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ララバイ 2

 「じょうたろう!」
 緑のかたまりが、意外に素早い動きで走り寄って来て、承太郎の足にしがみついた。
 ぴょんと、まるで木の幹にでも飛びつくように、短くて細い手足が足を締めつける感覚を、承太郎は首を伸ばして見下ろす。茶色がかった髪、まだ甲高い声、額をすりつけているのは人間の子どもや動物の仔がよくやる仕草だ。ああまた出やがった、と承太郎は思う。言葉の悪さと反比例して、口元にはすでに微笑が浮かんでいる。
 「よォ、覚えてたか。」
 承太郎へ向かって顔を上げると、手足に余計に力が要るのか、大きく口を開けて笑うと同時に地面にきちんと立ち、けれど両手はまだ承太郎の足にしがみついたままだ。
 小さな花京院だ。幼児の、なぜか服装は裾の長い学生服のまま、前の時に承太郎が、その引きずるどころか体全部が埋まりそうな上着のあの長い裾を、くるりと腰の辺りで結んでやったそのまま、それで両手を一生懸命振りながら走る様は、まるでアヒルのヒナか何かだ。
 緑のアヒルのヒナから、醜いアヒルの子の話を思い出して、それが花京院と言う人間に対して案外と腑に落ちてから、承太郎はちょっと笑みを消して帽子のつばに指先を掛ける。
 「おぼえてるよ!じょうたろうにもともだちがいるよ!」
 顔の位置の距離のせいなのか、それとも子どもはいつもこんなものか、精一杯声を張り上げるようにしてしゃべるのが、普段ならうるさくてじろりとにらみつけてやるところだけれど、今は逆に花京院の小さな頭へ手を伸ばすと、承太郎はその柔らかい髪をわしわしと撫でてやった。
 「てめーの友達は元気か。」
 まだハイエロファント・グリーンと言う名もない花京院の"ともだち"が、承太郎がそう訊いた途端に花京院の肩辺りへ丸い頭を現して、引っ込み思案の子どものように、そこから承太郎を上目遣いに見ている。
 「よォ。」
 広い肩をすくめ、ハイエロファントへ声を掛けながら、承太郎もそっとスター・プラチナを呼び出す。驚かせないように、花京院の真似をして肩の辺りへわずかに顔を出させて、優しげに微笑むことなどしたこともないスター・プラチナは、普段の承太郎そっくりに、じろりと地面の近くの奇妙な生き物"たち"を見下ろした。
 「・・・おっきい。じょうたろうのともだち、じょうたろうよりおっきいね。」
 「でかいだけだ、何にもしねぇ。」
 怖がらせないためにそう言ったのを、スター・プラチナは主の言い草に少し傷つけられたのか、花京院たちから視線を移して、承太郎に向かって、明らかに心外だと言う表情を浮かべる。
 怖いことは、ときちんと付け加えるべきだったと、承太郎は自分のスタンドへ向かって心の中でだけ追加の声を掛けておいた。
 「じょうたろうじょうたろう。」
 子どもの花京院が、承太郎のズボンを引っ張って呼ぶ。
 「なんだ。」
 「じょうたろうはどうしてそんなにおおきいの?」
 身長が180に達した辺りから、やたらと問われ続けていることだ。190を越えた頃には、視線でそう問いながら、人たちはあとずさるか、いつでも後ろへ駆け出せるような姿勢を、承太郎へ向かって取るようになった。
 体の大きさが、単純に恐怖を抱かせるのだと頭では理解して、けれどそれが承太郎の感じる淋しさや悲しさを消してくれるかと言えばそんなことはなく、幼い頃から──この、目の前の花京院のように──感じ続けている自分はここには馴染まない存在なのだと言う感覚が、歳が進むとともに深まるばかりだ。
 異邦人同士の集まった今回の旅で、血縁とは言え普通以上に親しいわけではないジョセフと、後はほぼ初対面の仲間たちと、日本ではない国ばかりを巡ってゆくと、不思議に自分の日本人らしさを感じて、日本と言う国に日本人としてすっぽりとはまることのできない自分は、どこへ行っても異物のままなのだと思い知る。
 挙句に、このスタンドとやらだ。
