蚊帳の中

 さらりとしたシーツ、なるべく薄いタオルケット、すでに薄暗い部屋の中を薄青く染めているのは、さっき承太郎と花京院が、ふたりがかりで吊り上げた蚊帳だ。部屋の隅からは、蚊取り線香の煙の匂いがする。どこの誰の屋敷かと思う空条家だから、ひどく風情があった。
 とは言え、暑いものは暑い。真夏日が続き、夏休みの宿題を一緒にやろうと、承太郎宅へ泊まりがけでやって来た花京院は、久しぶりのエアコンのない夜に、少々不安を抱いていた。
 承太郎は慣れたもので、畳に丸まった蚊帳の裾を指差して、
 「そっとめくってさっさと入れ。でなきゃ蚊が入る。」
 蚊帳など見るのも珍しい花京院は、なるべく言われた通りにしながら、
 「蚊がいたら、スタープラチナに捕まえてもらえばいいじゃないか。」
 「・・・スタンドの無駄遣いだな。」
 承太郎の言う通りだったから、花京院は唇だけとがらせて見せて、なるべく素早く、けれどとてもぎこちなく、何とか蚊帳の中に進入した。
 承太郎は、花京院に続いて、さてと蚊帳の裾に指を伸ばす。瞬きの後には、もう承太郎は、自分のために敷かれた布団の上にいた。
 「え?」
 目の前から消えた承太郎を追って、あちら側の布団に、もう身を横たえようとしている承太郎の背中を見つけ、
 「承太郎、君、さっきスタンドの無駄遣いだって言ったじゃないか!」
 スタープラチナで時を止めた隙に中に入ったのだ。
 「スタンドだって蚊に食われるんだぜ。」
 よくわからないことを言いながら、承太郎はそれは自分のものらしい枕に左側の耳を馴染ませて、もう寝てしまうぞという素振りを見せる。
 もう一度、ひとりで唇をとがらせてから、花京院も自分のための布団に横になった。
 仰向けになって、みぞおちまでタオルケットで覆って、そば殻の枕が、頭が沈んでかすかに動くたび、じゃらりじゃらりと小さな音を立てる。それが何だか、川の中で流れに洗われる小石を思わせ、部屋を覆う薄青い蚊帳の、目の詰んだ織り目と一緒に、まるで水の底に沈んでいるような、そんな気分にさせた。
 花京院はゆっくり息を吸って吐いて、ゆっくり瞬きをして、今自分は承太郎の家にいて、自分の部屋にいるわけではないのだと、何度も何度も同じことを考える。
 昼間、本とノートを開いて、答え合わせをしあがらああでもないこうでもないと散々やり合ったから、これ以上今承太郎と何か話したいことも思いつかず、ホリィの作った冷たいそうめん用のたれが、自分の家のそれに比べるとずいぶん甘みが強かったことを、ひとり胸の中で笑ううち、こちらに背を向けている承太郎の大きな背中が、寝息にゆっくりと上下し始め、それを眺めながら、花京院もいつの間にか眠りに落ちていた。


 目が覚めた時、一瞬自分がどこにいるかわからず、ぼやけた視界に映る青さが、蚊帳のせいだと気づいてから、ここが承太郎の家だと思い出した。
 そうして、やけに暑いことに気づいてから、今は一体何時だろうかと時計を探す──そんなものはこの部屋にはなかったけれど、覚えていなかった──ために首を回してから、呼吸の当たる近さに承太郎の顔を見つけて、花京院は咄嗟に上げそうになった悲鳴を奥歯で噛んだ。
 体を動かさずに、頭だけ傾けてよく見れば、近いどころではなく、承太郎はほとんど花京院の肩に頭を乗せるようにして、花京院の布団の上で寝ている。腕は腹の下辺りに乗り、気がつけばそれも重い。
 それよりも何よりも、暑い。暑苦しい、と花京院はまず思った。
 さらに見れば、寝相の悪さでここまで転がって来たのではなく、自分でこちらへ移って来た証拠に、承太郎の枕も一緒に移動していて、花京院のタオルケットの裾を自分の腹辺りに掛けてはいたものか、枕以外は全部花京院と分け合う形に、承太郎はこの状態に特に寝苦しそうでもなく、規則正しい寝息を立てていた。
