見舞い



 家の中は、やけにしんとしていた。
 ホリィの声が聞こえないだけで、家の中の人の数は常よりも多いというのに、まるで死んだように静かだ。
 承太郎は、自分の手元を見下ろして、そこから聞こえるしゃりしゃりという音に耳を澄ませていたから、廊下を渡ってくる壁越しの音に、気づかなかった。
 見慣れない人影が、入(はい)り口に掛かった暖簾を片手で上げて、そこで承太郎を認めて、動きを止める。
 「君か。」
 静けさを見習ったように、ひそめた声が、低く響いた。
 承太郎は、人影をじろりと横目に見て、一瞬だけ手の動きを止める。自分に向かって、まだ微笑むという親しみを見せるわけではない人影に、微笑むことはもちろんせず、また自分の手元に視線を戻した。
 「すまない、勝手に歩き回るつもりはなかった。水をもらいたいと思っただけだ。」
 手の中にある、すでに8分割されたりんごの芯を、その手には小さすぎるようなナイフので切り取りながら、承太郎はまた人影---昨日は敵だった、仲間になったばかりの、花京院---の方へ瞳だけを動かして、斜め後ろへあごを振る。
 額に包帯を巻いて、まだ顔色の青い花京院は、承太郎の示す方向を見て、どうやらそこにグラスがあるらしいと悟ったのか、足音もさせずに、台所の中へ入ってくる。
 背中を向け合ったまま、けれどふたりは、互いの気配を窺って、ちりちりとした空気を鬱陶しいと思う。それでも承太郎は、花京院に早く出て行けとも言わず、花京院も、水道から水を汲んで飲んだ後も、まだそこで承太郎の背中を眺めていた。
 決して狭くはないこの台所も、承太郎が立てば、ずいぶんと小さく見える。空になったグラスを軽くゆすぎ、指先で洗ってから、花京院は、シンクのそばの洗いものかごへ伏せた。そこが空ですっかり乾いていることが、ホリィの容態の悪さを表しているようで、花京院は思わず、肩越しに承太郎の背中を振り返る。
 「君のお母さんが、早く良くなるといい。」
 言って、承太郎が、背中の線を固くした。
 大きな体の陰から動いた手が、水を張ったボールの中へ、ぽちゃんと、芯を取ったりんごを落とす。
 いやがられるかと思いながら、花京院は、承太郎のそばへ寄った。
 承太郎の手の中にあるからなのか、それとも季節外れだからか、芯を取られたりんごはやけに小さく見えて、思わず、花京院はそれを微笑ましいと受け取った。
 承太郎は、意外に器用な手つきでりんごの皮を剥いていた。承太郎の手の中で、りんごは皮を剥かれて、酸化して茶色くならないようにと、浸かっているのはあれは塩水なのか。花京院は、無言で承太郎の手元を眺めていた。
 厳しい顔つきで、けれどさりさりと剥くりんごは、半分だけ皮を剥かれ、三角に切れ目を残した部分をうさぎの耳に見立てて、承太郎の大きな手の中で、ほんとうに、うさぎの子のように見えた。
 花京院は、それに向かって、知らずに口元をゆるめていた。


 承太郎の生まれる前から、貞夫は滅多と家にいない夫だった。承太郎が生まれた後は、いっそう忙しさを増して、待っているだけでは1年も会えないからと、ホリィに連れられて、公演先を訪れることも多かったというけれど、承太郎は憶えていない。
 あれはいくつの時だったのか、まだ台所の洗い場に、やっとあごが乗せられた頃のような記憶があるから、きっと4歳か5歳か、そんな辺りだろう。珍しく、貞夫が家にいた。寝起きのようなだらしのない格好で、台所に立って、りんごの皮を剥いていた。
 いつもはギターを弾くその手が、今はナイフを握って、8つに割ったりんごのひと切れの、その背の半ば辺りに切込みを入れて、そうしてするすると赤い皮を剥くと、小さなうさぎが現れる。ホリィが、それを大好きだったから、承太郎は目を輝かせて、父親の手が起こす魔法を眺めていた。
