、そんなことを口々に言いながら拳を飛ばして来た。
 クソガキと、100回くらい言われたと思った。
 億泰も反撃したけれど、3人相手では羽交い締めにされて終わりだ。スタンドを出すことだけは、普段承太郎に戒められているから、絶対にしなかった。
 殴られながら、形兆ならどう言うだろうと、億泰は考えている。スタンドを使って半殺しにしろと言うか、それとも承太郎と同じように、普通の人間にはスタンドを絶対に使うなと言うのか。形兆ならどうしたろう。おとなしく殴られるのだろうか。今の億泰がそうしているように。
 さすがに高校生ひとり相手に本気を出すのは大人気ないと思うのか、男たちの拳は、数は多くてもそれほど衝撃はなく、鼻も頬も折れず、ただ派手に鼻血を流して億泰がそれにむせた辺りで、ようやく腕が体から外れて行った。
 「さっさとウチに帰って、カーチャンのおっぱいでも吸って寝ろクソガキ。」
 「ちゃんと起きて学校行けよ。」
 「寝坊すんなよ。」
 男たちは口々にそんなことを、笑いと一緒に残して、立ち去ってゆく。路地を抜けた彼らの姿は、すぐに猥雑な雑踏の中に溶け込んで、億泰の視界の中からすっかり消えてしまった。
 「いってェ・・・。」
 放り出された建物の壁に、何とか背中を伸ばして、痛みはしても動かすのに支障はないことを確かめながら、億泰はふと自分の右手を見下ろした。
 何度か殴り返しはしたけれど、スタンドは出さなかった。その手は汚れたり傷ついたりする間もなく、億泰は左手で鼻血を拭い、触れた拍子に左頬が痛んで、すでに腫れ始めているらしいそこを鏡で見るのも鬱陶しいと思う。
 ハンドは使わなかったぜェ・・・。
 誰に向かってか、そう胸の中でひとりごちる。それから、小さくため息をこぼした。
 そのため息のかすかな音へ、静かな、けれど素早い小走りの足音が重なる。あの男たちがまた戻って来たのかと、怯えはなくただ不愉快さだけで、億泰は上目に自分を覆う影を見上げた。
 白い、大きな掌が、目の前に差し出されていた。
 「億泰サン・・・。」
 母音のくっきりとした、どこか歌うような響きの、優雅な声。今はその雅びな調子はいかにも心配げに重さを増して、体を折って近づく彫りの深い顔の、大きな瞳が億泰をいたわるように見つめて来る。
 大丈夫でスカと、声が続く。なんでここにいるとか、なんでわざわざこんなオレに声を掛けに来たとか、問いたいことは山ほど浮かんだのに、億泰は不貞腐れた気分のまま、ただトニオとその手を見返している。
 きれいに丸く爪の刈られた、トニオの手。泥や油の染みなどなく、誰かを殴るために握られたこともないような、トニオの手。誰かのために美味い料理を、魔法のように作り生み出すその手。
 目の前にいるトニオが、ひたすら遠かった。声はすぐそこから降って来るのに、億泰はどれだけ手を伸ばしてもトニオへは届かないように、自分たちはそんなにも隔たってしまっているのだと勝手に考えている。
 億泰が応えないのに落胆した様子もなく、トニオは手を差し出したままでいた。そして、
 「・・・帰リまショウ。」
 さっきよりも深い声で、さっきよりも声の底をしっかりとさせて、トニオが言う。
 億泰は、考えながら知らず舌を動かしていた。言葉を探して、そうすると切れた頬の内側が痛み、飲み込んでしまった血の味が喉の奥へ蘇って来ると、途端に傷の痛みが体のあちこちで聞こえない声を上げ始めて、素直に泣きたい気分が湧き上がって来る。
 まだ満たされてはいなかった胃が、痛みと一緒に空腹を訴え始める。そうだ、オレは腹が減ってたんだ。美味いものが食べたくて、腹を満たしたくて、そして淋しくて、腹の飢えと心の飢えと、それを一緒に全部満たしたかったんだ。
 そんな風に、整然と考えついたわけでもなかった。何か食いたい。殴られた傷が痛い。ひとりで立ち上がるのも億劫で、ひとりきりここでひと晩中うじうじしてたって構わない、そんな投げやりが全部ごちゃごちゃと頭の中を満たしていたのを、突然現れたトニオとトニオの差し出した手が、全部振り払ってくれたのだ。
 「帰りマショウ、億泰サン。」
 辛抱強く、トニオが繰り返す。
 少しだけ、まだしょぼくれが残っていて、億泰は意地悪く問い返す。
 「──帰るって、どこに?」
 ふっと、トニオが微笑んだ。頬を優しく撫でてゆくそよ風のような、そんな笑い方だった。
 「ウチにでス。」
 さも当然のように、トニオが言い切った。笑顔と同じほど、優しい穏やかな声だった。
 億泰は、右手を使う暇がなかったことを今は心から感謝しながら、トニオへ向かってほとんど傷のない自分の手を伸ばした。
 腕を引かれて立ち上がり、雑踏へ向かって細い路地を、トニオと一緒に抜け出してゆく。
 少々いかがわしい人混みの中でふたりの手は繋がれたまま、骨肉と言う言葉を知らない億泰は、トニオの手の大きさとあたたかさに、幼い頃自分の手を引いて家まで歩いた形兆の、いつもずっと大きかった背中を思い出している。
 骨と肉を分け合った兄である形兆の手と、トニオの皮膚のやわらかさが、ぴたりと億泰の胸の中で重なった。これは、血を分け合った形兆の手ではなかった。けれど、あたたかさは同じだった。
 「なんであそこにオレがいるってわかったんだよ。」
 トニオから半歩だけ遅れて歩きながら、億泰はやっといつもの調子を取り戻しながら訊く。トニオは軽く億泰の方へ振り返り、吐く息で顔の半分を白く隠しながら、その紗幕の向こうでにっこりと笑う。
 「スタンド使い同士ハ、引かレ合うソウでスから。」
 引かれ合うと言う言い方が、イタリア語訛りのせいかどうか、億泰の耳には少し違う意味のように響いて、トニオの笑顔につられて億泰もにっと笑い、それで走る痛みももう気にはならず、
 「カプチーノ飲みてーな。」
 トニオと肩を揃えながら、億泰は軽口を叩く。
 「傷の手当てガ先デス。」
 たしなめるように、トニオがぎゅっと億泰の手を握る。負けずに、億泰もその手を握り返す。
 星は見えない夜だったけれど、ふたりの帰る道は十分に明るかった。

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