 突然現れたこの存在を、便利にも頼もしくにも思いながら同時に、これでまた自分は余計に普通ではなくなったのだと、承太郎は心の中でだけうっそりと考えた。
 これ以上普通でなくなったところで何も変わらない。それならもう、ぐだぐだ考えずに受け入れた方が話は早い。そう冷静に考えても、自分はもう永遠にこの世にひとりきりなのだと言う淋しさを消すことはできない。
 世界への疎外感が深まるばかりで、今ではもう、世界が承太郎に異和感を抱くよりも、承太郎が先に世界に対して違和感を抱えて、全身に棘でも生やしたように、だからもうおれには絶対に近づくなと、外へ向かって無言の威嚇を始めたのは、あれは高校に入ってすぐの頃だ。
 そう言えばこんな風に、誰かが無邪気に自分に近づいて来たのは久しくないことだ。承太郎にまといつく少女たちは、そのあからさまな下心を隠しもしないし、あれを恋心と受け取るような純情さは承太郎にはない。
 だから花京院が、承太郎の知っている花京院のそれよりも黒目勝ちの瞳をいっぱいに見開いて、ただ純粋な好奇心と好意で自分に近寄って来るのが、ひどく面映くてくすぐったい気分になる。
 承太郎はそっと小さな花京院の頭の上のそっと掌を乗せ、それから、手首の陰で見えないのを承知で、薄く淡く微笑んだ。
 「心配するな、てめーもじきにでかくなる。」
 自分ほどではないにせよ、それでも充分に平均以上だ。
 承太郎の、もうすっかり成人並みに骨の太い手首の向こうから、花京院が一生懸命瞳の位置をずらして承太郎を見上げて来る。
 「なる?」
 「おう。」
 ふっくらした唇が、ちょっと前へ突き出た。それから花京院は、不意に何か思いついたようにまた承太郎のズボンへしがみついて、片足も絡めて、木にでも登るように承太郎の長い脚を抱え込んだ。
 「おい、何しやがる。」
 承太郎が想像した通りに、体の割りにはまだ短い手足を必死で使って、承太郎の体へ向かって登り上がろうとし始めた。
 それがほんものの木だったら、それほど無茶でもなかったろう。ただし止めないかと言えばそうではなかったし、承太郎も正しく花京院の小さな体をそこで引き止めようとした。
 「やめろ、おれは木じゃねえ。」
 でも、と幼い声が反論する。残念ながら膝辺りへ体を揺すり上げただけで小さな花京院の目論みは頓挫し、はるか彼方の承太郎を見上げて、花京院はぷうっと丸い頬をさらに丸くふくらませた。
 「じょうたろうにとどかないよ。」
 「素直に抱き上げろと言え。」
 「じゃあだっこ。」
 承太郎がまくり上げてやった袖に、それでもすっかり隠れていた両手──これもまた小さい──を宙に差し出して、花京院が言われた通り素直に言った。承太郎は丈高い体を地面近くまでかがめて、一応は両手を添えて花京院を抱え上げ、慣れない仕草で胸へ抱きしめてやる。花京院の両腕が首に回り、わあいとうれしそうに言ったのが、耳の近くに甘ったるく響く。つられて、承太郎はうっかりまた微笑んだ。
 「じょうたろうおおきいね。」
 後ろ髪を軽くつかんで花京院がはしゃいでいる。小さな爪がうなじを軽く引っかいた。きちんと切って整えてあるらしいその爪の先に、承太郎はふと、まだ見たことも会ったこともない花京院の両親のことを思った。
 花京院がこんな子どもなら、両親はアヴドゥルと同じくらいの年頃だろうか。同じ頃のホリィを思い浮かべようとしてうまくそうできず、それでもこうして自分を抱き上げて背を撫でていただろうホリィや貞夫の手つきを何とか思い出しながら、承太郎は同じように花京院の薄い背を撫でた。
 子どもの甘い匂い。やや湿り気のある体温の高い体。小さな小さな花京院だ。承太郎はゆっくりと瞬きをして、瞳の裏の薄闇に、高校生の花京院の姿を思い浮かべる。
 どちらの花京院の傍らにも、同じように体の大きさの変わったハイエロファント・グリーンが見えた。
 「花京院。」
 「なに?」
