夏半ば



 元気かと、アメリカのジョセフから電話があったのは、夏も近い、梅雨も最中の頃だった。
 パパ、と若やいだ声で答えて、ホリィの表情が途端に稚くなる。
 「パパこそ元気? ママも変わりはない?」
 矢継ぎ早に問いを送って、受話器越しの声の近さに、ホリィはまた里心がつくのを必死に抑える。
 ジョセフとスージーQは、大体交互に、月に一度程度の頻度で日本に電話をよこす。今年の春までは、それが週に何度と数えられるほど頻繁だった時期が、長くあった。
 ホリィのことを尋ねてから、それから、ジョセフは少し声の調子を変えて、
 「承太郎は元気にしてるか。」
 自分によく似た孫の近況を、それが本題だったのだとホリィにもわかるほど、らしくもない心配げな声音で、その声をこの1年、一体何度聞いたかと、ホリィは少しだけ唇を噛んだ。
 「元気みたいよ、パパ。ちゃんと大学にも通ってるみたいだし、まだ1年生だから、それほど大変でもないみたいだし。月に1度はここに帰ってくるわ。」
 ただ、と、口にはせずに、ホリィは心の中だけで続けた。
 去年の夏から、とても口数が少なくなったわ。口先だけだったけど、それまではあんなに憎まれ口を叩いてたのに、それも全然ないの。元々笑わなくなってたけど、もうわたし、あの子の立てる笑い声を最後に聞いたのがいつか、思い出せないのパパ。
 そう言ってしまえば楽になる、けれどどういう理由なのか、ジョセフがとても気に病むとわかっているから、ホリィはそのことを一言も告げてはいない。
 去年の夏、2ヶ月あまりの旅から戻って来た自分の父親と自分の息子---祖父と孫---は、それまでの疎遠さがうそのように、まるで古くからの友人のような親しさをホリィに見せて、けれどふたりの、よく似た色の瞳に浮かんだ昏さが、心の底から嬉しがることをホリィには許さず、何があったのかと旅の詳細を尋ねるホリィに、ふたりは揃って押し黙るだけだった。
 それでも、ジョセフがかいつまんで、不自然なほどの陽気さで語ってくれた旅の道程に、ホリィは、自分の窮地を全力で救ってくれたことになる父親と息子---と、よくは知らない、彼らの仲間たち---に、心の底からの感謝を惜しみなく示した。
 承太郎は、旅の間に一体何があったのか、それとも、母親を救うという緊急事態が彼をひどく大人にせざるを得なかったのか、肩も胸もひと回りぶ厚くなったように見えるのが、以前よりも確かな頼もしさを漂わせるようになっていて、うるせえクソアマという憎まれ口も、さすがにジョセフとスージーQが揃った前では、きっちりと封じられていた。
 承太郎の大人びた態度に、一抹の淋しさを感じながらも、こうやって子どもは親離れをするのだろうし、親もまた、子離れをするのだと、ホリィはこっそりと似合わないため息をこぼす。
 けれど、ジョセフとスージーQが帰国した後で、承太郎の寡黙さはいっそう顕著になり、憎まれ口はおろか、朝夕の挨拶程度しか声を聞かなくなってしまった。
 十代も半ばを越えた息子というのは、母親に対して誰もそんな態度を取るのかもしれない。けれど、承太郎の心根を誰よりも理解していると思っていたホリィには、その寡黙さが年頃だとか、そんな理由で説明できるものではなく、今まで見たこともない瞳に浮かぶ昏さによるものだと、理屈もなく悟って、その昏さが一体どこからやって来たものなのかと、けれど承太郎本人はおろか、ジョセフにさえ問い質せない空気があった。
 ジョセフは、そんな承太郎の態度を予想していたように、帰国後も頻繁に電話をよこし、いかにもさり気ないふうに、承太郎は元気でいるかと繰り返し訊く。
 ジョセフのそんな態度は、ジョセフ曰く可愛げのない孫に対してにしては、明らかに過剰で過敏で、ジョセフらしくない気の使い方が、いつもホリィを不安にする。
 何があったのパパ。何がそんなに心配なの。
 訊いたところで、言葉を濁されるだけだ。
 大人たちが、そんなふうに身を案じている間に、承太郎は、ますます無口になっていった。
 「夏休みになったら、おまえ、承太郎を連れてアメリカに遊びに来んか。」
 明るい声で、ジョセフが言った。後ろで聞こえるのは、母親のスージーQの声だろうか。その声の中に直接ひたりたいと、突然、猛烈に思う。
 楽天的な自分に、そんな感傷的な気分は似合わないと、ホリィは軽度のホームシックをなぎ払うように、ジョセフに負けない弾んだ声を出した。
 「承太郎も一緒じゃなきゃダメなの? わたしひとりでパパやママに会いに行っちゃダメなの?」
 途端に、ジョセフがいつもの、大きな声で笑い出した。
 「あー来い来い、いくらでも帰って来い、いっそもう日本に戻らんでもいいぞ。」
 無理に作った明るい声で、電話が終わる。またね、元気で、そう言ってホリィは、静かに受話器を置いた。


