君に恋する5のお題@裏庭工房
君の声に耳を傾けて
全身が砕けそうな衝撃の後で、凍るような冷たさが襲ってくる。
流れるその音が、水なのだと気づいてから、自分の血ではないのだなと、花京院は思った。
けれど、動かない体を無理に動かして、下の方へ目をやれば、見事に穴を開けられた腹から、ぞっとするほどの量の血が、滴っていた。
手足が重い。首を傾けることすら、とんでもない気力がいりそうだった。
その気力は、もう必要のないことになりそうだと、こんな時だというのに、微笑が浮かぶ。
生意気だとか高慢だとか、そんなふうにしか評されたことのない笑みだったけれど、そんな笑みすら滅多と浮かぶことのなかった、この旅へ出掛ける以前の自分のことを思い出していた。
承太郎、今どこにいるんだ。
空気が、喉で尖る。呼吸すら苦痛で、花京院は、血ばかりあふれた気管がぬるつくのに、寒気を覚えた。
背中と手足を浸す水が、冷たい。腹と胸を覆う血も、冷たい。
指先から、体温が逃げてゆくのが、目に見えるようだった。
そこからもう、エメラルド・スプラッシュを繰り出すことはかなわず、もう空気と同じほど薄れた姿のハイエロファントグリーンが、まるで主である花京院を抱くように、そのしなやかな腕を、もう自力では動かせない花京院の肩に添えていた。
死ぬのだと、はっきりと自覚して、この悪夢のような夜を、残りの仲間たちが無事に生き延びることを、心の底から願う。
アヴドゥルとイギーが先に逝っている。自分を待っていてくれるだろうかと、花京院は、また薄く微笑む。
君を置いて、先に逝くのか・・・。
大きな背中が、目の前に浮かんだ。
どんな時も、揺るぐことのないと思える、大きな背中。その背に馴染んでしまったのは、ほんの2ヶ月足らずのことなのだと思って、その時間のあまりの短さを、残念に思う。思いながら花京院は、けだるげに、ゆっくりと瞬きをした。
目を開ければ、目の前に承太郎の背中があるかもしれないと、ひどく感傷的な気分で、瞬きを繰り返す。
閉じている唇の間から、喉からせり上がってきた血があふれ出す。あごと喉と胸を汚して、腹の大きな穴と一緒に、花京院を、さぞかし無残な死体に仕立ててくれることだろう。
ひどい死に様だと思ってもけれど、死体の有様など問題ではなく、ただこの夜が明ければ、様々に関ってきた人たちの悪夢が終わるのだと、それだけを切に祈った。
100年の因縁、そこに絡め取られてしまったのは、最初は自分の弱さだった。そして、その弱さに打ち勝つために、これが払わなければならない代償だったのだと、花京院は、ようやく持ち上げた腕を、まだ血の流れる自分の腹へそっと添える。
打ち勝てたのだろうかと、ゆるくなる瞬きの間に、また承太郎のことを思った。
彼ほどではないにせよ、自分もまた、胸を張れるほどには強い人間だったのだと、ただ、少しばかり運が悪かったようだと、花京院は、無駄と知りつつも、引きずり込まれるような眠りに、今はまだ必死で逆らっている。
もう少し。せめて、もう一度だけ。
声が聞きたいと、思った。
低い、耳にではなく、胸の中にじかに響いてくるような、あのしみとおるような、承太郎の声。
あの声が、自分の名を呼ぶ。叫ぶように、ささやくように、あるいは、ひとり言めいて。
細かなことなど何も知らないのに、ずいぶんと語り合ったような気がする。もう、ずっと以前から彼を知っていたように思う。あの声に名前を呼ばれるごとに、素直に剥き出しになってゆく自分がいた。
あの声を、もう一度聞きたい。
腹に置いていた手が、ずるりと滑り落ちた。
それを戻すことはできず、このまま目覚めないことが怖くて---まだ、もう少しだけ---、のろのろと繰り返していた瞬きを、必死で止める。
灰色の視界の中に、承太郎の姿はなく、花京院はまぶたを押し上げたまま、瞳だけを動かして---動かせるのは、もうそこだけだ---、あの裾の長い学生服の後ろ姿がどこかに見えないかと、次第に細くなる視界とともに、肩の力を抜いて行った。
自分を抱きかかえるように、すぐそばにいたハイエロファントが、気づけば姿を消している。もう二度と、現れることはないのだと悟って、生まれた時からの永い友だった、鮮やかな翠の影に向かって、花京院は微笑んだつもりだった。
そうして、もうひとりの、大事な友の姿をまた探そうと、けれどもう目を開くことはできず、花京院は、途切れる意識の直前に、必死で承太郎の声を思い出す。
花京院。
承太郎。呼びかけられて、応えるように、その記憶の声を、何度も何度も繰り返す。
花京院。
承太郎。
聞きたいことはたくさんあった。伝えたいことも、もっとあった。花京院の血に濡れた唇は二度と開かず、承太郎の声を聞くことは、もうかなわない。
流れる水が止まる。血に汚れた口元に浮かぶのは、わずかな微笑み。動き出す時の中で、花京院は永遠に時間を止めた。
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