暑い日だったから

 「暑いな。」
 帽子のつばを軽く上げて、じりじりとまだ飽かず照りつける白い太陽の位置を目で追って、承太郎がもう何度目かつぶやいた。
 承太郎と同じように汗をかきながら、それでもずっと涼しげな表情のまま、
 「仕方がないな、お互い。」
 これもまた何度言ったかわからない台詞を繰り返す。
 他の生徒たちはとっくに衣替えを終わっていて、今は夏休みも目前だと言うのに、頑なに裾の長い制服のままのふたりだった。花京院の方は、実のところ夏服になると言われて素直に着替えて登校したのだけれど、衣替え以前と変わらない承太郎を見て驚き、
 「夏服は着たことがねえ。」
と無表情に言う承太郎に、何となく合わせた形になって──1年中その不良の格好のまま、というのがとても面白いように思えたのだ──、花京院も翌々日には、クリーニングから戻って来たばかりの裾の長い上着にまた腕を通して登校した。
 そんなふたりが、暑い日に、軽やかな夏服だらけの生徒に混じって登下校するのが目立たないわけもないけれど、不躾けな視線には慣れている承太郎は、眉ひとつも動かさない。大したものだと、花京院は口にはせずにそう思っている。
 ホリィ曰く、承太郎は中学までは絵に描いたような優等生だったと言う。成績も優秀、運動も部活も完璧で、教師の言うことに逆らう機会すらなかったらしい。それが一体何がきっかけでこうなったのか、今では誰にもわからない。花京院も、興味がありながら、承太郎にわざわざ訊いたことはない。上から下まで、見事に不良の服装をするなら、せめて承太郎程度に筋を通せば、周囲は案外と口を挟まないものだ。
 自分のそれが、不良として──花京院は、ひとりでこっそり笑う──筋の通ったものかどうかはともかく、承太郎のは間違いなく徹頭徹尾一貫している。それでも、夏の暑さにはさすがに根を上げそうになるらしい。それは花京院も同じだ。上着の前を全開で歩いている承太郎はともかく、花京院は襟のホックさえ外していない。5月の半ばにさえ、もうその辺りには汗が流れ始めていて、今も耳の後ろから、汗がひと筋流れて襟の中へ消えて行った。
 襟の内側に指先を差し入れて、無駄と知りつつ汗でべたつく襟を、少しでも首元から遠ざけようとする。ぬるい風でもいいからそこから流れ込んで来ないかと、首を伸ばしたら、自分を見下ろしている承太郎と目が合った。
 「なんだ、どうした承太郎。」
 「・・・何でもねえ。」
 するっと視線を外して、また空を仰ぐ。らしくもない何となくわざとらしいその仕草に、けれど花京院はあまり長い間意識を集中することはしなかった。その程度に、今日は暑い。また汗が、今度はシャツの中、背中の真ん中をすうっと流れて行った。
 少なくとも、と思った。梅雨の頃にひどく痛んでいた腹の傷は、今は少しばかり治まっている。湿気のひどさに閉口はしても、梅雨の真っ最中よりは少なくともましだ。
 家に着いたらすぐ、何もかも全部脱いで風呂に飛び込もうと思う。頭から水を浴びて、冷蔵庫から出したばかりの冷たい麦茶を飲もう。多分すぐに残りが少なくなるから、次を作っておかないと、深夜近くに仕事から帰って来る母親に怒られる、とそんなことを考えていたら、承太郎が、自分の肩で花京院の肩を押した。
 「そっち行け。」
 「え、何だって?」
 「そこ曲がれ。」
 ぐいぐいと花京院を押して、承太郎が目の前の路地に無理矢理方向転換しようとする。
 「おい、そっちは通学路じゃない。」
 「やかましい、日陰もねえ道なんざ歩けるか。」
 確かに、このまま真っ直ぐ進む道には、せいぜい雨が避けられる程度の庇がところどころにある以外は、まったく日陰がない。承太郎が花京院を引きずり込んだ路地は、延々と続くコンクリートの塀の中から、様々葉を茂らせた木の枝があちこち顔を覗かせて、歩道の端にやや色の薄い日陰を作っている。緑を見るだけで、気持ちだけは確かに気温が下がったような気がした。そう言えば道が細いせいか車の通りもなく、あの、顔に打ち付けられる、吐き出される排気ガスのむっとした熱気もない。
 「・・・君の言う通りだな。」
 「ちっと遠回りになるが、日射病で倒れるよりはましだな。」
 「砂漠を通り抜けるのと、どっちがましだろうな。」
 少し笑いながら花京院が言うと、旅の途中のあれこれを思い出したのか、承太郎もくすりと笑った。
 日陰の多そうな側を選んで歩き出し、意外と早く終わってしまったその路地を右に曲がると、また同じような、木の多い家並みが続く。その途中に、小さな林かと思うほど木の植わった公園があった。
 ふたりなら軽く飛び越えられそうな背丈の金網に囲まれ、よくある形に、入り口はそうとわかりやすく開いている。鬱蒼と茂った背の高い木々の向こうに、大きな遊具の固まりが色鮮やかに見える。道路とは別世界のように、暑さを避けたらしい鳥の姿も見えた。
