情け



 隣りの部屋のポルナレフが、何やら大騒ぎをしているのが聞こえたから、花京院は敵でも現れたのか---それにしては、やけにぎゃあぎゃあと落ち着きのない騒ぎ方だなと思った---と、荷物を解く手を止めて、隣りの部屋へ様子を見に行った。
 半開きのドアから、体を半分出して、いつでもどこかへ走り去ってやるという態勢で、ポルナレフがこちら側に背中を向けているのが、廊下に出たところで見えた。
 「承太郎、逃がすんじゃねえぞッ!」
 ポルナレフの切羽詰った声に、花京院は部屋の中で何が起こっているのか、ポルナレフから事情を尋く前に、さっさとハイエロファントグリーンを床に這わせて、内部に侵入させる。もちろん気配は、しっかりと消して。
 部屋に入って、すぐ右手にあるバスルームのドアのところで、承太郎が面倒くさそうな表情で、バスルームの中へ目を凝らしているのが見えた。
 一体どうしたんだ。
 驚かさないように、承太郎の視界に入る位置にゆっくりとハイエロファントを実体化させて、花京院はスタンド越しに承太郎に声を掛ける。
 「クモがいるって、ポルナレフが騒ぎやがる。」
 承太郎を見守っていたポルナレフも、ハイエロファントに気がついて、すぐそこにいる花京院にようやく気づき、ほんとうにひどく怯えた表情で、花京院の方へ駆け寄ってきた。
 「クモがッ! クモが出やがったんだッ! 何とかしてくれよォ、おれはクモが死ぬほど嫌いなんだッ!」
 汗を吹き出して、白い顔がいっそう青くなっている。花京院にすがりつくその仕草が、まるで子どものようだった。
 「落ち着けポルナレフ、敵の攻撃じゃないなら、みっともなく騒ぐんじゃない。」
 アブドゥルとジョセフの部屋は廊下のこの先を曲がったところだ。さすがにそこまでは、このポルナレフの騒ぎようは伝わってはいないらしい。少し安心して、花京院は、自分の腕をつかんでいるポルナレフの両手を、なだめるように軽く叩いてやる。
 「承太郎ッ! 早く見つけて殺せッ! 安心してシャワーも浴びれやしねえ。」
 部屋に入った花京院の背後に隠れるようにしながら、相変わらずバスルームの中を眺めている承太郎に、ポルナレフが殺気立った声で言う。
 「おい、殺すなんて、たかがクモじゃないか。追い出せばすむ話だろう。」
 思わず後ろを振り向いて、花京院は怯えているポルナレフに、少しきつい声を使った。
 「バスルームの外に追い出して、寝てる間におれの顔の上に落ちて来たらどうしてくれるッ! おめーの言う通りたかがクモだ、殺したってなんてことはねえッ!」
 ポルナレフがほんとうにクモが嫌いだということは、その態度で理解できたけれど、
 「僕ら日本人は、無駄な殺生は好まないんだ、ポルナレフ。」
 その精神性に乗っ取ってというわけではなく、たかがクモで大騒ぎをするポルナレフが面倒くさくて、承太郎はズボンのポケットから両手をまだ出さないまま、どちらが年上かわからない態度でポルナレフを諭している花京院を、ちらりと見やる。
 承太郎だって、たかがクモ相手に、スタープラチナを呼び出してどうこうするつもりはない。
 「君がいるとうるさいから、部屋の奥に行っててくれ。僕がどこか別のところへ追い出す。」
 背中に張りついているポルナレフをようやく引き剥がして、花京院は自分は承太郎の傍に立ったまま、ポルナレフを部屋の奥へ追いやった。
 ポルナレフは、わざわざバスルームのドアのところでは、いちばん遠くなる辺りへ、半円を描いて遠回り---たかが、歩幅一歩分だ---して、大きな体を縮めるようにして、振り返り振り返り、ふたつ並んだベッドの向こう側のいちばん端へ、そろりそろりと避難する。
 それを見届けてから、花京院はひとつ大きくため息を吐いた。
 「君も少し離れててくれないか承太郎。君の殺気のせいで、クモも怯えて出て来ない。」
 殺気と言われて、ふっくらとした唇を、ほんの少しへの字に曲げて、承太郎は、けれど素直にそこから一歩後ろへ下がる。
 いつの間にか姿を消していたハイエロファントが、花京院が狭いバスルームに一歩踏み込んだ途端、内部のありとあらゆるところに這わせた触脚の姿で、きらきらと光る翠を浮かび上がらせる。それこそ、ほんもののクモの巣のように見えた。
 こわがらなくていい、出ておいで。僕はキミを傷つけたりはしない。