 ママとパパが結婚する前にね、ママが風邪で熱を出した時に、パパがそうやってりんごを切ってくれたの。初めてそんな切り方を見たからびっくりして、それでパパのことをもっと好きになったの。
 子どもがいるとも思えない、ひどく可愛らしい口調で、ホリィが語ったのを、承太郎はきちんと憶えていた。
 貞夫は、滅多と家にいない父親だったけれど、家族へ愛情を示すのに、まったくためらいのない男だった。承太郎の目の前で、ホリィの手を取り、肩を抱き寄せ、そうしながら承太郎を仲間外れにはせずに、頭を撫でることは忘れない。声を荒げて怒るよりも、何もかもを冗談に洒落のめし笑い飛ばして、承太郎は、貞夫に手を上げられた記憶がない。ホリィにはひたすら優しい夫であり、承太郎にとっては変わった男である父親だった。
 ボクもママにうさぎりんご切ってあげたいな。
 洗い場の縁に小さな手を掛けて、承太郎は、貞夫の背の高さに追いつこうと、精一杯背伸びをした。
 貞夫は、りんごの皮を剥く手を止めて、ちょっと首を傾げるように、隣りの承太郎を見下ろした。
 だめともいいとも言わずに、りんごとナイフを傍のまな板の上に置くと、ちょっとどけと承太郎の肩を押し、洗い場の下の扉を開けて包丁を取り出す。その包丁を片手に、空いた方の腕で承太郎をひょいと小脇に抱え、包丁は食卓の上に、承太郎はその前の椅子に坐らせて、剥きかけのりんごとナイフと、切っただけのりんごのふた切れを持って来て、自分も承太郎の隣りの椅子に腰を下ろした。
 よく見て、同じようにしろよ。
 承太郎の小さな右手に、包丁を握らせる。柄に、まだ短い指がうまく回らない。刃のしっかりと光る包丁は案外と重くて、承太郎は、ふっくらとした手首に、必死で力を込める。貞夫が、承太郎の表情に、穏やかな笑みを浮かべた。
 こう持って、な?
 包丁が、ようやく右手にうまく納まると、今度は左手にりんごを渡して、そうして、持ち方を見せる。承太郎の小さな手に、やはりりんごはうまく乗らない。十数秒悪戦苦闘した後で、ようやく形だけは何とか決まった。
 皮だけ、なるべく薄く剥けよ。
 そう言って、ナイフの刃先と親指の間に皮を差し入れるように、するすると剥くその様子を見せる。
 それを必死で写して、承太郎は、りんごの実と皮の間に、薄い包丁の刃先を食い込ませる。左の指先に乗せたりんごは、包丁を押しつければうまく支えられずに、ころりと手から逃げる。
 承太郎の手際の悪さに腹を立てることもせずに、貞夫は落ちたりんごを拾って、また承太郎の左手に乗せてやる。
 4度目に、ようやく包丁の刃先が皮の下にするっと入り込み、添えた親指の下を滑って行った。
 あんまりするするやると、そっちの指切るぞ。
 貞夫が、ちょっと慌てたように、りんごを持った承太郎の、左手の方を指差す。
 人差し指の先の部分ほど、ようやくでこぼこに皮を剥いて、そこで手を止めさせると、貞夫は自分の剥きかけのりんごを承太郎の目の前に差し出して、耳の部分の切込みを見せた。
 しっかりとりんごを支えて、ナイフの手元の部分から、りんごに刃を入れてゆく。斜めの線がふたつ、いちばん上の部分でぶつかるように、りんごの実に、きちんと達する深さに、刃を入れる。
 そうして、父親の手の中で、りんごはうさぎの姿を現した。
 皮を剥くよりも、そちらの方が案外と難しく、承太郎は唇をとがらせ、額に汗を浮かべて、痛みを訴える幼い二の腕の筋肉を必死に使って、それから一体どれだけ時間が経ったのか、承太郎の手の中に、ようやく不恰好なうさぎが生まれた。
 貞夫はもう、残りのりんごを全部うさぎにしてしまっていて、けれど承太郎の隣りで、手は出さずに、必要な時を見計らって言葉を掛けるだけで、辛抱強く承太郎の危なっかしい手元を見守っていた。
