Losing You



 貧相な子猫だった。触っただけで折れそうな足に、三角形にとがった鼻先、ほんとうは真っ白なのだろう、薄汚れて灰色の毛並み、家のすぐ近くの路地からよたよたと這い出て来て、承太郎の目の前で、みきゅうと鳴いた。
 細くかすれたその声に、いつもならふんと肩を揺すって通り過ぎるだけのはずなのに、承太郎は、大きな手を伸ばしていた。
 両手どころか、指先だけで絞め殺してしまえそうな、小さな子猫だった。
 承太郎は、思い出している。
 捨て猫を拾って帰ったことなんて、小学生の時以来だったから、承太郎の手の中に子猫を見つけたホリィが驚いて、けれど次の瞬間には満面の笑みを浮かべて、いそいそとその子猫のために、小さな箱にタオルを入れたり、小さな皿に牛乳を少し入れてやったり、ひとりばたばたと大騒ぎをした。
 うるせぇ、少し落ち着け。
 おびえたように、承太郎の制服の袖に、小さくて細い爪を立てている子猫をかばうように抱いて、承太郎は、低い声でホリィに言った。
 でも承太郎、どうするの? 飼うの?
 あくまで明るく訊いたホリィに、その時承太郎は、どうするとも返事をしなかった。
 何か、とても静かな気持ちで、タオルの上にころりと転がった子猫を見下ろしていた。
 今考えれば、あの時すでに、予感があったのかもしれない。
 痩せこけた子猫が、承太郎の胸の中の何かを、かすかに揺り動かしたことだけは間違いがない。それは、まだじくじくと血をにじませている傷口だったけれど、その痛みに、承太郎自身が気がついていなかった。
 助けの手を必要としている子猫が、誰かを思い出させた。その誰かに思い当たったのは、もう少し後のことだったけれど。
 子猫の用のエサを買って来るついでに、猫の飼い方という本も手に入れた。
 大判の、写真のたくさんあるその本を片手に、湯で柔らかくした猫の缶詰を食べさせようと、承太郎は何時間もてこずった。
 子猫はすぐに元気になって、たくさん食べて、たくさん寝て、たくさん遊んで、奇妙な熱心さで子猫を眺める承太郎のそばで、ホリィは、意外なほどしつけには厳しく、決して声は荒げずに、けれど確かに諭すような声音で、それを見て承太郎は、自分がそんなふうに育てられたのだと、ふと懐かしく、覚えてもいないことを思い出していた。
 ホリィが、何度も濡れたタオルで拭いたせいか、子猫の毛並みは本来の白さを取り戻し、元気になってからは、小さな体で生意気に、自分で毛づくろいをするようになった。
 承太郎は、どうしてか子猫に名前をつけようとはせず、ついにホリィがしびれを切らして、英語の名前を与えてしまった。
 名無しなんてかわいそうじゃない。
 膝に抱き上げて、新しい名前を呼ぶ。子猫は、ホリィの指先に喉を伸ばして、うっとりを目を閉じる。
 真っ白になった猫は、拾われた時よりも少し大きくなって、もう貧相とは言えなくなっていた。
 まだ青みがかった瞳は、大人の猫の色は見せてはいなくて、白猫だから、金色だろうか澄んだ空色だろうかと、ホリィが抱き上げて、目元を覗き込んで、うきうきと楽しげに言う。
 さあなと、承太郎は、自分の方へ寄って来た子猫を膝に乗せて、読んでいた本に視線を戻した。
 承太郎の片手には、さすがにもう収まらない。それでも、まだ充分に小さな子猫は、承太郎の指に撫でられて、ゆったりと体を伸ばして、けだるげに目を閉じる。
 メスだとホリィが言ったその子猫に、承太郎は、明るい緑の首輪をつけてやった。同じ色の鈴のついた、金色の見え始めた瞳によく映える、真新しい首輪は、子猫の細い首には、まだ少し重そうに見えた。
 ちりちりと、鈴が鳴る。子猫がいる。振り返って、思わず微笑む。ホリィが呼ぶその名前をちゃんと覚えて、子猫はいつもどこからか飛び出してくる。
 いくらホリィが言っても、承太郎は決して子猫を名前で呼ばなかった。
 それでも、子猫は承太郎に懐いて、承太郎の部屋へよくやって来た。