 梅雨はまだ完全には明けきらず、けれどもう、日差しはすっかり夏の色を濃くして、ちょっと動けば汗が流れるほど暑い。
 夏休みの間はしばらくこっちにいると、相変わらずの無愛想さで帰って来た承太郎は、挨拶もそこそこ、自分の部屋に引きこもって、いるのかいないのかわからないほどしか音も立てない。
 ジョセフに会いに、アメリカに一緒に行かないかと言ったホリィに、承太郎はじろりと瞳を押し上げて、
 「行くならひとりで行け。おれは行かねえ。」
 取りつく島もない返事が返ってくる。
 それでも、久しぶりに直に聞いた承太郎の声に、思わず微笑まずにはいられないホリィだった。
 大学は楽しい? 勉強は大変? お友達はできた? 夏はどこかへ出掛けるの? 何か予定はあるの? ホリィが、たたみかけたい気持ちを抑えて、なるべくゆっくりとひとつずつする質問に、承太郎の答えはただ一言、素っ気なく、別にと、それだけだった。
 帰って来た承太郎の後を追うように、大きな箱が空条邸に届いて、ひどく重いそれには、書籍とだけ、承太郎の口調と同じほど愛想もなく伝票に記されていた。承太郎の部屋まで運ぼうと、玄関で四苦八苦していたホリィを、どけと邪険に追い払う---けれど、母親にだけは通じる、優しさはきちんと込めて--- と、承太郎は軽々とそれを、自分の部屋へ持ち去った。
 夏の間に特に予定がないと言った承太郎の言葉は、部屋に持ち込まれたその本の量で証明され、承太郎は終日、まれに散歩や小さな自分の買い物に出掛ける以外は、部屋に閉じこもってばかりいる。
 ホリィは、掃除のために何度か承太郎の部屋へ足を踏み入れたけれど、過剰に散らかっているということもなく、ただ床や机の上に積み上げられている本が、海に関するものばかりだということだけは目に留めて、残念ながら内容は、わからない言葉や漢字ばかりで、ろくに掴めもしなかった。
 読みかけなのか、しおりの挟んである1冊を床から取り上げて、表紙を掌で撫でてから、ホリィはその本を胸に抱いた。
 今確かなのは、承太郎が、ホリィの産んだ息子であるということだけだった。
 何を考えているのか、何を見ているのか、何をしたいと思っているのか、何に興味があるのか、何もわからない。わからないなりに推測しながら、承太郎は、いっそう寡黙になってゆく。
 大きく育ってしまった体と、冷たく見えるほど真っ直ぐに伸びた背中と、どれももう、ホリィの腕の中には納まらない。
 母親として、いまだへその緒が繋がっていると実感しても、承太郎は半ばそれを拒むように、ホリィに背を向ける。
 嫌われているわけではない。それはわかる。親子の情愛は、きちんと通じている。それなのに、承太郎は、何もかもをまとめて拒むように、むっつりを口をつぐんでいる。
 何か、言いたいことがあるはずだ。どれほどホリィを罵ろうと、結局のところで屈託のない承太郎の性根だからこそ、笑って聞き流せる冗談になっていたというのに、あの夏を境に、承太郎の唇は、常に何かに耐えるように、細かく慄え続けている。
 言えないこと、言ってはいけないこと、あるいは、承太郎自身が、言葉にしきれない何か、ホリィは、気がつくと、本を抱え込んだまま、床に坐り込んでいた。
 承太郎が娘なら、もっとたやすく言葉を交わして、もっと楽にわかり合えたのだろうか。母と息子は、こんなふうに、ある日突然、血肉だけではなくて、心まで離れ離れになってしまうのだろうか。
 承太郎。
 本に向かって名前をつぶやいて、ホリィはゆっくりと立ち上がった。
 元のあったところに戻した本を、もう一度撫でてから、ホリィは突然明るい声で大きく言った。
 「ママだって、そんなに弱いわけじゃないんですからね! あなたを抱き止めるくらいのことはできるんだからッ! あなたのママなんだから!」
 夕食の準備、と続けて弾むように言ってから、ホリィは承太郎の部屋を後にした。


 その日、一方的にしゃべるホリィに、むっつりとろくに返事も返さない承太郎という変わり映えのしない夕食が終わって、食器を洗い始めたホリィのところへ、承太郎が後を追いかけてきた。
 「オフクロ。」
 キッチンの入り口で、頭を打たないように、腰を軽くかがめた承太郎が、そこに掛かる暖簾を片手で払いながら、水を使うホリィに聞こえる大きな声で、呼び掛けた。
 「なあに、承太郎。」
 珍しいこともあるものだと、ホリィは慌てて水を止めて、濡れた手をエプロンで拭きながら、とりあえず顔だけで振り返る。
 そこにある承太郎の表情に、笑顔が浮かんでいるわけでもなかったけれど、あちらから声を掛けてくるという事態に、ホリィは思わず声が弾むのを止められなかった。
 なあにと、なかなか口を開かない承太郎を促すと、承太郎が、散々迷ったように、ちょっと目線の位置を足元にずらしながら、ぼそりと、さくらんぼ、と言った。
