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* 絵をもらって文章をつける頂いた by くららさん

淡雪

 日曜の午後遅く、もう日の暮れ掛かる頃だった。
 夕飯はどうするかと、面倒くさい気分と一緒にだらだらと考えていた億泰は、玄関のドアを叩く音に気づいてどたどたと階段を駆け下りる。仗助か康一かと予想しながら開けたドアの向こうに、すらりと立つトニオの姿があった。
 「億泰サン。」
 普段着姿のトニオは、シェフ姿の時と違って雑誌か何かからそのまま抜け出て来たかのように、彼がイタリア人だと言うことを改めて思い出して、億泰は知らずにぼうっとトニオを見上げていた。
 トニオの丈の高い背の後ろから、ぴゅうっと冷たい風が吹き込んで来る。中に入れと手招きしようとしてから、たまたま掃除をさぼってしまったこの週末の、埃のあちこち舞う家の中がちょっと恥ずかしくて、億泰は慌ててサンダルをつっかけて外へ出た。
 「何だよォ、トニオさん。」
 唇の両端をたっぷりと上げて、トニオがにっこりと笑う。億泰が家の中に入れてはくれないのに、気を悪くした様子もない。彼の背後の夕暮れの街並みが、まるで写真のようだ。億泰はまたそれに見惚れた。
 「渡したいモノがあっテ、持って来マシタ。」
 玄関前に突っ立った億泰へ顔は向けたまま、門の向こうに停めてある車へ戻ってゆくトニオの背中へ、億泰は、
 「あ、すぐ戻る!すぐ戻るから!」
 言葉の間に小さなくしゃみをふたつ挟んで、急いで家の中へ戻る。どたどた2階へ上がって、ジャージの上を着て、さらにマフラーもぐるぐると巻いた。
 何を着てもお洒落にしか見えないトニオの傍らに立つには、あまりにもひどい格好だけれど、父子家庭の、しかも父親はとても外に出せる状態ではない虹村家で、今さら億泰の来客を迎える格好にいちいち文句を言う誰もいない。
 億泰は、どたどた再び階段を駆け下りて外へ飛び出た。
 トニオはさっきの笑顔のままそこにいて、戻って来た億泰の前に小さな紙袋を差し出し、
 「億泰サンにデス。」
 「何これ?」
 両手に乗せられたその中身を、あごを引いて覗き込んで、差し入れた指先に冷たい金属の表面が触れる。感触からの予想よりもずっと軽い手応えに覚えがあって、億泰は目と口を同時に大きく開いて、
 「あ、これ!オレの?!」
 うなずく代わりに、トニオが優雅に小首を傾げて見せた。
 エスプレッソを淹れるための、小さなポットだった。銀色の本体に黒の取っ手がつき、紙袋にはさらにそれ用のコーヒーのパッケージと、小さな泡立て器のようなものも一緒に入っている。
 「ワタシが使っていたモノで、新品ではナイですが、ずっと使えマス。」
 少し前に店で、こうやって淹れるのだと、トニオが実際に使って見せてくれた。水を入れコーヒーを入れ、火に掛けておけば数分でエスプレッソができる、これなら誰でも大丈夫だと、トニオは今と同じ笑顔で億泰に言い、使った後の洗い方まで丁寧に教えてくれた。
 億泰は顔中雪崩を起こしたような笑顔で、その銀色のポットとトニオを交互に見て、
 「ありがとよォ、トニオさん。わざわざオレのために──。」
 億泰の笑みを写したように、トニオの微笑みもいっそう深くなる。
 「明日の準備がついサッキ終わッテ、億泰サンの顔見に来マシタ。ワタシの大切な息抜きノ時間デス。」
