ララバイ


 なんだこのちっこいのは。
 見下ろして、承太郎は思った。
 たいていのことには驚かないし、たじろがない自信があるけれど、これには少々驚いている。やれやれだぜと言う、例の口癖も出ない。
 承太郎の、腰の辺りにも届かないそれは、文字通り承太郎を見上げている。顔が、天井にまっすぐ向くほどあごを上げて、やたらと線の丸い頬や、やたらと柔らかそうな唇や、やたらと黒目勝ちな目や、そんなものを全部、よくわからない表情で、承太郎に精一杯向けている。
 これは何だ。
 また承太郎は思った。
 子どもだ。4歳か5歳か、子どもの歳はよくわらないけれど、きっとそんな辺りだろう。
 驚いているのはそんなことではない。子どもなんて、どこにだってごろごろいる。泣いて笑って騒いでわめいて、承太郎を見ては泣き出すのもいる。指差されてロボットだーと言われても、さすがに子どもに手を出すことはしない承太郎だ。大体、ひっつかまえるのに、わざわざ腰をかがめて手を伸ばすのが面倒だ。触っただけで壊れそうな子どもが、承太郎は正直大嫌いだ。
 その子どもが、承太郎を見上げている。それ自体は問題ではない。この子は、ただ見ているだけで、承太郎を笑ったり、その身長に驚いて騒いだりはしていない。静かなものだ。ただ黙って、承太郎を見上げているだけだ。
 承太郎がその子から目が離せないでいるのは、その子が埋もれている、緑色の学生服のせいだ。足元にくしゃくしゃに伸びている裾だけで、その子の体重分くらいはありそうなその制服に、承太郎はもちろん見覚えがある。
 見上げるその子の、茶色がかった、ひと房だけ長い前髪---見覚えがあるそれよりも、もっと柔らかそうだ---にも、今はへの字に近く結ばれている唇の形にも、目や鼻の線にも、確かに見覚えがある。
 これはなんだと、また承太郎は思った。
 何かのいたずらか。どこからかよく似た子どもを連れて来て、花京院の制服を着せたのか。上着の肩がずり落ちるどころか、きっちりしめている襟から、小さな肩が覗いている。ろくに見たこともないその下の白いシャツが、中に見える。服全部の方が、きっとこの子の体重よりも、確実に重いだろう。
 「・・・てめー、名前は?」
 日本語で、そう訊いた。子どもは、承太郎の声に反応して、わずかに目を見開き、そして胸を張るように、さらに承太郎へ向かって喉を伸ばす。
 「かきょういんのりあき。」
 ホリィ辺りが聞けば、その場でこの子を引き取ると、言い出しかねないような、まさしく子どもの甘い声だ。
 「ハイエロファントはどうした?」
 両手にポケットを入れたまま、まだ疑いを消せずに、承太郎は意地悪く訊く。
 「はいえろふぁんと?」
 小さな唇が動く。上手く発音できずに、どこか舌足らずだ。
 「てめーのスタンドだ。」
 「すたんど?」
 花京院だと名乗るその子が、長い袖を引きずって胸の前で両手を合わせると、承太郎に向かって、無意識だろう仕草で、小さく顔を傾けた。
 子どもだ。ほんとうに子どもだ。これは演技ではない。何もかも丸い、熟すのはもう少し先の果実のような、内側から照り輝くような頬と唇は、間違いなくほんものの子どものものだ。見た目だけが子どもというわけではない、この花京院は、中身も全部、子どもそのものだ。
 承太郎は、初めてあからさまにうろたえた。
 こんな風に見つめられたら、しかもそれが花京院と名乗っているなら、平静でいられるわけがない。
 一体なにごとだと、やっと事の重大さに気づいて、思う。
 とりあえずは、これが間違いなく花京院であることを確かめなくてはと、もうその必要がない程度に、これが花京院だと信じながら、承太郎はスタープラチナを呼び出した。
 承太郎の背後に、空気を揺らして突然現れた薄青い巨人に、目の前の小さな花京院が目を剥く。驚いて、少しだけ怯えた様子で、後ろに下がろうとして制服の裾に足を取られた。そのまま後ろ向きに倒れそうになった小さな花京院に、承太郎が慌てて腕を伸ばすより一瞬早く、埋もれた制服と同じ緑の、けれどこれはもっと鮮やかに輝いている翠が、かばって支えるようにまとわりついた。