 声ではない。ハイエロファントの触脚を通して、思念のようなものを送る。人間ではないものと、スタンドを使って意思の疎通を図ることが、完全に可能なわけではなかったけれど、少なくとも敵意や害意の存在くらいは、互いに知らせ合える。スタンドではあっても、毒グモにうっかり噛まれれば、本体の花京院がただではすまない。けれど、どこかに姿をひそめているクモが無害であることを、花京院はほぼ確信していた。
 出ておいでと、花京院は、どこかにいるに違いないクモに、辛抱強く、心の中で語りかけ続けた。
 バスルームの入り口から右手、浴槽のあるその壁の、上の辺りで気配があった。探せばすき間が見つかるかもしれないその辺りで、ハイエロファントの触脚が、かすかに揺れる。花京院は、殺気を込めずに、その辺りへ視線を向けて目を凝らす。触脚の透ける翠の向こうに、華奢なクモの姿が見えた。
 オフホワイトのバスルームの壁よりも、もう少し色の濃い、とても淡い金色とでも言えばいいのか、足を広げても、せいぜい6、7センチほどのクモだった。
 まったく、こんなものに、ポルナレフはあんな大騒ぎをしたのかと、花京院ははっきりと眉をしかめ、後で嫌味のひとつも言ってやろうと心に決めてから、浴槽の方へそっと爪先を滑らせる。
 そこへ、1日の埃をかぶったままの革靴で入り込むのは、日本人としてのマナー違反に心が痛んだけれど、とりあえずは今は、クモを捕まえることが先だと、今日はまだ使われていないらしい浴槽の縁をそっとまたいで、乾いたその中へ、花京院は足音を消して両足を入れた。
 ハイエロファントの触脚は、今は範囲を狭めて、クモが姿を現したその辺りを囲い込むように、前よりもずっと密な翠の巣を張っている。まるで柔らかな檻だ。
 おいで、どこか、ポルナレフみたいなやつがいないところへ行こう。
 糸のように細い脚を、もう動かしもせず、クモはおとなしくハイエロファントに捕らわれている。日に透かせば、きっととても綺麗だろう。顔を近づけて目を凝らさなければ、詳しい体の構造はわからない、そんな大きさのクモだ。
 ハイエロファントは、掌を網状にして、その中にしっかりとクモを囲い込んだ。クモは、その中でじっと動かない。
 浴槽の真ん中に立って、花京院は、天井に向かって、揃えた両手を差し出す。何か、落ちてくるものを受け止めるようなその姿のまま、花京院は、そろりそろりハイエロファントを、自分の方へ引き戻した。
 花京院にぴったりと重なって、ハイエロファントが戻ってくる。胸の前に、両手を球状に合わせて、クモが這い出るすき間は、ハイエロファントがしっかりと塞いでいる。翠の檻の中に、じっと身じろぎもしない、薄金のクモの姿がちゃんと見えた。
 掌をくすぐるような、小さなメモ用紙1枚程度の重さだろうクモの感触---8本の脚の、その先の感触---に、花京院は思わず薄く笑った。
 心配しなくてもいいと、ハイエロファントを通してクモの話しかけ続けながら、花京院はようやくバスルームを出た。
 「いたか。」
 胸の前に手を合わせた姿で出て来た花京院に、承太郎が低く聞いて、花京院がうなずいた途端に、部屋の向こうの端で、ポルナレフが小さく吠えた。
 「おい花京院ッ! 逃がすんじゃねえぞッ! 間違いなくおれの目の届かねえところに捨てて来いよッ!」
 今にも掴みかからんばかりの勢いで、けれどそこからは一歩も動かずに、声だけは震えながらも勇ましい。叫んでいる内容は、ともかくも。
 花京院は、この旅の間に覚えてしまった、呆れたという仕草で、色の薄い瞳を、大袈裟にまぶたの方へ押し上げて見せる。
 「ああもちろんだポルナレフ、誰にも殺されたりしないように、この子をちゃんと安全なところへ放してくるよ。」
 安全なところ、という辺りにアクセントを置いて、花京院の精一杯の皮肉は、けれどポルナレフには通じなかったようだ。
 まだ額に汗を浮かべたまま、花京院の方へ人差し指を突き出しているポルナレフに、承太郎がやれやれだぜと小さく言った。
 花京院は、珍しく少し腹を立てた気配を隠さずに、ポルナレフに見えるように軽く肩を揺すると、そのまま足早に、爪先を滑らせて部屋を出て行こうとする。
 まだベッドの向こうに隠れているポルナレフに素早く目配せして、承太郎は慌てて花京院の後を追った。
 先に廊下に出ていた花京院は、もうエレベーターへ向かっていて、その手前で追いついた承太郎は、少し固い花京院の横顔を見下ろすだけで、まだ何も言わない。
 ようやく口を開いたのは、やって来たエレベーターの中に入り、行き先の階数ボタンを、花京院のために押そうとした時だった。
