じれったい



 おい、コーヒーいれるぞと、居間の方から声が聞こえたから、ああ頼むと、モニタから目を離さずに応えておいた。
 別に急ぎの作業だとか仕事だとか、そういうわけではなかったけれど、ちょっとした趣味の調べもので、なかなか思うような検索結果が出ずに、もう1時間近くあれこれキーワードを変えて、何か情報が拾えないかと躍起になっている。
 自分でいれた紅茶はとっくに空で、だから承太郎がコーヒーをいれてくれるというのは、正直とてもありがたかった。
 花京院が、コンピューターを置いた部屋に閉じこもっている間、承太郎は、きっと居間で本でも読んでいるのだろう。何の予定もない、日曜の午後だ。後は夕食の心配が必要なだけの、だらだらと勝手に過ごせる時間だった。
 カタカタキーボードを叩く音の合間に、湯の沸く音が混じって、じきにコーヒーの香りがここまで届いて来る。
 その匂いにつられて、ちょっと休もうかなと、花京院は思った。
 「おい、昨日買って来たロールケーキ切るぞ。」
 4歩分の足音がしてから、半開きのドアから顔だけ差し込んで、承太郎がそう声を掛ける。顔だけそれに振り返って、花京院は笑顔を作った。
 「すぐ行くよ。」
 いれたてのコーヒーに、クリームがたっぷりでふわふわのロールケーキだ。承太郎の中指の半分くらいの厚さに切って、フォークなんか使わずに、手づかみで食べて、うっかり指についてしまったクリームを舐め取るところまで想像した。思わず口の中につばがたまる。
 モニタの電源だけ切って、そろそろ立ち上がろうとした時に、もしかしたらと思うサイトが現れた。慌ててリンクにカーソルを当てて、はやる気持ちでクリックした。
 「おい、コーヒーが冷めるぞ。」
 少し大きな声が、キッチンから飛んで来た。
 「ああ、今行くよ!」
 振り返りもせずに声だけ張り上げて、花京院は一応椅子から立ち上がったけれど、マウスから手は離さない。
 英語のブログ記事だ。斜め読みして、キーワードで引っ掛かったところを見つけようとする。何となく、これではないかと、そんな気がして、ちょっと心臓がどきどきし始めていた。
 モニタに顔を近づけて、体だけはキッチンへ行こうとしている、という姿勢のまま、花京院はその記事を読み続けた。
 「おい、何してやがる。」
 承太郎がまたやって来た。そうして、モニタに、食い入るように目を凝らしている花京院の背中を見つけて、聞こえないように舌を打つ。そうしてから、机に両手をついて、こちらに腰を突き出すその姿勢に気づいて、もう一度出そうとした声を、承太郎は思わず飲み込んだ。
 「今行くよ承太郎。」
 上滑りの花京院の声が、承太郎がすぐそこにいるのに気づいているのかいないのか、動きもしない背中から聞こえる。承太郎は、そんな必要もないのに足音を忍ばせて、その花京院の傍へ寄った。
 ジーンズのウエストが、腰から少しだけ浮いている。骨が細いというわけではないけれど、出会った頃から肉の薄さは変わらない腰に、承太郎は両手を添えた。
 「うわッ!」
 いきなり後ろから触れられて、さすがにモニタから顔を上げて、花京院が驚いた横顔を承太郎に向ける。
 「な、何してるんだ。」
 「てめーこそ何してやがる、何度も呼んだじゃねえか。」
 「ちょっと調べたいことがあるんだ、すぐに行くって言ったじゃないか。」
 「それもさっきから何度目だ。」
 花京院は、まだマウスから手を離さない。
 承太郎は、今度こそ遠慮せずに聞こえるように舌打ちしてから、花京院の腰に添えた手に力を込めた。そうして、まだ突き出された形のままの花京院の腰に、自分の腰を押し付けた。
 「おい承太郎!」
 ちょっともがくように動くと、背中がうねる。その姿勢が、たまに見る、あの時そっくりに見えて、承太郎は腕にもっと力を込めた。
 「ちょ、ちょっとやめろ。」
 本気で焦っている声に気づいていないわけでもないのに、承太郎は腕の力をゆるめずに、もっと近く体を寄せて、花京院の内腿に掌を伸ばす。
 きわどく撫で上げるようにすると、途端に胸の下で花京院の背が伸びる。机に伏せた姿勢のままで、なじるような声が聞こえた。
 「君は、ほんとうに1年中発情期だな。」
 「主にはてめーのせいじゃねえか。」
 「失礼な、ひどい言い掛かりだ。」
 「おう、一生そう思ってろ。」
 花京院にそうやって触れて、承太郎の方が先だったけれど、ふたりともジーンズが窮屈な事態になっている。我慢できなくなるまでには、もう少しかかりそうだった。だから承太郎は、花京院に触れたまま、もっと強く躯を押しつける動きを繰り返している。
 後ろから触っておどかそうと思った時には冗談だったけれど、下目に花京院のうねる背中を見下ろした時には、もう冗談ではなくなっていた。
 マウスから離れた手と、モニタを見ることもしない目と、承太郎の掌にしっかりと熱を伝えて来る花京院のその質量に、コーヒーのことなど、頭からすっかり飛んでしまっている。
 触れ続けているけれど、直には触れない。動くうちにずれ上がった花京院のシャツの裾から、日焼けしない素肌が見えていて、そこから指先を差し入れたい衝動に、承太郎は下唇を湿しながら耐えていた。