 「ハイエロファント!」
 小さな花京院よりもほんの少しだけ背の高い、間違いなくハイエロファントだ。どこか幼いように見えるのは、承太郎の気のせいなのか。
 「・・・ぼくのともだちが、みえるの?」
 ハイエロファントの腕に抱き止められて、その中で体をねじりながら、花京院が、猜疑に満ちた表情を浮かべる。その時だけは、承太郎の知っている、高校生の花京院の顔が見えた。
 自分に向かって腕を伸ばす承太郎から身を隠すように、だぶだぶの制服の中で手足を縮める小さな花京院を、ハイエロファントが、承太郎から守るように抱きしめて、表情のないいつもの貌(かお)で、承太郎をにらみつけている。
 見た目だけで子どもを泣かせられる承太郎は、ひとまず譲歩のために、スタープラチナを引っ込めた。それから、花京院と目の位置を合わせるために、制服の裾をさばいてしゃがみ込む。背中を丸めて、やや顔を傾けて、花京院の目元を覗き込もうとした。そうして、ようやく空気が和らぎ、花京院が少しだけ、承太郎に向かって顔の位置を元に戻す。
 こんなに小さくても、スタンド使いなのだ。ハイエロファントグリーン---まだ、名はないようだ---は、花京院を主として、すっかり実体化している。
 承太郎は、ようやく小さな花京院に手を伸ばして、頭に触れた。承太郎の大きな掌は、花京院の小さな頭に乗ると、それだけで目まで見えなくなる。ちいせえと、口の中でだけつぶやいて、そのまま、自分の方へ抱き寄せるために、改めて両腕を伸ばす。
 ハイエロファントが、それにわずかに抵抗した。花京院の怯えを、敏感に感じ取るのか、承太郎と奪い合うような形に、いっそう強く花京院を抱きしめる。
 承太郎はスタープラチナを身内にひそめたまま、そこから、ハイエロファントに静かに話しかけた。
 心配するな。何もしねえ。
 ハイエロファント越しに、花京院にもその声が届いたのか、ふっと小さな肩の線がやわらぐ。承太郎の、低くて優しい---精一杯---声に、ようやく警戒を解いたように、自分から、袖に埋まった両腕を伸ばして来た。
 何が起こったのかはわからない。あの、アレッシーとか言うスタンド使いが、承太郎とポルナレフに散々痛めつけられたにも関わらず、まだこの辺りをうろついているのかもしれない。それにしても、これだけ警戒心剥き出しのハイエロファントが、花京院を攻撃されて、いくら小さいとは言えただ逃げ出しただけとは思えず、探せば、さらに痛めつけられたアレッシーが、どこかに転がっているのが見つかるかもしれない。
 まあいい、そんなことは後だ。
 座り込んだ膝の上に、承太郎は小さな花京院を抱え込む。
 小さいどころではなく、両腕どころか、片腕もあり余る。文字通り、制服に埋もれて、こちらを見上げる顔しか見えない。
 とりあえず、袖をまくり上げるところから始めた。
 腕の3倍は長さのありそうなそれを、承太郎は大きな指先で折り返し始める。それを見て、ハイエロファントが、もう片方の袖に同じことをする。小さな花京院は、承太郎に膝に収まって、ふたり---ひとりと、スタンド---のすることを、楽しそうに眺めている。
 ようやく見えた手は、ふにふにとやわらかく、手首の辺りがふっくらとして、指のつけ根には、鉛筆の先で突いたようなえくぼがあった。承太郎の指先と、掌全部の大きさが、あまり変わらない。気をつけて触ると、くすぐったそうに、手を閉じたり開いたりして、小さな花京院はやたらと喜んだ。
 それからズボンだ。これはもう、裾をまくり上げるどころの分量ではなく、そんなことをしたら、足元に丸まった布の重さで花京院が動くことさえできなさそうだったから、承太郎は、上着の一番下のボタンを探り出し、そこから手を入れて、上着の重さだけで押さえられて、そこにただまとわりついているだけのズボンを、これも引っ掛かっているだけの下着ごと、まとめて引きずり下ろした。