 イタリア語がそういうものなのか、それともそれはトニオの日本語の使い方のせいなのか、トニオは自分の思うことを表現する時に、しばしば大袈裟な言い方をした。他の誰かからならさぞ嫌味に聞こえるだろうそれらの言葉たちが、トニオの唇から出て来ると、カフェラテに乗せたホイップクリームくらい甘く優しく響く。自分に対してトニオの使う言葉の響きの優しさに、億泰は音楽でも聞くように聞き惚れて、落ち着かない気分でひとり勝手に照れるのが常だ。
 今も同じように、自分の頬が赤いのは寒さのせいだと思い込んで、トニオがとろけそうに優しげに自分を眺めている視線の意味には、まったく思い当たらないでいる。
 ポットを紙袋の中に戻して、ありがとよォともう一度繰り返してから、これで終わりにしてしまうのが惜しくて、億泰は何とか話の接穂を探した。
 「明日の準備って、何かあんの?」
 「結婚式の後のパーティーで、午後カラ貸し切りデス。ダカラ店は閉めたママデス。」
 「え、明日店休みなの? ちェッ、放課後行こうと思ってたのになァ。」
 「残念デスネ。」
 舌打ちと一緒に唇をとがらせた億泰に、トニオが困ったように肩をすくめる。
 「そっかァ・・・じゃあ明日はこれでカプチーノ淹れる練習でもするかァ。」
 軽く紙袋を振って音を立てて、億泰がいかにもいいアイデアだと言うように笑顔を淡く取り戻し、そして続きに大きなくしゃみをした。
 気づくと、雪が降り出している。積もるほどではない、触れる端から消えてゆくような淡雪だ。ふたりは同時に空を見上げ、億泰は思わず口を開けて、雪を舌の上へ受け止めようとした。くすくす笑いがふたりの唇からこぼれて、雪の行方を追いながら、すでに日の落ちた周囲は薄暗い。家々の窓にはもう、明かりが灯り始めている。
ツイログちょこっとまとめ/九らラ
ツイログちょこっとまとめ
/ 九らラ
 「寒いデスよ、中に戻って下サイ。ワタシも帰りマス。」
 トニオが、促すように軽く億泰の肩を押した。
 つやつやとした革手袋のその手の、指先までの動きすら優雅で、それが自分の毛玉だらけのジャージに触れているのが信じられずに、億泰は、何もかもが恐ろしくチャーミングなこの男が、何かと言うと自分のことを気に掛けてくれているのだと言うことがいまだ完全には信じられずに、心のどこかがうずくように、一体なぜだろうかと、呼吸が止まった一瞬にだけ考えた。
 黙って見つめ合ったその間に、不意に億泰は思いついて、
 「あ、トニオさん、ちょっと!」
 突然大きな身振りで両手を持ち上げ、首に巻いていたマフラーを外す。ぐるぐる子どもが暴れるような仕草でそれを取り、億泰はトニオへ半歩近づいた。
 「寒いからさァ──。」
 わずかに、かかとを上げて背伸びする必要があった。トニオの、すでにタートルネックのセーターに包まれた首筋へ、億泰はそのマフラーをできるだけ静かに丁寧に、ぐるぐる巻いた。
 近づくと、白い息が互いに掛かる。トニオは億泰の親切を断らず、されるまま、あごまで埋まりそうにたっぷりと巻かれたマフラーへ、億泰へ見せるために鼻先を埋める。
 「──あったかいデスネ。」
 億泰のぬくもりがまだあるマフラーの奥で、よく通る声がくぐもった。トニオは目を細め、まだ遠ざからない億泰をじっと見つめた。
 「デモ、マフラーがナイと、億泰サンが寒いデス。」
 決してここで外す気配は見せずに、トニオは確認のためにようにつぶやく。
 「あ、オレは兄貴のがあるから。明後日、店に取りに行くからさァーカプチーノ飲みに行くついでに。」
 寒そうに肩を縮めるくせに、おどけたように億泰が軽い声で答える。店に行く口実ができたと、にいっと歯を全部見せる笑顔が言っている。
 兄である死んだ形兆のことを口にする時の、億泰の微妙なトーンをきちんと聞き取って、この、歳よりも幼く見える少年の、まだ育ち切らない背中に乗った人生の重みのようなものを感じるたびに、トニオはイタリアへ残して来た自分の人生の一片のことを思い出す。