 「・・・承太郎、暑い。」
 小声でつぶやいて、けれど暑苦しいと本音を隠したのは、ある意味では武士の情けだった。
 腕をそっと持ち上げ──寝ている人間の体と言うのは、普段の倍重くなる──、とりあえずは自由に動けるようになろうと試みたけれど、取り上げた途端に承太郎の腕はさらに重くなり、うっかり入れた力が足りずに承太郎のその腕は、花京院の例の腹の傷跡の上にどさりと落ちる。こんな時には痛いとわざわざ喚かない自制心が、よけいに痛みを強くする。すでに塞がってはいても、まだ触れれば柔らかな皮膚は敏感で、その下は鋭く疼く。
 1分近く、痛みが遠のくのを歯を食い縛って待ってから、花京院は承太郎が目を覚まさないのを確かめてから、とりあえず体の向きを変えることに決めた。
 また同じところに腕を落としてはかなわない。ひとまず横向きになって、それから承太郎の腕を取り除きながら、同時に仰向けになるように肩を押してやればいい。それでも目を覚まさないなら、そのまま畳の上を転がして、向こうの布団に戻してやろうと、薄青い闇の中でそこまできっちりと計画を立てた。
 それにしても、と花京院は思う。これがベッドでなくて良かった。ベッドなら、あまりむやみに動くと弾みで床に落ちかねない。布団なら、とりあえず距離を開けたいなら床をじりじりと滑って移動できる。
 そもそもベッドなら、恐らく承太郎が参加する充分なスペースがなく、こんなことはまず起こらなかったろうし、ここから出て自分のベッドに戻れと言うなら、そのまま床に突き落としてしまえばいいのだとはこれっぽっちも思わない自分の人の好さなど、思いもつかない花京院だった。
 呼吸を整えて、花京院は目を覚まさせないように承太郎にまだ気を使いながら、軽く持ち上げた承太郎の腕の下で、息を止めて一気に体の向きを変えた。変えて、腹の傷跡にそれほど響かなかったことに安堵してから、計画自体の方向は正しかったものの、その過程を深く考えなかった自分の甘さを、次の瞬間後悔した。
 承太郎と、ほとんど隙間もなく向き合う羽目になって、しかもきちんと夏用のパジャマを着ている花京院と違って、承太郎は薄いタンクトップにショートパンツの、このまま外に出れば間違いなく猥褻物陳列罪で捕まりかねない格好だ。
 ・・・失敗した。
 体の前面が触れ、体温が伝わる。今暑苦しいのは、絶対に温度のせいではない。暗い部屋の中で、すっかり目が慣れて承太郎の顔形ははっきり見えても、自分の顔の赤さなど見えるわけもない。
 とにかくこの状態からさっさと抜け出してしまうことだと、花京院は、横向きの動きにくい状態から、何とか自分の上に乗った承太郎の腕を、両手ですくい上げにかかる。
 花京院の手が触れた途端、一体どんな夢を見ているのか、承太郎の腕が輪を作り、花京院の腰をぐるりと囲ってしまった。シーツと体の隙間にはしっかりと手が差し込まれ、体は、さっきよりも10cm近く近づいた。
 そうされて、ほとんど強引に引き寄せられた花京院の頭は、枕の端にやっと引っ掛かっている状態で、シーツに落ちそうになるのを首の力で耐えるにも限界がある。
 ひっそりと抗ううち、体を寄せ合っていると、相手に添おうとしなければよけいに疲れるのだと、花京院は初めて知った。
 別に好きで寄せ合っているわけではないのだけれど、離れようとして果たせずに疲れ果てるよりは、とりあえず様子を見ようと、花京院はついに思い切って、承太郎の枕の端へ自分の頭を移動させた。
 承太郎の寝息が、額の少し下に当たる。体が近づいていっそう暑苦しさは増したけれど、承太郎の腕の中で比較的楽な姿勢を探してながら、起こさないようにそっと、足を伸ばして承太郎の素足を探ったりもする。