 高校生の花京院の方を呼んだつもりで、子どもの花京院が返事をする。そうだ、これはどちらも花京院だ。まだ触れた覚えのない高校生の花京院の髪も、こんな風に手応えなくやわらかいのだろうか。細くて頭の重みに折れそうな首に手をやり、そこで髪に触れる。骨があるとも信じられない華奢な体は、承太郎が両腕で力いっぱい握りしめれば、小さく折れてたたまれてしまいそうだ。
 力の加減に気をつけて、承太郎はもう少ししっかり花京院を抱いた。
 「なあに、じょうたろう。」
 承太郎の知っている声とは似ても似つかない、甘えた甲高い子どもの声。きちんと腹筋を使う発声のくせに、まだ地へは響かない、幼い子どもの声。
 「何でもねえ。黙ってろ。」
 自分も子どもなら、もっと普通に友達になれたのに、一緒に転げ回って走り回って無邪気に遊べもしたのにと、ふと考える。同じように丸い頬に、産毛も見えない。まつ毛ばかりが黒々として、もうその頃から周りの他の子より手足は長かった。
 子どもの自分が、子どもの花京院の手を取って走り回るところを想像して、ほんとうに、こうして花京院が現れるなら、自分も同じくらいになれればよかったと、承太郎はちょっと下唇を噛む。
 さあ、どうだろうな、と不意に花京院の声がした。しっかりと低い、きちんと腹の底から響くようなあの声だ。承太郎はふっと目を開け、どこかに高校生の花京院もいるのかと、瞳だけをきょろきょろと動かす。子どもの花京院は変わらず承太郎の首に両腕を回し、肩に頭を乗せている。他には何も見えない。
 花京院。承太郎は、頭の中で今聞こえた声の方へ呼び掛けた。
 子どもの君は可愛かったろうな。
 花京院が笑いを含んだ声で言う。
 てめーほどじゃねえ。
 毒を含んで返すと、耳の後ろでまた声だけが笑った。
 腕の中の花京院の小ささと軽さに、不意に切ない気持ちが喉の奥へせり上がって来る。
 こんなに小さくても幼くても、花京院はスタンド使いだ。ぼくのともだちとハイエロファントを呼んで、それは、ごく普通の友達と区別するための言い方だったのか、あるいは、他には友達がいなかったという意味なのか。
 だからこんなにおれに懐くのか。
 無邪気に承太郎にまとわりつき、承太郎のスター・プラチナを気味悪がりもせず、それは花京院がスタンド使いだからだ。
 子どもの花京院にはハイエロファントがすでにいる。けれど承太郎にはそうではない。子どもの承太郎は、まだスター・プラチナには出会ってはいなかった。子どもの承太郎には、花京院の"ともだち"は見えない。
 そうだ、だから、この承太郎ではなくてはならなかった。スタンド使いになった承太郎でなければ、花京院と"仲間"にはなれなかった。
 一体何が、子どもの花京院を承太郎に見せているのかはわからない。承太郎の中の何かが、あるいは子どもの花京院の中の何かが、引き寄せ、引き寄せられて、こうして今ふたりは、スタンド使い同士として一緒にいる。
 この花京院はまだ承太郎を知らない。この花京院を承太郎は知らない。ふたりを繋いで、高校生の花京院はどこか別のところへいる。
 花京院。子どもの方へか高校生の方へか、どちらとも定かではないまま、承太郎はまた声には出さずに花京院を呼んだ。
 気取ったことや大仰なことは好きではない承太郎の心の中に、出会うべくして出会ったのだと、そうして花京院のことが腑に落ちた感覚があった。
 「じょうたろう?」
 承太郎の肩に、ごしごしと頬をこすりつけながら花京院が呼ぶ。
 「なんだ。」
 「どうしてかなしいの?」
 「かなしくなんかねえ。」
 花京院の口調に釣り込まれ、思わず舌の回りが怪しくなる。
 自分が、スター・プラチナの出現に戸惑ったと同じように、それ以前に、混血であるがゆえの異和感にひそかに砂を噛む思いをしていたと同じように、花京院も恐らく、スタンド使いである自分の異質さを、幼いなりに自覚していたのだろうと思った。自分は違う。みんなと違う。ひとりぼっちだ。スタンドとふたりきり、誰にも見えないスタンドとふたりきり、世界にひとりぼっちだ。