 「さくらんぼが、どうかしたの?」
 ホリィはもう、完全に承太郎の方へ振り返っていて、可愛らしい響きのその果物の名前を、承太郎がひどく言いにくそうに発音するのに、少しだけ戸惑っている。
 「さくらんぼ、まだ、買えるのか。」
 「さくらんぼ?」
 子どもが、禁止されている菓子でもねだっているような、承太郎の妙に後ろに引いた態度が、天井に届くかと思う長身を小さく見せて、ホリィは一瞬、10にもならない頃の承太郎をそこに見ていた。
 目を細めて、笑顔を浮かべて、精一杯優しい声で答える。
 「普通の、日本のさくらんぼはあんまり見かけないけど、輸入もののチェリーならたくさん見るわよ。」
 「輸入もの?」
 承太郎が、怪訝そうに眉を少し上げて、珍しく会話を継いだ。
 「ええ、大きくて、黒っぽい赤のさくらんぼ。」
 目の前で、人差し指と親指をくっつけて、承太郎に向けてその大きさを示して見せると、指で作った丸い視界の中に見えた承太郎の目が、何かを思い出したように、すっと細められたのを、ホリィは見逃さない。
 わずかに険しくなった承太郎の目つきに、ホリィは慌てて手を下ろした。
 「さくらんぼ食べたいの、承太郎。」
 18の承太郎にではなくて、10歳の承太郎に使った声を思い出しながら、ホリィは訊いた。
 承太郎の唇が、小さく慄えている。瞳の色に暗さが増して、またあの目をしていると、ホリィは胸苦しさに、思わずエプロンの前をぎゅっとつかんだ。
 今駆け寄って、抱きしめてやればいいのかもしれない。何かにひとりきりで耐えようとしている大事なひとり息子に、ひとりで我慢する必要はないのだと、母親の両腕を差し出すべきだと、そう思いながら、体は動かない。
 キッチンの入り口に立ったまま、そこからは一歩も入って来ようとしない承太郎の、それが矜持なのだと、日本語の難しい表現で思いついて、息子を甘やかすのも、息子の誇り高さに敬意を表するのも、どちらも母親の役目だと、ホリィはただ、慈愛だけを込めた笑みを、柔らかな口元に深くしただけにとどめた。
 承太郎が、もう一度、今度は少し長く足元に視線を落として、ようやくゆっくりと顔を上げた時には、瞳に残っていたのは、ひどく深い悲しみの色合いで、昏さはその後ろに隠れているのか、もうそれ以上は見当たらない。
 その時初めて、ホリィは、あの夏以来、自分の息子がどれほど成長したのかを、心の底から実感した。
 「・・・花京院がな、好きだったんだ。」
 かすれた声で、承太郎がその名を口にした。
 それを、こうやって、こんなに苦しげに言えるまでに、1年かかったということなのかと、ホリィは、足元の床がぐらつくような気分に襲われ、承太郎には悟られないように、シンクの端で体を支える。
 エプロンを握りしめた両手は、すっかり乾いてしまっている。
 「それだけだ。」
 語尾を投げ捨てるように言って、承太郎が、奥歯を噛んだきしんだ音が、かすかに聞こえた。
 そのまま、体を後ろに引きかけた承太郎を引き止めるように、ホリィは、光の差すように顔いっぱいで微笑むと、
 「じゃあ、いっぱい買って来て、ふたりで食べましょう。承太郎と、ママと、ふたりで。」
 ふたりで、と言ったのに合わせたように、承太郎が眉を寄せる。
 遠くを見るような目つきで、精一杯微笑んだままでいるホリィを見つめた後で、承太郎の声が、喉で細く鳴った。
 「そうだな、盆が、近いしな・・・。」
 言いながら、もう承太郎の姿は壁の向こうに消えて、大きな歩幅の足音が、ゆっくりと去ってゆく。
 ホリィはまだ、シンクに背を向けたまま、けれどさっきまでの微笑みはもう、跡形もない。
 自分が、あの旅であったすべてのことを知るには、まだまだたくさんの時間がかかるのだろう。こうして時折、断片を伝えられながら、ジョセフと承太郎が抱え込んで戻った苦しみや悲しみを、ほんの少しずつ、この背に負ってゆくのだろう。
 自分が、無関係では決してなかったあの旅の途上で、一体何が起きたのか、何がどうなって、ジョセフと承太郎は、無事にホリィの元へ帰って来たのか、それをすべて知らされることは、おそらくないのだろう。
 それでも、せめて、承太郎が分け合いたいと思っていることだけでも、きちんとこの身に引き受けたいと、ホリィは気丈に思う。
 自分の息子は生きて帰って来たのだと、そう思う母親のエゴの醜さに唇を噛んで、ホリィはまた、中断していた皿洗いのために水を流し始めた。激しく流れる水音に、小さな泣き声がまぎれていたけれど、ここにはいない承太郎には聞こえない。
 明日ジョセフに電話をしようと、せわしく手を動かしながら、ホリィは思った。


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