 承太郎が腕を軽く伸ばしただけで、花京院の素足が、するりと飛び出してくる。
 爪先のよく動く、小さな足だ。まだ人の形よりも、赤ん坊のそれに近い形をして、癇症に切ってある爪の清潔さが、何にも増して花京院らしく思えた。
 子どもが裸で走り回ったところで、通報される心配もないけれど、ぶかぶかの服を全部脱がすのには何か抵抗があって、上着はそのままにしておくことに決めた。決めたけれど、床に引きずる裾は何とかしなければならない。
 さて、どうしようかと小さな花京院を抱いて、少しばかり思案に暮れていると、ハイエロファントが承太郎の頭の中を覗いたように、たるんだ制服の裾を取り上げ、引っ張って伸ばし、一体何をしているのか、長い髪でもまとめるように、花京院が引きずらないだろう長さの辺りを、両手で掴む。その部分に片手だけ残して、もう一方の手で、余った裾部分を何かしようとしているのだけれど、小さな花京院とさして大きさの変わらないその手では、思ったようには行かないのか、表情はないのに、手元に焦りが見えて、承太郎はこっそりそれを微笑ましく思う。
 「貸せ。」
 小さな花京院を間に置いて、承太郎とハイエロファントは、確かに通じ合っていた。
 ハイエロファントの手から、制服の裾を取り上げて、承太郎は、小さな花京院を促して立ち上がらせると、しっかりと自分の首に両腕を回させた。
 「倒れるなよ。」
 まだ名も名乗らない、今まで会ったことのある誰よりも大きくて恐ろしげだろう承太郎に、それでも何か感じるところがあるのか、小さな花京院は素直にぴたりと胸を寄せて、承太郎の言う通りに体を支える。
 そうして、また改めて花京院の背の方へ両手を回すと、承太郎は、花京院の膝辺りから先に余っている制服の裾を、くるりと縛ってしまった。
 昔、子どもの頃に、父親である貞夫のシャツを羽織って遊んでいた時に、ホリィが笑いながら、こうして裾を短くしてくれたのだ。
 シャツの時に比べれば、生地のせいか、制服を縛った部分は、小さな花京院の頭ほど大きかったけれど、少なくともこれで、裾を踏んづけて転ぶ心配はない。
 ようやく、やや動きやすくなった花京院は、いいぞと言われて承太郎の膝から下りると、自分の身軽さを喜んで、そこで小さく跳ねて見せる。
 「花京院。」
 呼ぶと、また素直に承太郎の膝に乗りかかって来た。
 「てめーはジジイやアブドゥルたちと一緒にいろ。おれは、あのアレッシーとか言うスタンド使いを探しに行く。」
 「じじい?」
 一人前に、怪訝そうに顔をしかめる。そんな表情をすると、高校生の花京院の顔立ちが、はっきりと現れる。
 「ジジイだ、ジョースターの、おれのジジイだ。覚えてねえか?」
 「じょーすたー?」
 首を傾げる仕草が可愛らしくて、質問し続けているわけではなかったけれど、とりあえず、ここで小さな花京院と遊んでいるわけにはいかなかったし、どこかにいるだろうアレッシーを、子連れで探しに行くわけにもいかない。
 「心配ねえ。ちゃんと面倒を見てくれるところに連れてってやる。てめーは覚えてないようだが、向こうはてめーを知っている。」
 だから、心配ないと重ねて言おうとした承太郎の首に、いきなり花京院がしがみついて来た。
 「いやっ! ここにいる!」
 じたばたと、短い手足をばたつかせて、承太郎の膝の上で、突然たった今気がついたというように、子どもに似ない呆然とした表情で、承太郎を見上げた。
 「ここにいる・・・えーと・・・一緒に・・・えーと、なまえ?」
 最後の疑問符は、語尾を上げると同時に、また小首をかしげて見せる。こんな顔で駄々をこねられて、勝てる大人がいるわけがない。ジョセフなら、その場でこの花京院を引き取って自分の養子にすると言い出しかねない。それはそれで、確かに困ったことになりそうな気がする。根拠もなく、承太郎はそこまで一瞬で考えた。