 できたばかりの、生まれて初めて自分で作ったうさぎを掲げて、承太郎は、貞夫に向かって満面の笑みを浮かべた。貞夫も、ひどくうれしそうに笑っていた。
 パパがいない時は、おまえがママにうさぎを作ってやれな。
 承太郎の頭を撫でて、貞夫がそう言った。うんと、細いあごを胸に引きつけて、両手にうさぎのりんごを抱いたまま、承太郎は思い切りうなずいた。


 貞夫はもう、承太郎を抱き上げることはできない。今では、承太郎の方が、すっかり背も伸びて、肩も胸も厚くなってしまっている。
 今はここにいない貞夫の代わりに、承太郎が、倒れたホリィのためにりんごの皮を剥いている。小さなうさぎの形に、ホリィが喜ぶその形に、りんごの皮を剥いている。
 貞夫には何も知らせずに、ここを発ってしまうつもりだった。知らせれば、そのまま飛行機に飛び乗ってしまうだろうし、この事態を知れば、ひとりでDIOを見つけに行くという無謀を、やりかねない父親だった。
 今の承太郎でさえ、もしかしたら気迫ではかなわないかもしれない貞夫とは言え、スタンド使い同士の争いに巻き込むわけには行かない。これは、あくまでジョースターの問題だ。
 そう思ってから、薄く微笑みを浮かべて、自分の傍にいる花京院を、ようやく斜めに見やる。
 一体何のために、一緒に来ると言ったのか。何の義理もないホリィや承太郎のためとも思えず、かと言って、他に理由があるとは思えず、気まぐれにしては重すぎる決心を、花京院の親がすんなり受け入れるとも思えない。親とはそういうものだと、貞夫の顔を思い浮かべながら、思う。
 貞夫よりも、わずかに背の低いだろう花京院を見下ろして、承太郎は、自分の父親を懐かしく思い出していた。
 どこか一筋、揺るがない芯のようなものが通っているように感じられるところが、花京院と貞夫は似ているような気がした。だから、一緒に来ると言ったのを、さして反論もせずに受け入れてしまったのだろうかと、承太郎は、黙って花京院を見つめたまま、自分の胸の内を推し量っている。
 塩水にぷかぷかと浮かんだりんごの、うさぎの耳の形に切り残された皮の赤さが、血の色を思わせる。いやな連想だと、縁起でもない不吉な予感を振り払うように、承太郎はその塩水の中に指先を突っ込んだ。
 取り出したりんごを、用意していた皿に並べ、一緒に出しておいたフォークを添える。そこからひと切れ取り上げて、承太郎は、物も言わずに花京院の口元に差し出した。
 「食え。」
 まるで、脅しつけるような声が出た。
 ホリィほどではないにせよ、花京院もまだ顔色が悪い。昨日花京院を散々痛めつけたのは承太郎だったから、その詫びとも取れるように、けれど仏頂面は崩さないまま、突然のことに面食らっている花京院に、押しつけるように、もっと近くりんごを突きつける。
 「あ、ありがとう。」
 戸惑ったまま、花京院が差し出されたりんごを、揃えた指先で受け取った。
 白い歯列が、りんごをかじる。皮を剥いた部分から、力強く、噛み砕いてゆくのが見える。
 頭から食べるのはかわいそうじゃない?
 いつもそうやって、皮の部分は先には食べないホリィの、生来の思いやりのこもった仕草を思い出して、承太郎は、自分の剥いたりんごを食べている花京院の、ゆっくりと動く口元を見ている。
 昨日知り合ったばかりの、敵として出会ったばかりのこの男を、自分の親とどこか似ていると思うのは、自分がこの男を憎からず思っているからなのだとはまだ気づかずに、承太郎は、いつの間にか唇の端をうっすらと上げて、りんごの果汁に唇を濡らす花京院の口元を、飽かず眺めていた。


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