 「ロビーを押してくれ。」
 「どこに行くつもりだ。」
 「外の植え込みの、日陰になっている辺りにこのクモを放す。」
 花京院とハイエロファントの合わせた掌の中で、クモは死んだように動かない。
 怯えているのだろう。これから何が起こるのか不安で、必死に体を小さくして、隠れているような、そんな振りをしている。
 心配しなくてもいい。
 花京院は、またクモに向かってささやきかけた。
 「嫌いなものは仕方ねえな。」
 ごとごとと、危なっかしく動くエレベーターの中で、不意に承太郎が言った。
 前を向いたまま、エレベーターの箱の中で、あちらの端とこちらの端に分かれて、壁にもたれて、承太郎は、少し離れたところにいる花京院の方は見ずに、そうぼそりとつぶやいた。
 花京院が、ゆるく首を伸ばして、承太郎の方へ向いて、ひどく悲しそうな表情を浮かべた。
 「嫌うのはポルナレフの勝手だ。殺さないのも僕の勝手だ。」
 エレベーターの扉の上で、丸いボタンがずらりと並んだそこに、下がってゆくにつれ、光が淡く左へ移る。ふたりは、またしばらく何も言わずに、それをじっと見上げていた。
 合わせた両手を、もっと胸に近く引き寄せて、様子を窺うように、それに向かって首を折る。そうして、花京院は、ふっと薄い笑みを浮かべる。
 「見た目がきれいじゃないから嫌われるなんて、別にクモの責任じゃない。そのためだけに殺されるなんて、あんまりだと思わないか承太郎。」
 自分を見つめる花京院に、承太郎も顔を振り向けた。
 花京院の言うことは理解できたけれど、積極的に賛同する気持ちは浮かばず、それでも、花京院の言っていることが、そのクモだけのことではないのだと、何となく伝わって、承太郎は居心地悪さを隠すために、帽子のつばをいつものように引き下げる。
 エレベーターの扉が、ふたりの目の前で開いた。
 ロビーは騒がしく、外はまだ昼間の気配が濃く残っている。花京院は承太郎を振り向きもせず、しっかりと両手を胸に引きつけて、エレベーターの前からホテルの入り口まで、一直線に横切って行った。
 ホテルの正面はまだ明るくて、その辺りにある植え込みは気に入らず、花京院は無言のまま、ホテルの前から右側に向かって歩き出す。そこには、背の高い樹が一本、葉を繁らせていた。
 木陰に入り込むと、花京院はハイエロファントを飛び上がらせて、重なる葉の一枚に、そっとクモを放した。
 クモは、数瞬、自分が自由になったのだとわからずに、戸惑うようにその葉の上で体の向きを何度も変えた後、窺うようにハイエロファントを見上げた、ように見えた。
 気をつけて。
 スタンド越しにそう声を掛けて、クモに向かって軽く手を振らせて、花京院はようやくハイエロファントを自分の方へ引き戻す。
 その一部始終を黙って見ていた承太郎に振り向く前に、もう一度葉の重なりを見上げて、少しだけ顔を傾ける。
 「部屋に戻ろう。」
 自分の傍を通り過ぎようとした花京院の腕を、承太郎がつかんで止めた。
 「ちっと待て。煙草が喫いてえ。付き合え。」
 花京院の返事を待たずに、素早く取り出した煙草に、承太郎はもう火をつけている。
 木陰で、ふたりは何となくそこに立ったまま、同時に葉の繁りを見上げた。
 光のこぼれる辺りに目を細めて、あのクモがどこかに見えるかと思うけれど、それらしい動きは見当たらない。
 足元の地面を軽く蹴って、花京院が下を向いたまま言った。
 「・・・君も、別にあのクモをつかまえて殺す気なんて、なかったんだろう?」
 確信は持てずに、語尾が軽く上がる。
 大きく吐き出した白い煙の向こうで、承太郎が素っ気もなく応える。
 「日本人は無駄な殺生はしねえって言ったのはてめーじゃねえか。」
 顔を傾けたまま、承太郎を斜めに見上げて、花京院がやっと笑った。
 「あのクモは、僕らの敵じゃない。」
 さっきまでクモを閉じ込めていた両掌を見下ろして、花京院が静かに言った。
 何か、とても深い意味が込められているような気がしたけれど、そこまでは読み取ることができずに、承太郎は煙草の煙が染みた振りで、花京院に向かって目を細める。
 あのクモは、そのうちこの木のどこかに、小さな巣を張るのだろうかと、思いながらまた頭上を見上げた。煙草の火の、じじっと鳴る音が、承太郎の耳の奥に、やけに静かに響いている。


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