 承太郎が何も言わずにそこへ足を向けるのに、花京院も無言で従った。
 公園など、もう4、5年来ていない。公園の真ん中に据えられた遊具は、それでもまだ巨大に見えて、また別の位置にはコンクリートのトンネルつき山があって、子どもたちはきっと中を出たり入ったりして遊ぶのだろう。何かあればひとりになれる、どこかの広場にぽつんと置き去りにされた大きな土管と似たようなものだと、花京院はちょっと肩をすくめた。
 「あの中は意外と涼しそうだな。」
 トンネルの方を指差すと、承太郎は、子ども用に低く設置されている水飲み場の上に窮屈そうにかがみ込んで、水を飲んでいるところだった。
 水に濡れた唇のまま、声を掛けた花京院の方へ顔を上げて、
 「てめーも飲むか。」
 蛇口に手を掛けて、まだ水は出しっ放しで承太郎が訊く。急に喉がひりつくような痛みを覚えて、花京院は足早に水道へ寄った。
 承太郎は、上着の袖で濡れた唇を拭う。そんな幼い仕草も、なぜだか承太郎だとかっこ良く見えてしまうのだと思いながら、水に顔を近づける。あごや胸元をうっかり濡らさないように気をつけながら、花京院は、今この水を全身に浴びられたらどんなにいいかと、それはもうしない自分が子どもではないのだと、昔はこれにさえ背が届かなかった頃の自分を、すでに思い出すのが難しくなっている。
 あまり長く体を傾けていると、腹と背中の傷が痛み始める。そうなる前に体を起こして、人差し指の腹で唇を拭った。水を止めるためにひねった蛇口が、きゅっと涼しげな音を立てた。
 承太郎はもう、大きな木の寄り集まってできた大きな日陰に、ひとりで先に避難している。それに加わって、花京院もひときわ色の濃い日陰でやっとひと息つく。
 「家まで帰るのがいやになりそうだな。ここから動きたくなくなる。」
 冗談めかして言うと、奇妙に真面目な声で、承太郎が言った。
 「ここにずっといるか。」
 「今夜は母さんがいないから、僕が食事当番なんだ。」
 真顔の承太郎に、表情だけは揃えて、けれどとぼけてそう答えると、承太郎が聞こえるほど大きく舌打ちする。
 ふたりきりになると、承太郎はこうやって子どもっぽい貌を見せる。大きな体を、別にいからせているわけでも何でもなく大きく見える男だけれど、あらゆるところに歳に似合わない筋が通っているくせに、花京院といると気を抜くのかどうか、ごく普通に高校生らしい振る舞いが見える。
 今はきっと、ふたりでこんなところにいるせいだ。小学生なら、時間さえあればこんなところに来て、縦横無尽に走り回る。この公園は、さしずめどんな動物が住むかわからないジャングルだ。あの遊戯は険しい崖の連なりで、コンクリートの山は夏も雪の消えないヒマラヤかどこか。1日は限りなく長く、半径50mがすべての、小さいけれども果てしなく大きな世界に住んでいる。そんな頃が、承太郎にもあったに違いないのだ。
 ここによく来ていたのかと、訊こうかと思った時に、ふっと空気のどこかが固まって、ふたりを閉じ込めたような気配があった。
 うまく木の枝や垣根に遮られ、ここは確かに、誰かが公園の真ん中に入って来ない限り、あまり人目にはつかない。だからきっと、今自分たちがそうしているように、ひそやかに抱き合う恋人たちもいないでもないのだろう。正確には、ふたりはまだ恋人同士ではなかったし、抱き合ってもいなかったけれど、日差しを避けて、暑さから少しだけ逃れて、汗に湿った唇が人目を避けて不意に重なった。
 花京院の額近くに当たった承太郎の帽子が、ずれて地面に落ちた音がする。その気配を、慌てて閉じた目の裏側で追いながら、花京院は事の次第にすぐにはついて行けずに、とりあえずじっとしているしかなかった。
 なぜ、とまず思った。なぜ今なのか、なぜここでなのか。暑さで、少し頭がイカレたのかもしれない。この暑い夏の最中に、揃って冬服で過ごしているふたりだ。片方は札付きの不良で、もう片方は服装が少しおかしいだけで、教師に反抗など考えもしない優等生、ふたりはそんな組み合わせだ。
 まるで時空のポケットにはまり込んだように、不思議に誰もいない静かな公園の片隅で、息をひそめて、ふたりは唇を触れ合わせたままでいる。
 汗の匂いがする。ちっとも不快ではなく、どの時よりも自分に近づいている承太郎をそのまま受け止めて、花京院はまだ落ち着きを完全には取り戻せず、さっき同じ蛇口から水を飲んだ時に、多分こうなることに決まったのだと、埒もないことを考えている。
 手に持っている鞄のせいで、ふたりとも互いを抱きしめるという考えは頭に浮かばず、それでも空いている片手は何度か動いて、相手に触れようとするけれど、どうすればいいのかわからない。腰でも引き寄せるべきか、肩に置くべきか、あるいは映画で見た時は、確か首の後ろに掌を当てていたような気がする。どうしようと迷う手は、結局そのままだ。
