君に恋する5のお題@裏庭工房

君に触れる勇気


 初めて触れたのは、頬だった。
 額の、色の薄い髪の生え際に埋め込まれた、脳まで達していた肉の芽を引き抜くために、息のかかるほど近く、顔を寄せたことを思い出す。
 冷たい頬だった。
 血の気のない唇と、生気の失せた瞳の色と、体温の低さに、スタープラチナの掌が、わずかにひるんだことを憶えている。
 まるで、口づけのためのようだったと、無事に肉の芽を抜き取った後で、下らないことを思った。
 自分の動きにつれ、わずかに動いていた瞳。信じられないという表情が浮かんで、そして、スタープラチナの精緻な指先の意図を悟った後で、ふっと目元に浮かんだのは、ひどく静かな、諦めに似た色の、あれは何だったのだろうか。
 すべてをまかせきってしまった、抵抗をやめた瀕死の獣のような、あるいは、あれは、信頼と呼んでもよいものだったのだろうかと、承太郎は考える。
 おまえがわたしを助けるのか。何故。
 そう言われた通り、唇すら動かさず、けれど力を抜いた瞳が、怪訝そうに、そう問いかけていた。
 借りをつくるのは、わたしの性には合わない。返す義理もない。
 そよ風に立った波紋のような、わずかに寄せた眉が、承太郎を睨みつけているようにも見えた。
 承太郎はただ無言で、自分の皮膚の下を容赦なく侵入してくる肉の芽の触手にもかまわず、目の前の男---自分と歳が変わらないとすれば、まだ少年と言ってもいい---を、その醜悪な悪魔の呪縛から解き放つために、ひたと据えた視線を、1mmたりとも動かしはしなかった。
 何を考えていたのか、もう思い出すこともない。貸し借りという考えも浮かばなかったし、これで恩を売ると、そんなつもりも毛頭なかった。そんな恩を感じるような相手と、思いもしなかった。
 まだ死んでいないのなら、まだ生きてるのなら、生かすべきだと、そう思ったのがせいぜいのところだろう。
 けれど、命のやり取りをした十数秒の間、自分に据えられていた、生気のないなげやりな視線を受け止めて、その深遠な冷たさに、彼の心のうろを覗き込んだような気がして、たかが十数年生きただけで、こんな絶望を胸の内に抱え込むというのは、一体どんな人間なのかと、そこにふと興味がわいた。
 物静かに喋り、日に晒したことなどなさそうな白い膚をして、それに合わせて色素を抜いたような髪の色と瞳の色、腹を抱えて笑ったことがあるのだろうかと、何かと言えば陽気に大声で笑う自分の祖父と並べて、下らない比較をしたくなる。
 血の気の足らなさそうな、線の細い外見は、あえて言うなら女性的と表現するのだろう。けれどその外見に惑わされれば、手ひどいしっぺ返しを食らう。
 素早い決断と、冷静な判断と、自分の能力を絶対に過大評価せずに、引き際を見事にわきまえている。必要とあれば、仲間の誰よりも容赦がない。
 承太郎のスタンドが、力で押し切れたからこそ勝てはしたけれど、敵に回したい相手ではないと、仲間になってしまってから思う。
 さすがDIOの野郎が、最初に差し向けた刺客のことだけはあるぜ。
 まだ見ぬ、自分の祖父の祖父の体を奪ったという、闇に棲む吸血鬼のことを思う。一体どうやって、スタンド使いたちを誘惑して、意のままに操っているのか。
 誘惑という言葉を使って、自分でそのことに驚く。
 そんなに、あのゲス野郎は魅力的なのか。
 訊きたいと思って、まだ果たせないでいる。口にしてはいけないことだと、珍しく逡巡が買って、考えるだけにとどめていることだった。
 彼の冷たい膚の下に、けれど触れれば火傷をするほど、熱い意志が隠されていることに、承太郎はとっくに気づいている。その熱い意志すら、あっさりと屈服するほど、DIOという悪魔は魅力的なのかと、まだ、自分の足元を守ることだけで精一杯の自分の稚さを、承太郎はうっすらと恨む。
 その歳にしては大人とは言え、ほんものの大人ではまだないのだと、己れの浅薄さを自覚して、自分はまだ何も知らない子どもだと、けれどそれを言い訳にするには、承太郎のプライドは高すぎる。
 だから、歳相応の浮かれ具合で、その冷たい頬にまた触れたいと素直に思うことを、承太郎はまだ自分に許していない。
 感情を垂れ流しにできるほど子どもではなく、けれどそれを完全に内に秘めておけるほどは大人でもなく、伸びかける手を、何度か止めた。
 血の色の薄い、白い頬。その冷たさを憶えている。
 そこに、心の底からの微笑みが浮かぶことを、そして、その時に、その目の前に自分がいたいということを、承太郎は、心の底から願う。
 近々と見つめ合った瞳の奥に見つけた、深い絶望の色は、まだそこにあのままあるのだろうか。
 DIOを消し去ることで、その色を変えることができるのだろうか。
 そうであればいいと、思ってわずかに肩を揺すった。
 「何だい承太郎、僕の顔に、何かついてるかい。」
 見つめすぎていたのか、視線に気づいたらしい花京院が振り返る。広い薄い唇に、相変わらず色はなく、けれどそこに、うっすらと浮かんでいる明るい表情に、承太郎は一瞬見惚れた。
 「・・・いや、何でもねえ。」
 見つめ続けてしまう視線を断ち切るために、学生帽のつばを、目深く下げる。それから、やれやれだぜと、いつもの口癖を小さくつぶやいた。


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