避暑



 暑いなあと、ぱたぱたとTシャツの襟を持ち上げて、花京院はずっと涼しい空気をそこに送り込もうと、長い間無駄な努力をしていた。
 額の汗を拭う腕は、べったりとノートに張りついて、これでは勉強どころではない。
 広い広い空条邸には、家族が集まる居間やキッチンの近くにしか、エアコンがない。
 自分の部屋に、テレビもビデオもゲーム機もエアコンも電話も、すべて揃っている花京院には、本来あるべき姿の子ども部屋---もちろん部屋の主は、とっくに子どもなんて卒業してしまっているけれど---である、基本的には机と本箱と寝る場所しかない承太郎の部屋で、夏休みの課題に取り組むというのは、思った以上の苦行だった。
 ノートやテキストのページを飛ばさないように、背中の位置に、花京院のために扇風機が1台、窓際でもう1台、部屋全体のために、せわしく首を振り続けている。
 「やかましい、黙ってやれ。」
 部屋の主と言えば、高校時代の膝に届く長ランで暑さ馴れしているのか、大して汗もかかずに、ベッドの上で壁に背中をもたせかけて、大学のテキストなのか、見慣れないタイトルの本を読んでいる。
 こんな時に頼みの綱のホリィは、花京院と入れ違いに、少しばかり出掛けてくると笑顔で出て行ってしまった。
 暑さにも関らず、花京院がここへ来たがるのは---もっとも、花京院宅へ承太郎が招待されるということは、ない---、承太郎の大きなステレオが目当てだ。
 父親のお下がりだというそれは、プロのミュージシャン---しかも、ジャズだ---である彼が選んだだけあって、10代の子どもの持ち物のレベルではなく、最新のものではないとは言え、膝を折った自分と同じほどの背の高さのスピーカーから流れ出る音を一度聞いた後では、親や近隣の家々に気を使いながら音量すら上げられない、自分の小さなコンポでは何を聞く気にもなれない。
 買った時に一度カセットテープに落としてしまえば、レコードの方はきちんと棚に並べて、滅多と触れることはない。ジャケットや歌詞カードを見たいと言う機会にだけ、まさしく壊れ物として、そっと棚から引き出すだけだ。他人にレコードを貸すなど、赤い雪が降っても、まず起こらない。
 その、門外不出のレコードコレクションを、花京院は、ここにだけは持ち込んでくる。
 今日はポリスとスティングのお気に入りをそれぞれ1枚ずつ、今プレイヤーに乗っているのは、そのうちの1枚だ。そして、そろそろ終わりに近づいていた。
 「暑い・・・。」
 腕を持ち上げると、ぱりっと音がして、一緒について来たノートのページが、少し湿った色を見せて、テーブルの上に落ちる。
 承太郎が、ぱたんと大きな音を立てて、読んでいた本を閉じた。
 ベッドを下りて、大きな体に似合わない静かな動きでステレオの方へ行くと、ようやく終わったレコードを、花京院に背を向けたまま、丁寧な手つきでジャケットに戻すと、プレーヤーの下にずらりと並んだ自分のレコードの中から1枚取り出して、無言でターンテーブルの上に乗せる。
 「あ! 何だよ! 勝手に君の番なのか! 僕に一言ぐらい---」
 「やかましいッ! てめーのはもう2枚とも聞いちまっただろうがッ!」
 「じゃあ、明日はもっと持って来るよ!」
 「・・・やれやれだぜ。」
 承太郎は、花京院にかまわずにレコードの針を動かすと、そのまま部屋を出て行こうとする。
 「おい、承太郎、どこに行くんだ。」
 「すぐ戻る。レコード換えたら承知しねえぞ。」
 承太郎がいなくなると、そう広くはない部屋はがらんとして、もしかして冷たい麦茶でも持って来てくれるのだろうかと、表面にかいていた汗もすっかり乾いているガラスのコップを、花京院はちらりと見た。
 ノートの上に視線を落としてから、それから、ステレオから流れてくる、奇妙に荘厳なベースの音に、また顔を上げる。その瞬間、鼓膜を引っかくような、ハードロック特有のギターのフレーズが始まって、花京院は慌ててあごを胸元に引く。
 「何だこれ。」
 承太郎のコレクションの音の中では、比較的おとなしめの音ではあったから、うるさくて聞けたものじゃないと、そんな憎まれ口は叩かなかった。
