仲直り



 けんかをした。大したけんかではなかったし、原因さえ定かではない、その程度の代物だ。
 けれど、滅多と口げんかさえしないふたりは、そうなってしまえば引き際と謝罪のタイミングがわからず、がちゃんと電話を切ったのは、花京院が先だった。切る直前に、承太郎が、てめーはいちいち、とそこまで鋭く言ったのが聞こえた。
 承太郎が、放課後、今日は何だか熱っぽいと言った。花京院が、それなら早く帰った方がいいと言った。夜になって、心配だった花京院はホリィでも様子を尋ねようと、電話をした。電話に応えたのは承太郎だった。ここで花京院は、なんだ寝てないのかと、ちょっと拍子抜けした。承太郎は、大したことはねえとかまわずに電話を続けた。
 そうして、気がついたら、ふたりとも不機嫌になっていた。
 30分ほど、立て板に水の調子で、新しく手に入れたゲームの話を延々とやらかしたのは花京院だ。承太郎はその間、ほとんど相槌すら打たなかった。
 それから後は、承太郎が45分ほど、花京院は名前すら聞いたことのないバンドと音楽の話を、やけに熱っぽく語った。そんなだから熱が出るんだと、花京院は壁掛けの時計を見上げて思っていたけれど、口にはしなかった。
 きっと、寒い廊下にずっと立って電話をしていて、承太郎の熱がまた上がったのかもしれない。何度か続けてくしゃみをしたから、もういい加減にしろよと、花京院は言った。別に、知らないバンドの話にうんざりだと、そう言った---本音だったにせよ---つもりはなかった。承太郎の耳には、まさしくそう届いたらしく、ゲームの話に付き合ってやっただろうがと、普段に似ない尖った口調で反論して来た。
 タイミングが悪かったのだ。承太郎は、熱で少しばかり具合が悪かったのだろうし、花京院はそれを気づかって電話を切るタイミングを計りながら、承太郎の長話に上の空だった。だからふたりとも、結局互いに冷たい言葉を吐く羽目になって、引くことを忘れるくらいに一瞬で頭に血を上らせて、電話の後も、ふたりとも、しまったとは思っていなかった。怒っていて、どうしてこんなつまらないことに腹を立てているのか自分でわからなくて、けれどその怒りを、自分自身に向けられないくらいに何だかいら立っていて、だから朝になっても、ふたりは怒ったままでいた。
 花京院は、朝からとてもいらいらしていた。始業前の図書室で、返却する本をカウンターから落としてしまい、中身を数ページ折ってしまった。傷んだというほどではないけれど、ページに、そうとわかる折り目がついているのはとても嫌な感じだ。自己嫌悪に陥って、もっといらいらして、結局、借りるための本を選べず、そのまま始業になった。
 承太郎は、目覚めた時に軽く頭痛がして、それだけでうんざりして、着替えも、いつもよりものろのろと時間ばかりかかる。朝食のテーブルで、ホリィが何だか顔色が悪いわねと言ったのに、うるせえと反応して、自分で嫌になった。それきり一言も言わずに、帽子をつかんで家を出て、歩きながら頭痛はひどくなる一方だった。
 機嫌の悪さを剥き出しにしているふたりには、普段以上に誰も近づかない。その方がよかった。でなければ、誰彼かまわずひどい八つ当たりをしてしまいそうだったから。
 昼休みになって、花京院はすぐに教室を出た。
 いつもなら、一緒に図書室に行くのに、承太郎が迎えに来るのを待つのだけれど、今日は一瞬も考えずに教室を飛び出した。
 承太郎に会いたくなくて、今日は迎えに来るかどうかわからなかったけれど、顔を会わせたくなくて、廊下に出ると、図書室とは逆の方向へ、足早に去ろうとした。承太郎のいないところ、承太郎の来ないところ、承太郎が自分がいると思って、探しには来ないところ、けれど、校内のどこも、承太郎といつも一緒のところばかりで、すぐには思いつけない。
 自分の右側が薄寒くて、花京院は、風邪でも引きこんだように肩をぶるっと震わせた。それから、もっと足を速めて、承太郎のことばかり考えていることが悔しくて、前かがみになりながら、花京院は廊下の角を曲がった。人にぶつかりそうになりながら、ろくに前も見ずに、足早に歩いてゆく。行き先はまだ決まらず、1階に下りて、そのまま隣りの校舎へ移った。渡り廊下の半ばで、急に立ち止まって、自分の校舎の方を振り返る。屋根に覆われて見えないけれど、3階の辺りを見上げて、窓に承太郎の姿が見えないかと、無駄と知りつつ探してみる。
 承太郎なんか。
 自分に向かってつぶやいて、花京院はまた渡り廊下を歩き出した。