 訊かれたことに答えるために、また花京院の頭に掌を置いて、承太郎は、ゆっくりと名を名乗った。
 「承太郎だ。」
 大仰な名前に、少しびっくりしたように小さなあごを引いて、花京院が恐る恐る口移しにする。
 「・・・じょうたろう?」
 きちんと言えるようにと練習するように、小さな声で、何度も何度もじょうたろうと呼ぶ。
 年の離れた弟というのは、こんなものだろうか。それともこれは、すでに自分の子どもという段階か。
 父性愛と情に流されかける自分を必死に引き止めて、承太郎は、決心が揺らがないように、ちょっとだけ唇を引き締めた。
 「とにかく、てめーと一緒に行くわけにはいかねえ。ジジイがいやならポルナレフだ。あいつに遊んでもらえ。」
 「やっ!」
 反論が素早い。抵抗の強さを示すように、承太郎の首にまた回る細い腕にも、絞め殺す勢いの力がこもる。
 「花京院。」
 言うことを聞かせるために、少し凄んだ声を出した。途端に、びくりと小さな肩が跳ねて、承太郎が腹を立てていると思って体を離すと、花京院は、上目に承太郎を見つめたまま、むっと唇を引き結ぶ。その唇が細かに震え始め、わずかに突き出された後で、必死に奥歯を噛んでいるのが、丸い頬の線に現れた。それから、何度もせわしく瞬きをする間に、あふれる涙に潤んでくる。
 涙をこぼすまいとすると、喉の奥が鳴る。まだ喉仏など見えないつるりとしたか細い首が、音に合わせて上下していた。
 声より先に、涙が出た。丸いつやつやした頬をころんと流れて、そうなってしまえば後は早い。ぽろぽろぽろぽろ、後から後から涙があふれて、それでも耐えていた声が、ぽたぽたとあごから滴った涙が制服の胸元を濡らし始めた頃に、やっとそれに追いついた。
 うわーんと、子ども特有の、弾けるような泣き方をして、流れる涙を、無駄だと言うのに、両方の手の甲で拭っている。
 ハンカチを持ち歩くのは、花京院の習慣であって、承太郎のではないのだ。きっと、さっき脱がせたズボンのポケットにでも入っているに違いないけれど、それを探すことなど、今の承太郎に思いつけるはずがない。
 声を張り上げて泣く小さな花京院を前に、スタープラチナも役には立たず、泣き声につられてか、また姿を現したハイエロファントも、おろおろと花京院の頭を撫でて、必死に慰めようとしていた。そうしながら、合間に承太郎をにらみつけるのは忘れない。
 やかましいと、いつもの調子で一喝するのはたやすいけれど、余計に泣かすだけだと、承太郎でなくてもわかる。
 承太郎は似合わないため息をこぼして、ハイエロファントに抱きしめられて、少しだけ泣き声の治まった花京院を、そのハイエロファントごと腕の中に抱き寄せた。
 びしょ濡れの頬を、自分のシャツに当てさせて、大きな掌で頭を撫でてやる。髪をくしゃくしゃにしながら、泣くな、と小さく言う。
 「じょうたろうと、いっしょにいる。」
 湿ったシャツから、まだ涙で途切れがちの声が聞こえた。
 泣く子には勝てない。たとえスタンド使いであろうと、絶対に勝てない。
 子どもは嫌いだけれど、子どもの花京院にこんな風に懐かれるというのは、何となく誰かに自慢したいような、そんな気もしていた。
 「わかったから、もう泣くな。」
 承太郎を見上げた頬に、まだ涙が残っていて、承太郎は、昔の自分を思い出しながら、その頬に唇を当てた。
 歯でも立てれば、すぐにでも傷つきそうなやわらかな頬を、涙を拭うために、舐めてやる。塩からさも気にせずに、昔そうしてくれたホリィの仕草と微笑みを思い出しながら、もし一生花京院がこのままなら、自分が引き取ってもいいと、そんなことすら考えている。