 ギターの音はともかく、後ろでやたらとうねるベースの音が気になって、うっかり勉強へ戻ることも後回しにして、花京院は、テーブルからステレオの傍へ、膝を滑らせる。
 太い声は、好みかどうかは少しばかり微妙で、けれど耳触りは、決して悪くはない。
 誰だろう。そう思って、承太郎がどこかへ置いて行ったはずのレコードジャケットを探す。ステレオの上に置いてあったそれを見つけて、その、暗青色のジャケットに大きく書かれた、Blue Murderという名前を、声に出して読んだ。
 「・・・どうしてこう、ハードロックのバンドって、名前のセンスがこんなに・・・」
 少しばかりため息をついてから、ジャケットの中から歌詞カードを取り出す。
 ベーシストの名前を見つけて、聞き覚えがあることに気づいて、ひとりで頭をひねった。
 「誰だっけ・・・トニー・フランクリン・・・誰だったけな。」
 ギターもドラムも、聞いたことのない名前だ。もしかすると、音からの印象通り、このベースはいわゆるハードロック畑のミュージシャンではないのかもしれない。フレットレスベースに間違いない音を耳に止めて、それとも名前が前面には出ない、スタジオミュージシャンの類いかもしれないと考える。まさかスティングのアルバムで弾いていたことでもあったろうかと、持っているアルバムのクレジットを、全部思い出そうとしてみた。
 気がついたら、ジャケットを手に、床に軽く伸ばした指先で、リズムを取っていた。
 思ったよりも夢中になっていたのか、承太郎が戻って来た足音にも気づかず、いきなり頭上に気配が近づいて、花京院はひとりでびっくりした。
 「なんだ、気に入ったのか。てめーにしちゃ珍しいな。」
 言葉の通り意外そうに、承太郎が声を降らせる。
 「これ、ベース誰だい。」
 「トニー・フランクリン。」
 さすが承太郎が即答する。
 「いや、名前じゃなくて、何をやってたとか、どこで弾いてたとか。」
 傍に立ったままの承太郎を見上げて、またジャケットに視線を戻す。アルバムは、そろそろA面の終わりに近づいていた。
 「これの前はファームで弾いてた。」
 「ファーム? えーと・・・」
 それも聞いたことがある。考える目つきになった花京院に、また承太郎がさっさと答えた。
 「ツェッペリンのジミー・ペイジがやってたバンドだ。ポール・ロジャースがボーカルで---」
 「ポール・ロジャース?」
 「フリーの・・・って、てめーにゃ、バッド・カンパニーって方が通りがいいか。」
 「ああッ!」
 やっとすべてが合致する。ジミー・ペイジなら花京院にもわかる。そしてバッド・カンパニーは、好きではなくても名前は知っている。軽々とすごい声で、ものすごい音程で歌う、あのボーカルのことなら、花京院も知っている。
 「すごいな、そんなバンドで弾いてたのか。」
 「そっちもすげえが、このバンドもすごいぞ。」
 承太郎が、立ったままで体を折って、花京院の手からジャケットを取り上げる。
 「ドラムは、ジェフ・ベックと一緒にやってたことがあるし、ギターの野郎はガキの頃から有名だぜ。ホワイトスネイク脱けてから、その後に作ったバンドがこれだ。歌もそいつが歌ってる。」
 ジャケットを返してくるのを受け取りながら、また花京院の頭の中にクエスチョンマークが飛ぶ。
 「・・・ホワイトスネイク?」
 承太郎が、やれやれと小さく言った。
 「ディープ・パープルで歌ってたデヴィッド・カヴァーデールのバンドだ。そっちのメンバーもすげえぞ。」
 デヴィッド何とかは知らないけれど、ディープ・パープルで、やっと花京院は知った名前を耳にして安堵した。
 そんな話をしているうちに、A面が終わる。針が上がったプレーヤーを見て、花京院は、承太郎がB面に換えるだろうことを期待して、うっかり大きな瞳で上を見上げた。
 承太郎は、レコードには触りもせず、坐ったままでいる花京院のシャツの肩を引っ張った。
 「来い、休憩するぜ。」
 「え、B面聞かないのかい。」
 せっかくなら続けて聞きたい花京院が、さっきまで暑いと文句を言い続けていたことなどすっかり忘れた様子で、もう部屋を出ようとそちらに肩を回している承太郎を、非難するように見上げる。
