長距離電話

 電話が鳴る。思わず左腕の、今はもう動かない時計を見てしまう。まだ、以前の習慣が抜けない。時間など、もう無意味だと言うのに。
 電話は鳴り続けている。懐かしい音だ。甲高い、けれど不快ではない音。5回、6回、まだ鳴り続けている。50回に届く頃には、掛けた人間が諦めなくても電話は切れてしまう。そのことを、花京院はここへ来て知った。
 誰も知るはずのない番号だ。そもそも、電話に見えるのも、それはむしろ幻覚に近い。けれど幻聴とも思えないほど、電話の音は懐かしくて、そうして、こうして鳴る時はいつもそうであるように、今日も執拗だった。
 祖父母の家にあったような、重い黒電話。あっても無駄だろうに、ダイヤルがきちんとついている。そこへ指先を入れて、回す番号はもうないのに。
 花京院を声の限りで呼ぶように、電話が鳴り続けている。それに応えたのは、最後はいつだったろうか。
 花京院は、20回を越えたところで受話器に手を掛けた。なるべくゆっくりと持ち上げる。向こうが、その間に諦めて電話を切ってくれることを、心のどこかで願いながら。
 耳を寄せれば、恐らく驚いているための沈黙。この沈黙も初めてではない。花京院は息を詰めて、向こうが何か言うのを待った。
 「・・・花京院か。」
 久しぶりの声だ。憶えているそれよりも深みが増していて、もうすっかり安定した、大人の男の声だ。その耳に、自分の声はどれだけ幼く聞こえるだろうかと、思いながら花京院は応えた。
 「やあ、承太郎。」
 なるべく朗らかに、昨日通学路の途中で別れたばかりだと、なるべくそんな風な声で。そうして、また訪れる、数瞬の沈黙。
 驚愕と戸惑いと躊躇(ためら)いと、そうして、確かにひと筋混じる、嬉しさ。すべてをまんべんなく混ぜて、沈黙がそのすべてを何ひとつ逃さず伝えて来る。
 「やあ、承太郎。」
 花京院はまた言った。
 「・・・元気か。」
 何を言えばいいのかわからず、とりあえず口をついて出た、という風に承太郎が訊く。とても奇妙な質問だ。花京院は、腹の傷の縁に触れながら思う。
 「変わりがないか、という意味でなら僕は元気だ承太郎。」
 指先に触れる傷の縁はざらついていてギザギザで、これでは塞ぐこともきっとできなかったろうと、花京院は自分の腹を下目に見た。血はとっくに乾いていて、もうそこから流れ出す何もない。無理に体を折れば、砕けた骨やちぎれた血管と内臓のなれの果ての肉片が見える。血の気はなく、紫色だった時もあったけれど、今では乾いた土色をしている。
 背中にも同じような傷があって、体の真ん中にあるその穴を、ハイエロファント・グリーンに覗かせてみようとして、果たせなかった。ハイエロファント・グリーンは、花京院と一緒には来れなかったのだ。ここへ来る途中の、どこかで失われてしまったのだと悟った時に、花京院は初めて少し泣いた。
 失ったのは、ハイエロファントだけではなかった。
 「君は元気か承太郎。」
 今度は花京院が訊いた。また沈黙。答えがないのか、単に答えたくないのか、どちらも正解だと知っていて、花京院はもう一度尋ねた。
 「君は、変わりないのか承太郎。」
 今では、滅多と使うことのない舌先が、今でもなめらかにその名を呼ぶ。言葉や声は必要なく、思念ですべて伝わる、ここはそういうところだった。
 そう言えば、物を持ったのも久しぶりだ。それなのに筋肉が衰えていないのが、不思議ですらないこの場所で、いつまでもぬくまらない受話器に耳を当てて、花京院は承太郎の息使いに耳をすませる。
 「僕に電話して来たのは君の方だぞ承太郎。」
 笑いながら言う。承太郎は笑わない。黙ったままでいる。
 沈黙は、何より雄弁だ。言わない承太郎の言葉が、音楽のように伝わって来る。それはとても陰鬱な、聞いているだけで心臓を握り潰したくなるような、そんな悲しい調べだった。
 腹にあった掌を、花京院は自分の左胸に移した。
 「僕は、君のところには戻れない。僕はどこにも行けない。君は早く僕のことを忘れて、いろんなことをもっと大事にした方がいい。」
 反論せずに、承太郎は花京院の言葉を聞いている。内容など今はどうでもよく、ただその声そのものを、記憶に刻みつけるように、承太郎は花京院の声に耳を傾けている。
 憶えている通りだろうか。それとも、今では呼吸も必要ないせいで、記憶のそれと変わってしまっているだろうか。それは、ほんとうに花京院の声が変わってしまったせいなのか、承太郎の記憶の方がねじ曲げられてしまっているのか、確かめる術もない。
 承太郎はただ、これは花京院の声だと信じて、まるで胸の奥に吸い込むように受話器の向こうで聞き入っている。
 「結婚して、娘もいるんじゃないか。君はもう、ひとりじゃないんだ承太郎。」 
 知らずに、口調が諭す風になる。生意気だろうかと、花京院はわずかの間ためらって、結局そのまま言葉を継いだ。
 「君は、娘さんを母親似だと思ってるようだが、あの子は君そっくりだ。彼女の魂の色は、君のとそっくりだ。僕にはよく見える。」
 「見えるだけか? 見てるだけか?」
 突然承太郎が反駁して、激したように声を上げる。受話器を持つ手が、震えているのが花京院にはわかる。どこかの公衆電話だ。人通りのない道の、ぽつんとそこだけわずかに明かりのともる、電話ボックス。承太郎はその中に、窮屈そうにあの背高い体を押し込んで、硬貨もカードも入れすにでたらめな番号を押して、こうやって花京院と話をしている。