 自分の狼狽ぶりを思い出して、そして、幼い花京院のために、花京院が感じただろう恐怖と淋しさのために、承太郎は今ひっそりと心を痛めている。それが悲しいのだと、花京院には伝わったのだろうか。
 「ぼくがおうたうたってあげようか? そしたらじょうたろう、かなしくなくなるよ。」
 「かなしくなんかねえ。」
 「だいじょうぶだよじょうたろう、ぼくがいっしょにいるよ。ぼくのともだちも、じょうたろうのおっきいともだちもいっしょにいるよ。」
 小さな掌が、承太郎の頬を撫でた。小さくても、あたたかい手だった。その手に、翠の影が薄くまとわりついている。
 自分に向かって微笑んでいる花京院を安心させるために、承太郎もスター・プラチナをそっと自分の後ろへ呼び出した。
 「そうだな、みんな一緒にいるな。」
 てめーも、そんな風に自分に言い聞かせてたのか。
 小さいくせにあたたかく湿った手が、承太郎を慰めて頬を撫でている。
 承太郎の肩に、茶色がかった前髪が垂れ、何か動物の仔でも抱いているような気分になりながら、ふたりにはなれないひとりとひとりは、それでも通じ合うものを一緒に抱え込んで、今だけは一緒にいられる。
 「・・・何を歌ってくれるって?」
 小さな声で承太郎は訊いた。
 ぱあっと花京院の顔が輝き、跳ね上がるように承太郎の腕の中で体を伸ばし、何の前置きも説明もなく、花京院が歌い出す。声は幼くても、案外と音程はしっかりしたチューリップの歌が、辺りいっぱいに響き渡る。
 色とりどりのチューリップがどれもきれいだと、その歌詞は覚えていたけれど、続きがあるとは花京院が歌い出すまで、承太郎は知らなかった。
 短いメロディーを、花京院が両手を振りながら一生懸命歌う。承太郎を見つめたまま、楽しそうに、承太郎のために、花京院が歌い続けた。
 チューリップの花が揺れて笑う、揺れる花に蝶が飛ぶ、一緒に遊ぶ、その歌詞の意味深さを承太郎はまだ知らない。チューリップの花言葉が、真摯な愛、不滅の愛であることを、花京院はもちろん知るはずもない。
 花京院が歌い続ける。承太郎はそれを聞いている。ハイエロファントとスター・プラチナが、そんなふたりをじっと見ている。


 まただ。また夢だった。今日のルームメイトはポルナレフだ。銀色の髪をぐしゃぐしゃにして眠っている。他には誰もいない。花京院は今日は別の部屋でひとりだ。
 承太郎はベッドの上に体を起こして、まるでそうすれば壁が透けて花京院の姿が見えるとでも言うように、闇の中でじっと目を細めた。
 音はない。何の気配もない。
 腕の中に、抱えた花京院の小さな体の重さがまだあるような気がしたけれど、それもすでにかすかな夢の記憶の頼りなさで、抱いていたのが右腕だったか左腕だったかも思い出せなかった。
 どうしてかなしいの? 幼いからこそ余計に心に響く声音だけは、しっかりと憶えていた。
 かなしいわけじゃねえ。
 否定してから、花京院の幼さが切なくて胸が詰まるような心持ちだっただけだとは、けれど素直には白状はできない。
 煙草でも吸おうかと思ったけれど、灰皿は窓際のテーブルの上で、ベッドから抜け出す気にならず、そのまま数瞬抱えた片膝を見下ろして、結局承太郎はそのまままた枕の上へ頭を戻した。
 ポルナレフには背を向けて、何となくひとりきりの気分を胸へ抱え込んだまままた眠ってしまいたくて、承太郎は軽く手足を縮めた姿勢で目を閉じる。
 闇の中で、ポルナレフの寝息にかぶさるように、チューリップの歌のメロディーがどこからともなく承太郎の耳へ流れ込んで来た。
 声はないそのメロディーに、承太郎は胸の中でだけ歌をかぶせる。花京院が歌ってくれた続きの歌詞を思い出しながら、再び眠ってしまうまで、そのメロディーを追い続けた。
 チューリップに、愛の告白と言う花言葉もあるのを承太郎が知るのは、ずっとずっと後(のち)のことだ。

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