 昼休みになる頃には、さすがに頭痛も治まって、不機嫌はずいぶんと落ち着いていた。
 何も考えずに、ごく自然に足が、花京院の2年生の教室の方へ向かう。すぐ下の階の、ちょうど真ん中辺りだ。承太郎の教室は、廊下のいちばん端で、教室の後ろの扉から出れば、すぐに階段がある。歩くと、まだ時々後ろ頭の辺りがずきずきするけれど、薬が欲しいと思うほどではない。それでも、今夜は風呂を控えて早く寝ようと考える。
 最初の頃は、2年生の教室へ向かうたびに、廊下にいる生徒どころか、教室からわざわざ顔を出して、承太郎の向かう先を眺める後輩たちがいた。承太郎の目当てが花京院だと知れると、さざなみのようにささやきが廊下を渡って、それを鬱陶しいと感じるよりも、花京院と肩を並べて、何の心配もなく歩けるという事実の方が大事だった。
 今ではもう、昼休みに承太郎の姿を見かけることが、ごく当たり前になってしまった2年生たちは、承太郎のために前を開けてくれることはあっても、わざわざ振り返ったりはしない。
 今日も、少しうつむきがちに、承太郎はよく磨かれた廊下を、長い足を持て余しながら進んだ。
 花京院の姿は廊下には見えず、教室を覗いても、それらしい姿はない。机はすでに空だ。
 どこかへ行かなければならなくなったとしても、ハイエロファントを這わせて、それを承太郎にあらかじめ伝えてくるのが常だった。となれば、いないということは、承太郎に会いたくないということだ。会いたくなくてどこかへ行ったということは、承太郎が行くだろうところへは、行ってはいないということだ。
 思わず肩が落ちた。頭痛が、いきなりひどくなる。
 夕べの電話のことを、きちんと謝るかどうかはともかく、一言言っておきたかったのに、当の本人はすでに姿を消した後だ。しかもこの様子なら、電話を切った時と同じくらい、まだ腹を立てているのだろう。
 やれやれだぜ。
 教室の扉を、拳で殴りたくなったけれど、自分の教室ではなかったからやめにしておく。代わりに、周りに聞こえるほど大きく舌打ちをして、承太郎は、煙草を喫うために屋上へ向かった。


 もう1時限で授業が終わる。
 昼休みを、社会科の資料室に忍び込んで、仕方なく古い文献をあさって過ごした花京院は、ひと月ほど前に借りた図書室のある本を読みたくて、ひとりいらいらしていた。
 机の下で足をかたかた鳴らして、気がつくたびに膝を押さえて止めるけれど、黒板に向かうと、またかかとが勝手に床を小刻みに蹴り始める。
 いやな癖だと、またいらいらして、今度は爪を噛んだ。
 手元に、読める本がないというのは、何だかとても落ち着かない気分になる。
 不安で、本がなければ、授業の間の10分の休み時間を、どう過ごしていいのかわからない。教科書はどれももう、とっくに最後のページまで読んでしまっているから、代わりにはならない。
 猛烈にスティングが聞きたくなって、前髪をかき上げながら、下唇を噛んだ。
 頭の中に、覚えているメロディーを流す。授業など、もう聞く気にもならずに、スティングの、平たい高い声に耳を澄ませて、半分だけ目を閉じる。
 まるで精神安定剤のように、床を蹴っていたかかとが、自然にその仕草をやめた。
 言葉を詰め込むことのあまりない、そのくせ、とても意味深げな歌詞を頭の中でなぞっているうちに、鎮まったいら立ちの底から、自己嫌悪が湧き上がってくる。
 本がなくて落ち着かないのはほんとうだ。けれど、理由は明らかにもうひとつある。
 承太郎といなければ、一体どう時間を過ごしていいのかわからない。特別に、一緒に何をすると言うわけではない。ただ、学校から一緒に帰って、たいていは承太郎の家に寄って、一緒にレコードを聞いたり、本を読んだりして過ごす。ひとりきりでもできることばかりだけれど、承太郎と一緒の方が楽しいと思い始めたのは、一体いつからだっただろう。
 今では、以前ひとりでどうやって時間をやり過ごしていたのか、近頃ではもう、思い出すことすらない。
 夕べの電話のことは、自分が悪かったのだと、ほんの少しだけ認め始めている。ごめんと、一言言えばいいだけの話だ。意地を張っているのに疲れて、花京院は、頭の中のスティングを途中でやめると、黒板を真っ直ぐに見据えて、それから、そろりとハイエロファントグリーンを出した。
 授業に聞き入っているふりをして、素早くハイエロファントを教室の外へ送り出す。床を這ってゆくハイエロファントの姿は、誰の目にも見えない。教室を出て、右に曲がって、階段を上がってゆく。花京院自身は、滅多とそちらへは行かない。