 子猫が出入りし始めてから、承太郎は、床にレコードのジャケットや大事な本を放っておくことをしなくなった。ぼんやり、古いレコードを聴いている承太郎のそばで、子猫は、まるでそれに付き合いでもしているように、小さな体を丸くして、耳だけをきちんと立てている。
 かすかに緑がかった金色の目、真っ白い毛並み、長い足と同じほど、ぴんと伸びた尻尾、貧相な捨て猫だった面影はもうどこにもなく、緑の鈴をちりちり鳴らして、家の中を歩き回る。
 拾ってくれた恩を感じてでもいるように、夜は必ず承太郎の布団にやって来る。枕に乗って、丸めた背中を承太郎の首の方へ滑らせて、自分の体が収まる場所に落ち着いて、承太郎と寝息を揃える。ぴったりと、頭を承太郎の体のどこかにくっつけて、朝まで何度か寝返りを繰り返して、眠る。
 子猫を起こさないために、承太郎はいつの間にか、ほとんど寝ている間、手足や体を動かさなくなっていた。
 じっと、自分を見上げる金色の瞳に、やるせなさを感じ始めたのは、一体いつからだったのだろう。
 何かを思い出して、それから必死に目をそらして、これは猫だと言い聞かせて、自分を待っているその小さな白い頭を撫でてやる。目を細めて、ありがとうとでも言いたげに、また承太郎を見上げる。
 おれを、そんな目で見るな。
 子猫は、きょとんと承太郎を見る。滅多と鳴かないのに、口を開けて、みゃあと鳴く。
 なぜ、この猫を拾ったのだろうかと、考えている。捨て猫をかわいそうだと、特に思うような性質(たち) でもなく、確かに、いかにも憐れな姿だったけれど、そんな猫なら、今まで山ほど見て来たのに、なぜこの猫だけは、その場に捨て置けなかったのだろうかと、その理由を考えている。
 何もかもは、最初から決まっていることなのだろうか。
 出会うことも、別れることも、もう、二度と会えないということも、すべてが定められてしまっているのだろうか。
 それなら、どうして出会うのだろうかと、承太郎は、また考えても仕方のないことを、繰り返し考える。
 ホリィが、首輪は形見に取っておきたいと言ったけれど、つらいだけだからやめろと、言ったのは承太郎だ。
 見覚えのあるものを目にして、悲しみをまた繰り返し思い出すのは、身を切られるようにつらい。だから承太郎は、忘れろとホリィに言った。
 でも、楽しいこともたくさんあったのよ。悲しいことだけじゃないでしょ?
 たった数ヶ月だったけれど、楽しいことばかりだったと、改めて思い出しているホリィの表情を読み取って、それでも承太郎は、首輪を外そうとはしない。
 ・・・おれが、思い出したくねえ。
 ホリィが、ちょっとあごを引いて口をつぐむ。
 承太郎の革靴の靴ひもにじゃれて、よく遊んでいた。承太郎が脱いでおいたシャツの上に丸まって、幸せそうに眠っていた。だから、承太郎のシャツにくるんで、革靴から外した靴ひもでゆるく縛って、深く掘った穴の底に、そっと横たえた。
 拾った時には片手に乗った体は、いつの間にか、承太郎の靴と同じくらいの大きさになっていて、つい昨日のことのように思える拾ったあの日から、ずいぶんと時間が経っていたのだと、改めて思う。
 軽く土を盛り上げた庭の隅で、ホリィがしゃがみ込んで、顔の前で指を組み合わせる。うなだれた、その首の細さを見下ろして、承太郎は、ホリィが泣いているのだと思ったから、空を仰ぐふりをして目をそらす。
 わたしたちを幸せにしてくれるために来てくれたのね、きっと。
 しみじみとした声で言うと、ホリィはゆっくりと立ち上がって、縁側の方へ肩を回す。
 承太郎は、まだそこに立ったままでいた。
 中に入らないの、承太郎。
 ホリィが、今日はなかなかうまく浮かべられない笑みを、それでも薄く刷いて、前を見据えたままの承太郎に振り返る。
 すぐに行く。先に行ってろ。
 無理に誘うようなことはせずに、ホリィはそうと言っただけで、ひとり縁側を上がって行った。