 もう、いろんなことがどうでもよくなって、今大事なのは、この小さな花京院の世話をすることだと思えて、両方の頬からすっかり涙を舐め取ってしまうと、承太郎の態度に、すっかり機嫌を直したらしい花京院は、またいっそう近く、承太郎に小さな体をすり寄せてくる。
 「どこにもいかない?」
 「いかねえ。」
 「ずっとここにいる?」
 「いてやるから、泣くな。」
 「なかなかったら、おこらない?」
 最後の、本人には切実らしい問いには、苦笑で応えた。
 小さな花京院を、膝の上に抱いて、なめらかな額に、ごりごりとあごをすりつけてやった。痛がってもがくのをまた強く抱きすくめて、ふたり一緒に声を立てて笑いながら、承太郎は、花京院の額に、そっと口づけた。親が、子どもへ示す愛情のあかしのための、小さな口づけだった。
 承太郎の腕の中で、安心したのか、そのうち手足を伸ばして、くすくす笑いが次第に途切れてゆく。
 いつの間にか、ふたりの仲間に入るように、ハイエロファントがもっと体を小さく縮めて、花京院の腕の中に納まっていた。まるでぬいぐるみのように、もしかすると、そうしていつも一緒に寝ているのかもしれない、そんな自然さで、花京院は人形の大きさになったハイエロファントを胸に抱いて、逆らえない眠気に襲われたのか、不意にスイッチが切れたように、すとんと眠りに落ちてしまった。
 ハイエロファントを抱いた小さな花京院を胸に抱いたまま、承太郎はその体をかすかに揺すり始めた。そうして、ホリィが昔歌ってくれた子守唄を、知らずに口ずさんでいる。
 窮屈だろうと、眠っている花京院の制服の襟のホックを外して、ボタンもひとつ開けてやった。
 承太郎のシャツを握りしめて、ハイエロファントを抱いて、花京院が眠っている。
 何も見当たらない空間でふたり、まるで親子のように、聞こえるのは花京院の寝息と、承太郎が小さく歌う、子守唄だけだ。


 目が覚めて最初に、自分の体を確かめた。裸で、ベッドの中だ。
 隣りに寝ているのはアブドゥルで、ジョセフは別の部屋でひとり、花京院は今夜は、ポルナレフと一緒の部屋だ。
 それぞれの部屋に引き上げた時に、花京院は間違いなくいつもの花京院だった。
 承太郎は、自分の両腕を、まるで何かを抱いているような形にして、見下ろした。
 眠れば重くなる、いっそうあたたかくなる、子どもの体が、まだそこにあるような気がして、明かりの消えた部屋の中を、思わずゆっくりと見回す。
 ほんとうのスタンドの攻撃ではなくてよかったと、安堵しながらもどこかで、子どもの花京院に、名残り惜しさを覚えている。
 制服に埋もれていたあの小さな花京院は、承太郎の上着を羽織れば、重さで動けなくなるかもしれない。
 小ささを、腕の中に思い出している。花京院を抱いた形に腕を丸め、承太郎は、あの花京院の姿を見つけようと、ほんの一瞬本気で必死になった。
 くるんと巻いて縛った制服の裾を、半ば引きずりながら歩く花京院の姿が思い浮かぶ。微笑を浮かべて、承太郎はベッドを下りた。
 音をさせないように、椅子の背にかけたあった上着を手探りで探し当てると、胸ポケットから煙草とライターを取り出す。それを手に、足音を忍ばせて、ベランダに出た。
 この部屋からは月が見えない。外は真っ暗で、人の気配もない。ライターから移った煙草の火だけが、承太郎の目の前で明るい。
 胸いっぱいに吸った煙を吐き出しながら、夢の中で、花京院が承太郎の煙草の匂いに、一度も文句を言わなかったことを思い出す。涙を拭いたシャツは、さぞ煙草臭かっただろうに。
 誰に聞かれる心配もない。煙を吐き出しながら、承太郎は、夢の中でそうしたように、小さく子守唄を歌い始める。
 月のない暗い空に向かって、ここにはいない小さな花京院のために、承太郎は同じ唄を、繰り返し歌い続けた。


* こっそり、はざまさんとテツオさまに捧ぐ。
* 8/9、若干の加筆と修正。

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