 「てめえ・・・。」
 承太郎は、低い声でうなってから、花京院のあぐらの足を、大きな歩幅でまたぐと、机の引き出しから何か取り出して、
 「来い。」
 花京院のシャツの首を強く引っ張った。
 「行く! 行くから引っ張るな承太郎ッ!」
 ジャケットを、元あった通り、ステレオの上に置いて、花京院は承太郎に引きずられて、部屋を出て行った。


 中庭に面した和室を通り抜けて、縁側には、麦茶の大きなグラスがふたつ、それから、子ども用のビニールプールに水が張ってあって、そこには、溶けかけた氷が泳いでいた。
 ほれ、と承太郎は、花京院を縁側の方へ押して、自分は縁側に坐り込むと、ジーンズの裾を膝までめくり上げ始める。
 花京院もそれにならって、剥き出しにした足を、そろりと、透明な水の中にひたす。
 「何なら、ここにノート持って来るか。」
 「勉強にならないよ、それじゃあ。」
 花京院は、うれしそうに声を立てて笑った。
 水の中で足を遊ばせて、きらきらと光る水が跳ねる。時折、動かした膝が触れ合って、暑さも今は気にならないまま、ふたりは肩をぶつけ合った。水の中で、いきなり息を吹き返した爪先が、手指ほどは自由にならない動きで、けれど互いに絡み合おうと、可愛らしい所作を繰り返す。
 小さなプールを眺めて、ふたりで並んで麦茶で喉を潤した。
 それから、承太郎が、不意に花京院の右耳の辺りに、手を伸ばしてくる。
 「耳貸せ。」
 そちら側だけ長い前髪をよけて、何か耳に差し込もうとしているのを見ると、小さなヘッドフォンの片方で、承太郎の手には青いウォークマンがあった。
 「B面?」
 察して花京院が訊くと、承太郎がうっすら微笑んでうなずいた。
 ヘッドフォンの右と左を分け合って、長いコードが絡まないように、ふたりで静かにたたずむ。承太郎の大きな指の腹が、小さなウォークマンの、小さくて平たい再生ボタンを押した。
 流れてきた、泣きたくなるようなバラードは、こんな明るい日には似合わなくて、花京院は、光を遮るために目を閉じて、隣りの承太郎の肩に、そっと頭を乗せる。
 腕を絡めて、承太郎の骨張った手の甲の上に、自分の掌を重ねて、
 「悪くねえか。」
 「・・・悪くない。」
 そう訊いた承太郎に、悪くないというのが、今聞いている音楽のことなのか、この足をひたした小さなプールのことなのか、それともこうしてふたりで、ぼんやりとここに坐っていることなのか、そのどれとも特定しないまま、花京院はすぐにうなずいていた。
 誰にも見咎められる心配のない場所で、こうして承太郎と一緒に、夏を楽しんでいる。
 水を揺らすと、まだ残って泳いでいる氷が、溶けかけて、ぴきんとかすかな音を立てた。
 「・・・ホワイトスネイクって・・・」
 承太郎が、ヘッドフォンが取れないように小さな動きで、花京院の髪をあごでくしゃくしゃにしていたのを、静かに止める。
 「どんな音だい。」
 もっと近く、承太郎に体を寄せた。
 声が、耳に流れ込んでくる歌う声に引きずられて、人に聞かれては困ることをささやいているように、わずかにかすれた。
 「去年売れたヤツなら、多分気に入る。」
 同じような声を返してきた、承太郎のその声を聞きながら、花京院はゆっくりと瞬きする。
 滅多と雄弁になることのない承太郎が、熱意を込めて語る数少ない機会を楽しんで、大学へ入ったら、もしかしたら一緒に暮らそうという話になるかもしれないと、花京院はそう遠くはない来年のことを考える。
 一緒に暮らしたら、かける音楽のことで毎日ケンカをするかもしれないと、花京院はくすりと笑った。
 何だと、承太郎がこちらにもっと首を傾けたのに、何でもないよと答えて、
 「後で、ホワイトスネイクも聞かせてくれよ。明日、テープを持ってくるから、そしたら」
 「いくらでも録ってやる。」
 少しだけ弾んだ声で、承太郎が言った。
 声を同じほど無邪気な仕草で、承太郎が水を蹴った。水飛沫に目を細めて、悪くないと、花京院はひとりでつぶやいた。


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