 花京院は、いつもしているようには、ハイエロファントの気配を、完全には消さなかった。
 2年生のいる2階とは、どこか雰囲気の違う3階の、階段を上がってすぐに承太郎の教室がある。床を這っていたハイエロファントは、そこで人のように立ち上がると、教室の後ろの扉まで、滑るように歩いて行った。
 扉のすき間から入り込んで、教室の中を、こっそり覗き込もうとした瞬間、中から、スタープラチナが現われた。
 ハイエロファントの気配に気がついていた承太郎が、そこで待たせていたらしい。
 ちょっと驚いて体を引いたハイエロファントに、スタープラチナが一歩近づいてきた。
 承太郎の机は、窓際から2列目の、いちばん後ろだ。ハイエロファントが扉を背に後退されば、スタープラチナは、ぎりぎり射程距離に届かない。
 腕を伸ばして、憮然とした表情---承太郎に、そっくりだ---で、ハイエロファントが遠ざかったのに、青い唇をとがらせたのが見えた。
 承太郎は、ちらりと、ハイエロファントとスタープラチナを見た。
 ハイエロファントを通して、承太郎の教室の中を見渡すと、花京院は、承太郎の視線を避けて、けれどハイエロファントをそのまま引き戻す気にもなれず、平和な授業風景を目の前に、きらきら翠に光る自分のスタンドが、あまりにその場にそぐわないことに、また自己嫌悪を感じて、ハイエロファントは、そんな花京院の気持ちを写したように、意味もなく胸の前で指を組み合わせて、スタープラチナを見つめていた。
 承太郎に直接話しかけるのがいやなら、スタープラチナに何か言えばいい。昼休みには急に担任に呼び出されたと、うそでもいいから言ってしまえば、承太郎ならわざわざ追求はしないだろう。夕べはごめんと、それだけでもいい。そのために、ここまでハイエロファントを送り込んだのだと、自分の目的を思い出しながら、けれど花京院は、ハイエロファントを動かせずに入る。
 スタープラチナは、ハイエロファントの方へ近づきたがっているように見えたけれど、承太郎自身が動かない限り、スタープラチナはそれ以上はこちらへは来れない。
 その距離をきちんと見極めて、花京院は、ハイエロファントをそこにとどまらせていた。
 承太郎は、辛抱強く、花京院が動くのを待っていた。
 ハイエロファントを送り込んでくる程度には、腹立ちが治まったということだろうし、少なくとも、承太郎の様子を知りたくてここまで来ただろうハイエロファントは、それ以上近づいては来ないにせよ、まだ立ち去る様子もない。
 昼休みのことは、もう気にしていないと言ったらうそだけれど、こうして和解の使者---だと信じよう---らしきものを立てて来たのなら、もういいと、承太郎はそう考えていた。
 それでも、ハイエロファントが動いてくれない限りは、スタープラチナは手出しができない。スタンド同士で会話のできない距離ではなかったけれど、とりあえずは、ハイエロファントが行動を起こすのを、じっと待つことにした。
 授業を抜け出すのは平気だ。でも今は、そうして自分からあちらへ向かうよりも、花京院がこちらに向かってくるのを待ちたかった。
 しばらく前を眺めていると、何の動きもないのに焦れたように、ようやくハイエロファントが動いた。
 真っ直ぐにではなく、わざわざ教室のいちばん後ろの壁際へ向かって、それから、じりじりとスタープラチナの方へ近づいてくる。
 腕の長さ分の距離まで近づいて、そして、スタープラチナがそばへ寄ろうとすると、また1歩後ろに引く。
 戸惑いをあらわにして、スタープラチナの射程距離内に納まったまま、ハイエロファントは壁際に立ったまま、背中半分をスタープラチナに向けた。
 いつでも立ち去れるような、そんな素振りで、背中の表情は、主である花京院にそっくりだと、承太郎は思う。
 10数えてから、スタープラチナが、ハイエロファントの背中に寄った。その肩に腕を伸ばすことはせずに、くるりを背を向けて、片方の肩同士をくっつけるように立つと、スタープラチナは、そこからハイエロファントの方へ手を伸ばした。
 スタンドに体温はない。けれど、触れ合うほど近くに寄れば、本体の感覚が伝わって、ぬくもりを感じる。スタープラチナの接近に、花京院が肩の線を硬張らせたのだろう、ハイエロファントが、ちょっと首筋を後ろに反らすように伸ばした。