 そうやってもどかしく触れられるのに、少しずつ、花京院がほどけて来る。腰を押し付けて来る承太郎が、時折そのリズムをわざと崩すと、焦れたように背中が揺れる。最初よりも、やわらかく脚が開いていた。
 普段から、あまり感情を表に出すことはしない。承太郎以外の他人の前では、社交辞令の笑顔か、礼儀正しい無表情かのどちらかだ。それなのに、こんな時には表情豊かな体全体に、承太郎が触れている。無口なのは承太郎も同じだ。ふたりでいればそれなりに多くなる言葉数だけれど、躯でするおしゃべりの方が、ずっとずっと豊かなような気がする。
 言ってみれば筆談のような、わざとそうする遠回しな触れ方を、もう数秒で続けられなくなると思った時に、花京院の背中がねじれて、肩越しに、承太郎を見上げて来る。
 「・・・するなら、ちゃんとしないか?」
 頬と額にかけて、いっそう赤みが濃いのは、きっとそこに腕を敷いていたからだろう。濡れたように光る唇が、しゃべるにつれて動くのに、承太郎は視線を奪われたまま、こんな悪ふざけなら、いつだって中止できると言う振りは必死で保って、花京院の腕を自分の方へ引き寄せた。
 床に一緒に倒れ込み、手足でせわしく互いに触れながら、膝立ちになって、素肌に触れるために服を脱がせに掛かる。無言でジーンズに手を伸ばしたのは同時だった。
 全部脱ぐのに、部屋の明るさが気にならなかったと言えばうそだろう。けれど主には、これ以上ふたりとも待てなかったせいだ。下着ごと引きずり下ろしたジーンズから、花京院は片足だけもたもたと抜き取り、その間も承太郎に片腕だけはしっかりと回したまま、まるで襲いかかるように承太郎にのし掛かって、躯を押し当てて来る。
 承太郎はもう、ただ床に横たわっていればよかった。
 自分の上で、やたらと荒い息を吐きながら腰だけ揺すっている花京院を、それでも支えるために腕を伸ばし、重なった躯が、そう──花京院が──意図した通りにきちんとこすれ合う位置にきちんと動いて、承太郎は先走りだけはしないために、頭の隅で数を数える。
 互いの熱を追い駆けながら、それに重なる自分の熱を、持て余しながら飼い慣らそうと、無駄な努力をそれぞれにしている。
 躯を重ねて同じように動きながら、求めているのも同じものだと言うのに、実のところはひどく自分勝手な協同作業だ。
 そう思うのが、もうすっかり馴染んでしまった互いの躯の熱さの、数秒先の成り行きが読み取れる、一緒にいる時間の長さと比例する、馴れ合いの心地良さの深さのせいだと知っているから、それでも下からこうやって見上げることはあまりない花京院の、自我を失いかける直前の熱さにとけた首筋や肩の線に、じっと目を凝らしていた。
 押し付けて、こすりつけ合うだけでは少し足りずに、いっそう近く花京院が躯を寄せて来るから、承太郎はその花京院を抱きしめて、下腹の間に重なり合ったそれを、片手だけで一緒に握り込んだ。
 その承太郎の手に、花京院の手も重なって来る。
 躯も胸も掌も、何もかも一緒に重ねて、触れ合わせて、けれど示し合わせたように触れることをしない唇の間で、熱くて荒い息が行き交い、わずかに突き出した舌先が、滑るように、触れ合った。
 手と腹が一緒に汚れた後で、その汚れを、まだ互いの膚で拭い取り──塗り広げ──ながら、やっと、喉の奥まで届きそうに、舌を伸ばして唇を重ねる。
 唇の先と鼻先をこすり合わせて、胸と腹は触れ合ったまま、
 「万年発情期は、てめーも同じじゃねえか。」
 「僕のは完全に君のせいだぞ。」
 「言ってやがれ。」
 下からまた躯を揺するように動かすと、花京院が承太郎の上で笑い、波打った腹筋の動きが、承太郎の皮膚の上に伝わる。
 間近に見つめ合ったそのままで、わずかに物足りなさを感じている。けれど、コーヒーのことも、検索の結果も、突然気になり始めたから、花京院は引き剥がすように承太郎から体を起こして、まくれ上がったシャツをひき下ろす動きの陰に、まだ火照っている顔を隠した。
 「・・・シャワーを浴びた方が良さそうだな。」
 躯の汚れを気にして言うと、乱れた服を整えようともしない承太郎の片腕が、腰に巻いて来る。
 「コーヒーはその後だな。どうせ淹れ直しだ。」
 その腕を振り払えずに、また承太郎の胸に自分の体を添わせて、
 「今シャワーを浴びに行ったら、コーヒーは夕食の後になりそうだな。」
 斜めに体をねじり、腕を伸ばして承太郎の首に巻く。正確に花京院の信号を読み取って、承太郎の両腕が、しっかりと腰に回った。
 何もかも脱いで、何もかも重ねて、何もかもこすり合わせて、自分の知らない躯の奥深くまで明け渡して、今すぐそうしたいと思ったから、花京院は承太郎の手を取って立ち上がる仕草をした。
 半端に脱いでしまっているジーンズを引きずりながら、自分と承太郎の不恰好さを、けれどおかしいこととも思わずに、まだ部屋の中へ漂っているコーヒーの香りに、花京院は微笑みを浮かべて小さく鼻を鳴らす。


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