君に恋する5のお題@裏庭工房

君の名を呼ぶ幸福


 「・・・承太郎・・・」
 語尾を少し上げて、まるで、問いかけるように名前を呼ぶ。
 なんだと、こちらへまっすぐ顔を向ける気配がある。見えはしない。けれど、ひそかに、結界のように這わせてあるハイエロファントグリーンが、それを感じ取って、花京院へ知らせてくれる。
 傷ついた目を覆う包帯を、忌々しく思いながら同時に、見えないその目のせいで、鋭くなった皮膚の感覚を、少しだけありがたく思う。
 空気の動きと、その中に交じる、匂い。今までだって、充分敏感だったつもりだったけれど、奪われた視覚の代わりに、今は全身が、外界に向かって開いている。怪我の治療のための入院には、病院と呼ばれるところならどこでもそうだろう、鼻の奥を刺すような消毒液の匂いが、いつだってつきまとっている。
 そうして、その中で、明らかに異質な、際立つ匂い。長旅の埃と煙草の匂い。そして、上昇した体温が皮膚を焦がしている、そんな、熱い匂い。
 承太郎と、そのスタンド、スタープラチナの匂いだ。
 スタンドにも匂いがあるのだと、花京院は初めて知った。
 病室の外にまで這わせてあるハイエロファントグリーンの気配を見つけて、承太郎が、こちらへやって来る途中でスタープラチナを出現させたのを感じたのは、もう30分ばかり前だ。
 承太郎、と、距離にも関らずに呼びかけると、元気かと、向こうからも声がやってきた。
 まずは気配が、次に足音が、そうして、少しずつ強くなる匂いの方へ振り向いて、それから、いつも見上げるよりももっと高い位置へ、見えない視線を泳がせてから、精一杯首を伸ばした。
 「・・・見えてるわけじゃなさそうだな。」
 視線を当てた方向から、正しく声が落ちてくる。低いしみ通るような声を、花京院は、包帯の下でゆっくりとまばたきしたつもりで聞いた。
 ここへ来るまでに煙草を吸っていたのか、その匂いに少しだけ眉を寄せて、けれどその匂いを懐かしく、胸の奥までそっと吸い込む。承太郎には気づかれないように、けれどひとりになっても忘れてしまわないように、深く、ゆっくりと。
 「感じることはできる。でも、まともに戦えるかどうかは怪しいな。」
 「てめーは傷を治すことだけに専念してろ。」
 ベッドが並ぶだけの簡素な病室に、見舞い客のための椅子があるはずもなく、花京院は体を少しずらして、承太郎が腰を下ろせるだけのスペースを、白い掛け布の上に作ると、その辺りを軽く掌で叩いて示す。
 ベッドの強度を軽く疑う視線が、その掌の辺りに走ったのを感じた後で、音も立てずに、承太郎の体重が傍へやって来た。
 「・・・アヴドゥルは大したことはねえ。」
 顔はあちらに向けたままで、承太郎がぼそりと言う。もしアヴドゥルもここで足止めを食えば、3人だけで先へ進まなければならない、そうなれば、ろくに治療もしないまま無理に着いてくるだろう花京院の焦りを、まるで読み取ったように、承太郎の声が、いつもよりも低く聞こえた。
 「ぼくも数日で退院できるそうだ。失明の恐れはないし、ここを出たら、すぐに君たちの後を追うよ。」
 「・・・ああ。」
 スタープラチナは、承太郎がベッドに腰を下ろしたと同時に姿を消し、花京院も、ずっと這わせ続けていたハイエロファントグリーンを、自分の元へ引き戻した。
 今なら無防備でいても、承太郎がいるからと、ここにひとりになって以来、ずっと張りつめていた緊張を、少しだけゆるめる。
 日本を離れて、大した時間が経っているわけでもないというのに、ひとりではないことにすっかり慣れ切ってしまっていたことに、こうやって気づく。ほんの数日のことだと言うのに、ここにひとり取り残されることを、花京院はひどく残念に思った。
 スタンドを出していないと、周囲の気配を完全には探れない。承太郎がどちらを向いているのかさえわからなくなって、花京院は、まだ充分に強い煙草の匂いを追う。
 そろそろ、立ち上がるしおを探しているのか、承太郎が軽く膝を動かしたのが、ベッドをわずかに揺らした。
 「承太郎・・・?」
 ベッドの上で、体重が少し移動する。こちらに向いたのだと思って、花京院はまた名前を呼びながら、そちらだろうと思う方へ手を伸ばした。
 「承太郎・・・承太郎・・・承太郎・・・」
 届かずにさまよう手に焦れたように、あごの辺りが近づいてきた。花京院は、不意に触れた承太郎の頬らしきところに、しっかりと指を添わせた。
 「承太郎。」
 「なんだ、うるせえ。」
 怪訝そうな口ぶりで、けれど顔を振って逃げ出す様子はなく、花京院は、思い切って両手とも、承太郎の顔へ伸ばす。
 「承太郎。」
 「・・・なんだ。」
 口を動かすと、あごや頬も動く。自分の名を呼ぶ時には、どんな動きをするのだろうかと、花京院は掌で承太郎の顔を撫で続けた。
 思ったよりもふっくらとした唇、強い意志を示す、頬の骨と鼻筋、太い眉と秀でた額、それから、薄いまぶたに、そっと触れた。
 「こうしないと、君だとわからない・・・」
 言い訳のように言って、うっかり近づけた鼻先に、また煙草の匂いが立つ。
 触れていなければ不安だと、多分指先から伝わっているだろう。声がなければ、気配で感じ取るしかなく、見失ってしまえば、自分がどこへいるのかすらわからない。
 行かないでくれと、思わず言いそうになった自分に、花京院は驚いた。
 包帯に覆われて、表情が隠れていることに感謝しながら、もうやめようと、掌を引きかけた時に、承太郎の口元がわずかに動いた。
 花京院。
 声は聞こえなかったけれど、そう動いたような気がして、もう一度だけ、額の辺りを指先で撫でる。
 承太郎。
 指を離しながら、応えるように、唇だけを動かした。
 承太郎が立ち上がる。ベッドのきしみでわかる。こちらを見下ろしている。けれど、そちらへ顔を向けるのはやめた。
 「行くぜ。」
 ああとうなずいただけで、声の位置がわからないふりをした。
 煙草の匂いが遠去かる。足音を追って、けれど花京院は顔の位置を動かさずにいた。
 承太郎が坐っていた辺りを探して、掛け布の上に、指先を滑らせた。ぬくもりが残っているような気がするところに、掌を当てて、まだスタンドは出さないまま、花京院は、指に触れた承太郎の顔の形を、そのぬくもりの上に重ねていた。
 承太郎。
 小さな声は、誰かの耳に届いたかも知れない。
 承太郎。承太郎。承太郎。
 ひとりではない、呼べる名がある。
 承太郎。
 応えるのは今は、消えかかったぬくもりだけだったけれど、それでも花京院は、ひとり、その名を呼び続けている。


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