 泥だらけになったシャベルを、地面にそっと置いて、承太郎はホリィが去ったことを確かめてから、ようやくそこにしゃがみ込む。
 わずかに盛り上がった土の量が、子猫の大きさを示しているようで、やはりそれほど大きくなっていたわけではなかったのだと、最後に抱いた上の中の、頼りない重さを思い出す。
 あの、つやつやとしていた毛並みは乾いて、生き生きと常に何かを見つめていた瞳は閉じられて、硬くなった体は、もうくるりと丸まってしまうこともなく、命のない塊まりになった子猫は、それでも、様々な思いを運んでくる。
 しゃがんで、揃えて胸の前に引き寄せた両膝の上に、組んだ両手を乗せて、その手で、承太郎は口元を覆った。
 合わさった掌の中にあたたかな息を吹き込むように、何度もため息をつく。
 楽しかったとホリィが言う思い出は、時間とともに、色褪せるのだろうか。それとも、現実離れするほど、光り輝くのだろうか。
 思い出の中で、子猫は永遠に子猫のままだ。大人になることもなく、これ以上の思い出を、ホリィや承太郎に与えることもなく、凍った時間の向こうに行って、そこから時折、変わらない姿で、承太郎たちの視界の中に、ちらりと顔を覗かせるだけだ。
 白い子猫の姿に、ようやく、思い出さないように必死に自分を抑えていた、面影が重なる。
 最後に見たのは、血まみれの無残な姿だった。白い膚、青い唇、伏せた睫毛は、案外と長かったけれど、それが風にそよぐことすらもうなく、目に焼きつけるなら、もっと他の姿はなかったのかと、そんなことを考えた。
 20歳の姿を、想像できない。25になり、30になり、おそらく結婚をしたり、子どもが生まれたりもしたのだろう。笑い合って、肩を叩き合って、平穏であることを一緒に喜べると、信じていたことを、今ではもう信じられない。
 花京院は、あの制服姿のままだ。腹に穴を開けて、そこから血を流し、その死に顔から成長することはなく、花京院は、あのままだ。
 この子猫は、花京院だったのだと、何の脈絡も根拠もなく、けれど承太郎は確信する。
 こんなふうに、生き続けることは、失い続けることなのだろうか。生きていく限り、失うことを避けられはしないのか。失うために、人は生きるのだろうか。
 そして、死ぬというのは、こういうことなのか。
 変わらない姿で、もう、思い出を増やすこともできず、引き伸ばされた時間だけが手の中に残される。鮮やかさを保つのは、生きている人間の想いだけだ。
 「花京院・・・。」
 子猫の名前を呼べずに、承太郎は、その名前を口にした。あれ以来、きっちりと封印していたその名前を、ずいぶんと久しぶりに、舌の上に乗せた。
 堰を切ったように、涙が流れた。
 組んだ指を濡らして、手首まで伝って、承太郎は、声を殺して泣いた。
 あの時、流せなかった涙が、今、頬を伝っていた。
 花京院はもう、変わることはない。あのままだ。承太郎が覚えている花京院は、あの花京院だけだ。
 こんなふうに、出逢うということはつらいことなのかと、承太郎は喉を喘がせながら思う。
 だからもう、誰にも出会いたくない、魅かれたくない、失うくらいなら、最初からいらないと、涙に濡れた唇の奥でつぶやいている。
 承太郎を置き去りにした花京院を置き去りにして、ひとり歩き続けなければならない時間の長さを思って、承太郎は、いつかは振り返っても見えなくなってしまうかもしれない花京院の姿を、鮮明に自分の中に焼きつけようとした。
 丸めた背中を抱いてくれる誰もいないまま、承太郎は、胸の痛みを持て余している。
 その痛みすら、いつかは薄れてしまうのだろうか。まだ生々しい心の傷を、癒やす術も知らずに、花京院のために、知らないままでいようと、承太郎はひとり思う。
 子猫の緑の鈴が、ちりちりと、まだどこかで鳴っているような気がして、組んだ両手を、砕けるほど強く握りしめた。


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