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kind of you

 レポートを書く時は、あまり静かだとやる気が殺げる。だから図書館は、あまり適した場所ではない。
 ウォークマンを耳に突っ込むと言う手もあるけれど、好きな曲が掛かるとレポートどころではなくなるから、これもあまりいい手ではない。
 適当にざわざわした、けれどあまり人が動かない、できれば同年代の人間の多いところ、家の外に、そんな都合のいい場所があるはずもなく、結局はキッチンのテーブルに辞書や資料を全部広げて、ああでもないこうでもないと、乏しい知識と語彙をひねくり回して、紙の上に、ちっとも磨き抜かれる様子もない言葉をほとんど自棄で連ねるのが常だ。
 幸い──と言うべきではない──に、字数と枚数さえ満たせば、内容は大抵大目に見てもらえる。それに甘えるべきでないと自分を律するのが学生の本分だろうけれど、明後日が締め切りのレポートがまだ3分の2真っ白の状態で、今は綺麗事を並べている場合ではなかった。
 ひとり暮らしでなくて良かったと、こんな時にしみじみ花京院は思う。
 勉強に根を詰める羽目になるたび──学生とは、常にそうあるべきではある──に、何をしていようと時間になれば食事が食卓へ運ばれて来ると言うのは、当然のことではないのだと、共働きの両親にひとりっ子で育てられて知っていたと思ったのに、いざ家を出てみると、レポートにやっと気分が乗り始めた時に空腹を覚えるとか、3杯目の紅茶を淹れに立つのが何となく面倒くさいとか、そういうことはしばしば起こる──忙しい時に限って──し、ひとり暮らしでは、自分以外誰もそれをしてはくれない。
 15分ほど前に、承太郎が何も言う前に淹れ直してくれた紅茶に手を伸ばして、花京院は同居人のいるありがたみに、思わず涙ぐみそうになる。
 もちろん、承太郎がレポートに集中している時は、花京院が承太郎の面倒を見る。食事を作って、様子を見てはコーヒーを淹れて、承太郎の好みではないけれどそれなりにやかましい音楽を選んで小さく流して、いまだ下書きは鉛筆派の承太郎のために、数時間置きに向かいに静かに座って、先の丸くなった鉛筆を削り直して、そっと承太郎の手元へ戻しておく。
 さすがに花京院は、そこまで承太郎に面倒を掛けることはしないけれど、つい根を詰め過ぎて食事を抜いてしまいがちになるところに、少々タイミングがまずくても必ず食事で休憩が差し挟まれるのは、決して悪いことではない。
 僕は、絶対作家になんかなれないな。
 内容のことは考えずに、頭に浮かぶ文章をとにかく端から紙に書き写しながら、こんなことを生業にするなんて、どこかおかしいに決まってると、ほとんど八つ当たりのように考えた。
 本を読むのは大好きだけれど、それを自分が書くのはまったく別の話だ。
 幸いに寝不足ではなくても、慣れない語彙を詰め込んでシャッフルしてオーバーヒート気味の頭痛が、右目の裏側で疼き始めていた。
 承太郎はさっきからずっと、居間に背を向けてシンクと向き合っている花京院の後ろで、ギターをいじっていた。
 飴色がきれいな、ごく普通のアコースティックギターだ。承太郎の音楽の好みからすると、一体そのギターで何をするつもりかと思うけれど、エレキギターのフレーズをそれで弾くのも、それはそれで味があるものらしい。
 壁の薄いマンションで、アンプも通せねえエレキなんざ意味があるか。
 承太郎なりの、花京院との同居のための、小さくはない妥協のひとつらしかった。
 承太郎があぐら座りでそれを抱えると、本来の大きさよりずっと小さく見える。ネックの上をなめらかに走る承太郎の指の動きが、花京院はとても好きだ。
 花京院の邪魔をしないためか、曲とも言えなさそうなただのフレーズをいくつもいくつも、特にまとまりもなくほとんど弦を弾き下ろしてばかりだったのに、突然、何かと思うような優しいメロディーが聞こえた。弦を押さえた指が横に滑る、きゅっと言う音がして、確かに聞き憶えのあるメロディーだと思ったから、花京院は手を止めて、承太郎の方へ振り向いた。
 「何の曲だ、それ。」
 「ランディー・ローズ。」
 弾くのはやめずに、承太郎が短く答える。
 30にもならずに事故で亡くなったギタリストの、クラシックギターのインストゥルメンタルだ。天使と友人たちに呼ばれた彼そのもののようなその曲を、承太郎に何度も何度も聴かされて、最後に聴いたのはもう1年以上前だと思うのに、憶えていたことに花京院は驚いた。