 伸び上がるような形にしないと、爪先が承太郎の爪先に届かない。背の高さが違うのだから当然だと思いながら、少し癪に障る。
 暑苦しいなと、八つ当たりのようにまた思った。
 わざわざ枕と一緒に移動して来たのだから、今承太郎が夢の中で抱いているのは、自分に違いないだろうと思ったけれど自信はない。
 やれやれだ。
 自分の腰に回った承太郎の腕を、そっと撫でた。そのまま撫で上げて、肩の辺りの骨の硬さを探ってから、たった今思いついたと言う仕草で、花京院はその手をそのまま肩胛骨の上に乗せ、そこをゆっくりと通り過ぎて、承太郎の背中を抱き寄せるような形に落ち着かせた。
 承太郎の背中を撫でる。広さも厚みも、自分のそれとはまったく違うように思える。骨の太さが、そもそも違う。花京院も、日本人としては充分規格外だけれど、純日本人ではない承太郎は、規格外どころか化け物級だ。
 君に合うパジャマを探すのは大変だろうな。突然そんなことを思って、
 「寝る時くらい、窮屈な思いはしなくてもいいんだ承太郎。」
 小さな声が口をついて出た。
 静かに呼び出したハイエロファント・グリーンの手を借りて、承太郎の腕を自分の腰からそっと外し、今度こそしっかりとハイエロファントが承太郎のその腕を抱えている間に、花京院は承太郎の傍らから離れた。
 膝を滑らせて敷き布団から出て、足の方へ丸まってしまったタオルケットを、きれいに伸ばして承太郎に掛け、せめて腹と腰くらいはきちんと覆うようにしてから、花京院は自分の枕を取り上げ、足音を消して承太郎の布団の方へ行った。
 今夜はろくに使われていないだろうシーツはひんやりとしていて、置いた枕に頭を乗せると、改めてかすかな洗剤の香りがする。承太郎の枕からは、そう言えば、普段使っているらしいシャンプーの香りがしていた。その香りを思い出しながら、承太郎がろくに使わなかったはずのタオルケットにくるまって、花京院は承太郎に背を向ける姿勢のまま、また眠りに落ちた。


 また目を覚ますと、今度はもう部屋の中はすっかり明るかった。
 蚊取り線香の匂いは消えてしまっていて、けれど家の中に人が動く気配はまだない。早朝に違いない今は何時だろうかと思って、首筋の後ろに当たる呼吸に気づいた。
 自分が寝ていた布団に向けた背中に、承太郎がぴったりと重なる形で寝ている。
 目が覚めたのはどうやら、明るさのせいではなく、余分な体温のせいらしい。
 気落ちと言うわけではなく、自分の努力が100%無駄になったという落胆の気分で、暑苦しいと、花京院はまた思った。
 腰にはまたあの重い腕が乗り、向かい合うよりは、胸と背中の重なるこの形の方が楽だと思ったのはもう、ほとんど諦めの境地だった。
 承太郎は暑くはないのだろうか。また離れても、目が覚めたらぴったりくっついているのだろう。いっそもう、蚊帳の外に出て、剥き出しの畳の上で寝てやろうかとも思ったけれど、さすがにそれは承太郎を傷つけるかもしれないと思ったその優しさにつけ込まれているのだと、当然花京院本人は思い当たらない。
 やれやれ。苦笑を混ぜて思った。
 腹の前に伸びている承太郎の手に、自分の手を重ねた。体温の高い承太郎は、触れるとさらに熱い。そして、暑苦しい。
 それでも、眠れないほどではないと思いながら、花京院はもう少し寝ようと、目を閉じた。
 きっともうすぐ、ラジオ体操に出掛ける子どもたちの声が聞こえるようになるだろう。それまではこのままでと、それまで目が覚めませんようにと思いながら、ひとつ枕に窮屈に頭を乗せて、音をさせないように、ほんの少し、承太郎の方へ近く頭を寄せた。

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