 子どもたちをできるだけ豊かに育てるために、忙しかった両親。彼らの代わりに、トニオたちの面倒を見てくれていた母方の祖母。トニオが料理を習ったのは彼女からだ。様々な家庭料理、保存食、野菜の選び方、切り方、彼女は幼いトニオの手を取り、大きな包丁の研ぎ方も教えてくれた。
 とうに死んだ彼女は、今もトニオの作る料理の中に確かに生き続けている。そしてトニオの店にやって来る億泰の中へ、彼女の魂は受け継がれてゆく。同じように億泰の中に形兆が生き続けていて、形兆もまた億泰を通していずれトニオの中に宿り、そうやって先に逝った魂たちはどこかで混じり合い、やがてひとつになるのかもしれなかった。
 億泰に何かを伝える時の自分の口調が、祖母のそれそっくりだとトニオは気づきはせずに、それでも、祖母が自分を慈しんでくれたように、自分はこの少年がいとおしくて仕方ないのだと言う自覚はある。
 愛情と言うものは、注げば注ぐほど広がり深まり増えてゆくものなのだと、祖母が語らず教えてくれたことを、トニオは見知らぬこの街で億泰に出会って学び直していた。
 「億泰サン──」
 トニオは口元を覆っていたマフラーを押し下げ、億泰へ向かって軽く体を傾けた。自分の前へ突っ立っている億泰の額へ、自分自身の息で湿った唇を、あくまで軽く押し当てた。
 億泰は身じろぎもせず、トニオが体の位置を戻してもまだ動かず、ひと呼吸の間だけ自分に触れたトニオの唇のぬくもりと柔らかさに、驚きと名残り惜しさを一緒くたに感じて、思わずぐしゃっと紙袋を胸の前に抱きしめる。
 「明後日、店で会いマショウ。待ってマス。」
 マフラーへ鼻先を埋め直し、トニオが目元へ新しい微笑みを浮かべた。億泰は気の利いた挨拶も返せず、反射的にうなずいて見せるのが精一杯で、ゆっくりと去ってゆくトニオの背へようやく手を振り、自分の方へ最後にもう一度振り返るトニオの動きを、映画でも見るみたいにぼうっと眺めて、トニオの車の音が聞こえなくなるまで、薄暗い玄関前に棒立ちになっていた。
 知り合い程度でも、あんな親しげに別れの挨拶をするものなのかと、億泰は自分の額に掌を当て、残っているはずのないトニオの唇のぬくもりをそこに探る。
 顔が赤い。そこに雪が当たって溶けてゆく。億泰自身はそれを知らず、明後日までの長さを、玄関へ向かって肩を回しながら、数えてすでに切なくなっていた。
 着古したジャージの肩を縮め、夕飯の献立を考えて、食事の後に早速父親にコーヒーを振る舞ってみるかと、胸の中の煩いから気持ちを引き剥がすように思いつく。そうして、いつか自分の淹れたコーヒーを、トニオが飲んでくれるだろうかと思った。
 トニオが喜んでくれるほど、上手く淹れられるようになるだろうか。いつか。そのいつかの日まで、トニオは待ってくれるだろうか。
 仗助と康一以外、ほとんど誰も入れたことのないこの家の、ごたごたと片付かない台所に、自分と肩を並べるトニオの姿が浮かんだ。そんな日がきっとあると、なぜか素直に信じられて、億泰は抱えていた紙袋を壊れもののようにそっと抱え直し、2階へ向かって声を張る。
 「オヤジー!もうちょっとで晩メシだかんなーッ!」
 父親との夕食のために、今はひとりで台所へ入りながら、明日はちょっと丁寧に家の中の掃除をしようと決める。明かりの点いた台所は、なぜかいつもより寒くないような気がした。
 積もらない雪が、窓の外に静かに降り続いている。

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