 ああ、と合点が行った花京院の表情に、承太郎の口元がわずかにゆるむ。
 1分足らずのその曲を、承太郎は繰り返し弾いた。2度目は、最初よりもゆっくりと丁寧に、もう体半分こちらに向いてしまっている花京院に聴かせるために。
 彼が弾いたのはクラシックギターで、弦の種類が違うから、承太郎の出す音の響きは、レコードで聴いた音とは少し違う。自分の記憶違いだろうかと思いながら、花京院は頭を空っぽにして、その優しい曲に聴き入った。
 5回繰り返してから、承太郎が花京院を斜めに見上げる。ギターを膝の上から取り上げて、
 「来い。」
 猫でも呼ぶような仕草で、承太郎は空にした自分の膝を叩く。
 花京院は疲れた表情を少しだけなごめて、ほとんど椅子から滑り落ちるように、承太郎の膝に這い寄って行く。胸と背中を合わせて一緒に座ると、承太郎が、花京院の前にギターを置き直した。
 腕の長い承太郎には、花京院を挟んでギターを抱えるのは苦ではないらしく、少し遠くなったネックにちょっとだけ喉を伸ばして、さっきよりはわずかにたどたどしく、同じ曲をまた弾き始める。
 自分の胸の前で承太郎の手指が動いているのは、何だか不思議な眺めだった。こうしていると、まるで自分が弾いているみたいに錯覚できる。それは図々しいなと自分を笑って、花京院はこれが現実がどうか確かめたくて、曲の途中だと言うのに、承太郎の手に触れようとした。
 「てめーも弾くか。」
 承太郎が、冗談でもなさそうに訊く。
 「まさか。音楽の実技は2だったんだぞ僕は。」
 君と違って、と言おうとしたところに、承太郎の声が素早くかぶさった。
 「おれのは1だったぜ。」
 「それは君が滅多と授業に出なかったせいだ。」
 実際に演奏することには一切興味がない花京院と違って、承太郎は好きなバンドの楽譜も持っているし、こうやって自分でギターも弾く。プロのミュージシャンである父親の血だろうかと、承太郎の肩に後ろ頭を乗せながら花京院は思う。
 ネックを押さえた承太郎の指先に、何とか同じ形にした自分の指先を重ねて、何がおかしいのかわからずに、花京院はひとりでくつくつ笑う。
 まるでギターと一体化したみたいにそこに在る承太郎の手指とは違って、自分の指はほんとうに不自然で場違いだった。薬指と中指が別々の方向に伸びるのを拒否して、軽く曲げているだけの手首が、痙攣しそうになっている。こんなことを軽々してしまえる承太郎は、ひょっとして本人がそうひけらかさないだけで、実は音楽の天才なのではないかと、突然突拍子もないことも頭の隅に閃いた。
 思ったより、レポートの締め切りのプレッシャーが、花京院の脳には過酷なようだ。
 僕は好きなだけで音楽に大して興味はないし、ろくなレポートは書けないし、頭痛はしているし、結局レポートだってきっと仕上げられないし、留年してしまうかもしれないから、承太郎はきっと僕に失望するだろう。まったく、やれやれだ。
 考えることはどんどん後ろ向きになっているのに、奇妙に開き直った気分で、承太郎にくっついているとひどく気が楽になる。
 こうやって一緒にいられるなら、充分じゃないか。
 生きているのか死んでいるのかわからないまま、あの旅で、やけに生き生きしている自分に気づいて、驚いたことを思い出している。ハイエロファント・グリーンを隠す必要もなく、秘密がなくなれば途端に気楽になって──今と同じように──、いつだって良い子でしっかりしている大人びた自分はどこへ行ったのか、おまえも孫みたいなもんじゃとジョセフが言うのを、すべて本気に取るほど子どもではなかったけれど、それでも心底照れて、心底うれしかった。
 素の自分に、初めて出会ったような気分で、正直なことを言えばあの時はずっと浮かれていたのだ。手足を伸ばして、顔を上げて、胸いっぱいに深呼吸して、こっそり丸まっていた背中は、承太郎につられたのかどうか、いつの間にか真っ直ぐ伸びていた。
 こんな風に振る舞える自分だと初めて気づいて、こんな風に振る舞っても許されるのだと初めて知って、そうやって自分をさらけ出してしまえばもう後には引けず、今では自分を甘やかすのも、他人に甘やかされるのも、どちらも自己嫌悪もなく受け入れている。
 とは言え、こんなだらけ切った態度を見せるのは承太郎にだけだけれど、それは案外承太郎も同じことだろうと、花京院はひとりで思った。