 深夜を過ぎて、たまに起こる奇跡。あまりにも残された想いが強くて、強過ぎて、だからこうして届いてしまう。届いても、誰にも良いことはない。未練ばかりがつのって、想いはいっそう深まるばかりだ。満たされることのない、永遠にかなうことのない願い。まるで、花京院の腹に開いた穴のように、底なしの虚(うろ)だ。その中へ向かって、大声で叫び続ける承太郎を、花京院は今もどうしていいのかわからない。
 「見てるだけだ。僕にはそれしかできない。」
 伸ばした指先は空回る。触れ合うことはできず、素通しになる体に、触れられたという感触はあるはずもない。存在を感じることさえまれだ。
 それでも、こうして、強過ぎる想いだけは時々届く。想いの深さゆえに、こうして幻覚めいて実体化すらして、ふたりが交わす言葉は、少なくともふたりにとっては今だって生々しい現実だ。
 魂は、忘れられるごとに薄まって、風化してゆく。色褪せ、輪郭を失い、文字通り朽ちてゆく。それは、ここでは決して不幸ではないのだ。朽ち果てれば、ここから解き放たれて、別の何かになれる。
 花京院は、次の生を望まず、承太郎の想いによって──そして、花京院自身の思いによって──ここに縛りつけられているのを、恨みにも思わない。
 君の知らない誰かや何かに、生まれ変わっても仕方がないじゃないか。君と出逢えないなら、意味がない。
 花京院本人として再会できないなら、すべてが無意味だと、花京院はごく当然のように思った。それが果たせるはずもないから、花京院はここにとどまって、今こうして承太郎と言葉を交わしている。
 承太郎も、同じことを言った。てめーがいねえのに、なんでこの世界を守る必要がある。すでに承太郎によって守られてしまっている世界の真ん中で、承太郎が叫んだ。花京院に向かって、泣くように叫んだ。あの承太郎はまだ、あの裾の長い制服姿だった。
 今では承太郎は結婚して、娘のいる父親になっている。声も態度もすっかり落ち着いて、スタープラチナを自在に操って、花京院の知っている承太郎とは大違いだ。
 あの、抱きしめた体の熱さを憶えている。あれは、今も変わらないままだろうか。今では体温のない花京院は、たとえスタープラチナが心臓を動かしても、体を巡る血のない自分の体を、少しだけ忌々しく思った。
 会いてえ。
 絞り出すように、承太郎が言った。ように聞こえた。そう思っただけで、声ではなかったかもしれない。けれど花京院には聞こえた。
 そこに行けばてめーに会える。
 花京院は、心臓の辺りを押さえて、苦笑を作った。
 「みんな、いつかはここに来るんだ。君の番もいずれ来る。そのうち会える。」
 「いつだ?」
 花京院の語尾にかぶせるように、承太郎が訊く。切羽詰まったようなその声に、花京院は答える前に、深呼吸した。
 「いつだ花京院。おれがそこへ行くのはいつだ。教えろ花京院。」
 「・・・ずっと先だ。そうでないと僕が困る。急がなくていい、その時は必ずやって来る。急ぐ必要はないんだ、承太郎。」
 承太郎が黙り込んだ。花京院の言葉をきちんと受け取ったのか、あるいは右から左へ聞き流そうとしているのか、受話器越しにはわからない。それでも、いくら急いだところで、ここへやって来る順番は、まだ承太郎へは回って来ないことを知っている花京院は、それを正確に告げるのは残酷でしかないと、それ以上は口をつぐんだ。
 「君は、そんなに弱い人間だったか承太郎。君はとても強い人だったろう。誰もかなわないくらい、強い人だったじゃないか。」
 慰めるようではなく、笑い飛ばすように言ってみたけれど、声が震えたのは花京院の方だった。死ぬほど焦がれて、会いたくても会えないのは、承太郎の方だけではないのだ。
 「・・・てめーがいたからだ。あの時は、てめーがいたじゃねえか。」
 承太郎と同じ陽射しを浴びて、同じ月を見上げて、同じ空気を吸っていた花京院は、もうどこにもいない。花京院は、承太郎を置き去りにした。承太郎はひとり取り残され、空になった自分の左側に、伸ばした腕がどこにも届かずに空回るのを、ひとり眺め続けている。
 振り返るどこにも花京院の姿はなく、喉を反らして目を細めるようにして眺める前方にも、花京院の気配はない。いつか、その気配がどこかに現れると、馬鹿げたことを信じ続ける自分の靱さ──あるいは、弱さ──だけが、今は心の拠り所だ。
 「花京院・・・。」
 その呼び掛けに、応えようとしてやめた。強く深く瞬きして、泣くのを耐えた。それが、承太郎のためにできる精一杯だった。
 「そろそろ、いい加減にした方がいい。お休み承太郎。」
 「まだ行くな。」
 「もうだめだ承太郎。僕に近づき過ぎない方がいい。さようなら承太郎。」
 「まだ行くな花京院。」
 「承太郎、さようなら。」
 最後の1音を言い切る前に、受話器のフックを指先で押し下げた。
 耳に当てたままの受話器から、電話が切れたことを知らせる無音が流れて、承太郎の気配も断ち切られように途切れる。花京院は、10数える間、その無音に聞き入っていた。
 掌の中に、受話器が確かに重い。それを胸に引き寄せて、手を離せば、その電話は幻のように──まさしく、幻だからだ──消えてしまうと知っているから、花京院はいつまでも、受話器の中の無音をいとおしんでいた。今は鼓動のない自分の胸に押し当てて、そこへ承太郎の残した気配を流し込むように、自分の淋しさを憐れまないように気をつけながら、花京院はじっと受話器を抱きしめていた。

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