 スタープラチナは、薄青い自分の手を、ハイエロファントの翠に光る手に重ねた。相変わらず背を向けたまま、けれど片方の、腕と肩と手指だけは触れ合って、スタープラチナは、いつもには似ない仕草で、ハイエロファントの手指をひっそりと絡め取る。ハイエロファントは、その手を振り払おうとはしない。
 それを見届けて、承太郎は、机の上に出した掌を、ゆっくりと握りしめた。同調して動くスタープラチナの力強い手が、ハイエロファントの滑らかな指を中に握り込み、そしてそこから、花京院の長い指の感触が伝わってくる。
 もがくような動きがあって、それから、承太郎の手の中で、花京院の指の動きが静かになった。
 花京院は、膝に掌を乗せて、ハイエロファントの視界をそのまま受け取りながら、もう何の音も聞いていない。教壇を、音を立てて歩く教師が、低い声で空気を揺らすのにも意識を乱されることなく、手の甲に重なった承太郎の手が自分の手を握り込んだのに応えて、指の間に入り込んできた承太郎の指を、ぎゅっと力を入れて握った。
 ハイエロファントが、そっと動く。スタープラチナへ振り返って、体を回して、握った手は離さないまま、少し高い位置にあるぶ厚い肩に、静かに頭を持たせかけた。
 頬に伸びてくる、スタープラチナのもう一方の手が、唇のある辺りを滑るように覆う。それを感じて、花京院は、ちょっとあごを上げて、スタープラチナの手に唇を押し当てた。
 ハイエロファントの仕草に、承太郎が軽い反応を返す。小さな驚きが、手首の動きになって、スタープラチナは、いっそう優しく、ハイエロファントの頬を指先で撫でた。
 放課後、僕の教室まで、来てくれるんだろう。
 ハイエロファントが、スタープラチナに訊いた。
 てめーが待ってるならな。
 承太郎が、花京院に答えた。
 ・・・待ってるよ。当たり前じゃないか。借りたい本があるんだ。図書室に、一緒に行くかい。
 長くかからねえならな。まだ頭痛がする。
 君の家に着いたら、君は寝てていいよ。僕はホリィさんの夕食の準備を手伝うから。
 泊まって行くか。
 承太郎が笑う。スタープラチナは表情を変えない。
 あははと、けれど声を殺した花京院のために、ハイエロファントが声を立てた。
 君の頭痛が治ったらな。
 スタンドたちはまだ手を繋いだまま、いつのまにか、主たちは、すっかりいつもの調子を取り戻している。
 花京院。
 前を向いて、承太郎が呼んだ。
 何だ。
 教室の後ろの扉の方を見て、花京院が答えた。
 ・・・何でもねえ。呼んでみただけだ。
 ふっと、息を吐くように、花京院が微笑む。
 ハイエロファントがスタープラチナを見上げて、また手を握りしめてきた。
 承太郎。
 花京院が呼ぶ。
 なんだ。
 承太郎が答えると、微笑を浮かべたままで花京院が言った。
 僕も呼んでみただけだ。
 なんだ、くだらねえことしてんじゃねえ。
 授業の終わりが近いことを確かめた花京院は、承太郎に会えるまであと1時間だと自分に言い聞かせて、そっとハイエロファントを、スタープラチナから離した。
 じゃあ、また後で。放課後に。
 手はまだ繋がれたままだ。花京院は、机の上に置いた自分の手を、じっと見つめていた。
 ああ、あとでな。
 言葉と一緒に、承太郎がまた手を握ってくる。握り返すことはもうせずに、花京院は、瞬きしながら、ハイエロファントを引き戻しにかかった。
 スタープラチナから遠ざかりながら、けれど主の意向に逆らうように、ハイエロファントはまだ手を離さないでいる。
 腕が伸びる。スタープラチナは、足を前に踏み出して、去ろうとするハイエロファントを追った。
 指先をほどいて、触手をその手の中に残しながら、ハイエロファントは、また教室の扉のすき間から、するりと抜け出て行った。その後しばらく残っていた触手も、見下ろしているうちに、するすると本体の後を追って消えてしまう。
 それ以上は追うことができないスタープラチナは、ひどく残念そうな顔つきで、主である承太郎を振り返る。
 承太郎は、おかしそうにちょっと肩を揺すってから、スタープラチナを自分の中に引き戻した。
 戻って来たハイエロファントは、ちょっと淋しそうに花京院の背後に立って、花京院の頭を撫でた後、また音もさせずに花京院の中に消えた。
 授業の終わりを告げるチャイムが、その時鳴った。


* ある場所で見た、とても切ない映像を元に。

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