 複雑な形に弦を押さえている承太郎の指先に自分の指を無理矢理重ねて、それから、弦を弾いている右手にも同じことをした。こちらは、重ねるよりもむしろ、承太郎の軽く握る形になった掌を包み込むようにして、合わさった人差し指と親指の爪を、摘むように何度も撫でる。
 「君は、ミュージシャンになればいいんだ。」
 「親父にぶち殺されるのがオチだな。」
 「そんなことあるもんか。貞夫さんならきっと全力で応援してくれる。」
 「ねえ。」
 無残なほどあっさりと、平たい声で承太郎が否定する。
 「運と技術と才能と口の上手さと、どれもねえおれが音楽やりたいとか抜かした瞬間に全力で潰しに来るぜあのクソ親父は。」
 「運は充分あると思うんだが。」
 「・・・エジプトで全部使い果たしたな。」
 花京院は、案外冗談でもなさそうに承太郎がそう言うのに、思わず吹き出した。
 「・・・悪運を使い果たしたのは僕も同じだ。」
 右手を承太郎から離して、ギターの丸みを撫でる。指先だけでそっと、自分の腹の傷跡に触れる時と同じ仕草で、ふたり分の体温にぬくまったギターの木肌を、花京院はゆっくりと撫でた。
 「同じだな。本が好きでも、レポートは大嫌いな僕と、ギターを弾くのは好きでも、ミュージシャンにはならない君と。」
 僕らは、良く似てるんだ。ちっとも似てないのに。ははは、とわざと乾いた声を立てて笑う。照れ隠しのつもりだったから、斜めに見上げて承太郎の顔を見たいと思ったけれど、花京院は我慢した。
 ギターの丸みの上に乗せていた右手を、承太郎が取る。さっきとは逆に、今度は承太郎の掌が花京院のそれを包み込み、何かをつまむ形に指先を整え、ふたり分の指先が、一緒に弦を弾き下ろした。
 承太郎が弾いた時のようなきれいに揃った音は出ず、それでも承太郎は構わずに、次には花京院の左手を取ってネックを先に握らせる。指先をつまみ、ここだと難しくはないコードを押さえさえて、自分の指もそこに一緒に重ねた。また弦を弾き下ろす。和音には聞こえたけれど、それだけだった。
 それでも、承太郎の手指はあたたかく、承太郎のギターの背板が腹の傷跡に重なり、背中の傷跡には承太郎の胸が触れていた。それが、花京院には充分美しい音楽のように思えた。
 薄く引き伸ばされて無理矢理に継ぎ合わされた皮膚は、いきなり内臓を覆っているように、筋肉も骨の気配も希薄だ。承太郎ならきっと、そこから手を差し入れてギターへ触れることに可能だろうと、馬鹿馬鹿しいことを考える。
 承太郎と承太郎のギターの間に挟まれて、今は承太郎の体温よりも、ギターの方を身近に感じている。承太郎に抱えられて弾かれるギター。たとえ傷だらけになって壊れてしまっても、承太郎は大事に直して使うだろうし、捨てることなど思いつきはしないだろう。同じことだと、承太郎と一緒にギターを抱えて、ギターごと承太郎に抱えられて、花京院は静かに考えている。
 レポートが終わったら。思わず小さく呟いたら、応えたように花京院の首筋にごりごりとあごの先をすりつけて来る。承太郎のために、花京院は動かずにじっとしていた。
 「ホリィさんに会いに行こう。あそこなら、エレキギターが思う存分弾けるだろう。」
 承太郎が集めた本や雑誌も、あそこには山のようにある。承太郎がやかましくエレキギターを弾く間、花京院はそれを読んでいればいい。
 「おう。」
 短く承太郎が答えて、ネックの上の花京院の指先を、少しだけ強く押さえた。指先に食い込む弦の感触が、何かに似ていると思ったけれど、何だったのか思い出せないまま、花京院は自分の指先で、一度だけ弦を弾き下ろした。
 じゃらんと不揃いの音を響かせた後で、そっと承太郎の掌の下から自分の手を引き抜いて、
 「弾いてくれ。もう3回くらい。そしたらレポートに戻る。」
 承太郎の胸の中にきちんと座り直す。承太郎がギターをもう少しきちんと抱え直す。またあの優しい曲を承太郎が奏でる。自分が弾いているのだとわざと錯覚しながら、死んでしまったギタリストと生き延びた自分のことを、花京院は音符の合間にずっと考え続けている。
 承太郎の長い指がネックの上を滑り、きゅっと、弦がひどく切ない音をまた立てた。

* 2011年9月、イベントにて無料配布。
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