 単に、ひどく暑いせいもある。触れている唇はともかくも、相手に触れるのは暑い。こうやって近づくだけで気温が上がる。感情とはまったく関係なく、物理的に、ふたりの周囲の温度が上がった気がした。
 まだかな、と花京院は思う。こっそり盗み見た承太郎の顔が赤くて、それが、こうしているせいなのか暑さのせいかのかわかりかねて、とりあえず黙って成り行きにまかせる。暑過ぎて、頭がきちんと働かない。
 さて、自分から動いてみたものの、先の目算があったわけではない承太郎は、さっき水を飲んだばかりの花京院の唇がうっかり少し冷たかったせい──多分──で、離れるのが惜しくて、唇を押し当てたままでいる。
 首筋や背中に、汗に濡れたシャツがはりついて、みっともいいとは言いかねる姿だ。それでも、あの旅を一緒に過ごした後では、どんな姿も血まみれでアザだらけでないだけましと言うものだ。
 ここから先は、何をどうすべきかわからない。自分を殴り倒しもせずに静かに応えていると言うことは、ともかくも同意であり合意であると判断して、承太郎は今では冷たいどころかふたり分の体温にぬくまっている花京院の唇に、もう少しの間触れていることにした。時間を止めれば良かったのだと、気づいたのがずいぶん後だったのは、やはりこの暑さのせいだろう。
 もういいだろうと、思いながら、ふたりは離れるタイミングがわからず、木陰で、樹の幹に同化して、暑苦しさにも負けずに、触れるだけのキスを続けている。
 早く終わってくれないかなと、額から流れる汗も拭えず、花京院はまた思う。
 何かに似ていると、突然思った。暑さでぼうっとしかけた脳裏で、自分たちの姿が、何かに重なった。
 何年も前に読んだボクシング漫画だ。突然現れた、見開きのキスシーン。汗と血ばかりのその話に、恋の話題など──そもそも女の子がふたりくらいしか出て来ない──出たこともなく、開いたページで台詞もなく──あるはずもないけれど、その時の花京院にはまだきちんと理解できなかった──一緒にいるふたりの間に流れている空気が、他のどのページとも、他のどの時とも違ったのが、強烈に記憶に残っている。人はこうやって恋をするのかと、幼いなりに考えても、それが自分と重なると思ったことは一度もなかった。
 あの場面と、同じことが起こっている。互いに無言なせい──当たり前だ──で、雰囲気だけは奇妙に厳粛だった。
 あの頃はそう言えば、キスした相手とは結婚するのが当たり前だったっけ。あのふたりも、後で結婚する予定だった。その結婚を果たすところで連載が終わってしまったんだったか。どうだったっけ、と花京院は考え続ける。
 でも、僕らのこれは、違う。僕らは男同士だし、まだ高校生じゃないか。
 違うだけで、間違っているとは思わなかった。それは多分、相手が承太郎だからだ。たとえ、有り得ないにせよ花京院の想像の中では、背伸びをするのは相手の方で、自分はその相手を、壊さないように抱きしめるのに腐心する、という予定だったのだとしても。
 今、承太郎に向かって喉を伸ばして、少し踵を上げ気味にしているのは花京院の方だ。相変わらず互いを抱きしめるやり方がわからずに、いつ終わるのかと、いつどうやって終わらせればいいのかと、逡巡を繰り返している相手は承太郎で、花京院が力一杯抱きしめたところで、骨にすら感じないだろう相手だ。
 きっと今日の暑さを、花京院は一生忘れないだろう。
 そうして、暑い、と思ったのが言葉になってしまったのか、その形に動いた唇のせいかどうか、やっと承太郎が離れた。
 他の誰の気配もなかったのは僥倖だ。木陰でまだしばらく見つめ合った後、承太郎が、呼び出したスタープラチナに落ちたままの帽子を拾わせ、それをかぶりながら、
 「行くか。」
 何もなかったような素っ気のない声で言う。
 声を出さずにうなずいて、肩を並べて木陰を出る直前に、花京院は、承太郎の帽子の汚れに気づいて、そこに手を伸ばした。
 「泥がついてる。」
 優しく払ってやると、承太郎の目がやわらぎ、ひどくいとおしげに花京院を見つめる。
 やっと、少し下がった気温のおかげかどうか、頭が少しばかり普通に回り始める。
 何か、とても大事なことがふたりの間に起こったのだけれど、それをきちんと整理して言葉にできるほどふたりは冷静ではなく、そしてまだ充分に日は高く暑い。
 次の時は、せめてもう少し暑苦しくない時に。きちんと抱き合えるように、両手が空の時に。揃って前に出すふたり分の爪先を見下ろして、花京院はそんなことを考えている。
 体をむやみに伸ばしていたせいで、腹の傷が少し痛んだ。今はその痛みすらいとおしいと思えた。
 公園を出て、日差しがほんの少しだけやわらいだ人気のない道を、ふたりは揃って家へ帰る、そんな暑い日だった。

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