新年



 ジョセフが会いたがっているという口説きと、ボストンの美術館回りに付き合うという甘言に負けて、花京院が承太郎とアメリカに発ったのは、1991年のクリスマスの直後だった。
 ジョセフはもちろん、ジョセフの妻、承太郎の祖母であるスージーQにも歓待され、けれど大晦日の夜、ジョセフが親しい友人たちを招いた自宅でのパーティーには参加しないと言って、承太郎は花京院を連れ出した。
 「金と身分証明書だけ身に着けとけ。薄着でいい。」
 「一体どこに行くんだよ。」
 せっかく着たぶ厚いダウンジャケットを脱ぎながら、花京院が訊いても、承太郎ははっきりとは行く先を言わず、Tシャツにジーンズの他には、パーカーを羽織っただけの花京院と同じく、承太郎も、黒のジーンズに、これも黒の、タートルネックの薄いセーターに、ポケットのやたらとついたカーキのベストを引っ掛けただけだった。
 足元だけは、それなりのブーツを履いて、残念がるジョセフとスージーQに見送られ、ふたりは零下2度の外へ出る。
 ジョセフから借りた車を、承太郎が馴れた様子で運転して、向かった先はダウンタウンだった。
 どこもかしこも人だらけで、深夜近いとも思えない明るさにあふれ、この寒さだと言うのに、公園のような場所では、必ず野外演奏が行われている。
 外を歩く人たちは、誰もぶ厚いコートやジャケットに背中を丸めて、白い息を吐いていた。
 「どこに行くんだよ、承太郎。」
 もう何度目か、同じ質問を繰り返すけれど、混んだ道路を真っ直ぐに睨んでいる承太郎は、花京院の質問に答える気はないらしく、すでに酔っ払っているらしい歩行者を際どくよけながら、ダウンタウンの中心を少し外れて、騒がしい通りを3本ほど東に入った辺りで、急に少しばかり暗くなった道を、そこから少し北に上がって行った。
 日本とは違う、酔っ払って羽目を外すのが目的の大晦日の夜というのは物珍しく、車の中から外を眺めるだけでも充分に楽しめた。
 案外と車の数が少ないのは、運転する心配なく、存分に飲むためなのだろう。
 承太郎が車を滑り込ませた、やたらと派手な外見のバーも、駐車場は案外と空いていた。
 比較的暖かなクリスマスの後、少しばかり降った雪が、泥交じりで残っている程度で、道も凍ってはいない。車から降りて、花京院は薄いパーカーの前をかき合わせると、承太郎の背中に隠れるようにして、バーの入り口へ向かう。
 すでに5、6人、入り口で短い列を作っているその後ろへ並んで、花京院は、先客たちの顔ぶれが、少しばかり尋常でないのにすぐに気づいた。
 「・・・承太郎・・・。」
 自分の感じた通りなのかどうか、それを訊こうとした時、前に並んでいた男たちは一気に中に入り、承太郎が、入り口に立っている用心棒のような黒人の男の前に、花京院を押し出す。
 「パスポート出せ。」
 承太郎に後ろから言われて、慌ててパーカーのポケットを探ると、黒人の男は胡散臭げに花京院を上から下まで眺めて、受け取ったパスポートと、たっぷり1分見比べてから、花京院の頭越しに、承太郎を見る。
 「He is with me」
 「Let me see yours then, sweetie」
 花京院より少し背は高く、横は筋肉で3倍ありそうなその男は、これもまた花京院の頭越しに、承太郎からパスポートを受け取って、それを見てから、あっさりとふたりにパスポートを返してくれた。
 「Too bad, you're my type」
 「I'm his, leave us alone」
 「I'm just kidding, sweetie, enjoy tonight」
 「We sure will」
 承太郎と殴り合えそうな、太い腕を奇妙にくねらせて、男はふたりを中に通してくれた。
 花京院には、英語の細かいニュアンスはよくはわからなかったけれど、男の口調が、通常のものと少々違うらしいということだけはきちんと聞き取っていた。
 「・・・僕が、飲酒を許されてない子どもに見られたってのは、わかった。あの男が、君を口説こうとしてたように聞こえたのは、僕のヒアリングのせいかい。」
 「ありゃ冗談だ。誰にでも同じことを言ってる。」
 「いやそうじゃなくて承太郎」
 それから先は、中から流れてくる大音量の音楽にかき消される。
 人いきれと、青や赤や黄色の照明と、大声の会話と、酒の匂い。花京院は、馴れない雰囲気に呑まれて、思わず足を止めた。
 「おれから離れるな、さらわれるぞ。」
 花京院の耳元でそう怒鳴って、承太郎が花京院の腰に腕を回す。ふたりがぴったりと体をくっつけていても、気にする人間は、ここにはいないようだった。
 「・・・承太郎・・・」
 目の前にいる男たちは、肌もあらわな服装で、それぞれが抱き合って、あるいは数人が、気の早い新年の祝いにキスのやりとりをしている。少数だったけれど、女たちもいて、これも女同士、他の誰にも視線が行かないと言った様子で、ひどく扇情的に抱き合っていた。
 「承太郎・・・ここは・・・その・・・」
 この音量では、まともな会話はできない。花京院はハイエロファントを出すと、スタンドで、平然と自分の腰を抱いている承太郎に話しかけた。
 スタープラチナが、代わりにハイエロファントに応えた。
 「ゲイの連中の集まるバーだ。」
 「どうして僕らがそんなところにいるんだ。」
 「男のおれが、男のおまえに惚れてるからだ。」
 「君まさか、僕があんなことを君にするとか、そういうことを期待して、ここに来たわけじゃないだろうな。」
 少しばかり唇を震わせて、花京院は、日本なら逮捕されそうなディープキスをしている男のカップルをこっそり指差す。
 「したけりゃ、もっと先でもオッケーだぜ。」
 殴ってやろうと振り上げた腕を、楽々つかまれて、もっと近く抱き寄せられると、花京院ももう観念したというしるしに、軽く頭を振って見せた。ここまで来て、腹を立ててひとりで帰ってしまうほど、花京院も野暮ではない。第一、こんな夜に、タクシーがつかまえられるかどうかも怪しかったので。
 流れていた曲が終わり、ふたりが知っている、去年やたらと流行った曲に変わると、客たちの大半が嬌声を上げて、抱き合ったままその場で踊り出すカップルもいた。
 体を横にして、すり抜けるように歩かなくてはならない店の中でも、背の高い承太郎を見失う心配だけはなさそうだった。とりあえずカウンターの方へと、壁際を通って、そこへたどり着くまでに浴びた視線の量だけで、汗が吹き出そうになる。
 「君は、どこでも目立つんだな。」
 「おれじゃねえ、てめーだ。」
 「・・・東洋人が珍しいんだな、きっと。」
 男たちの大半は白人で、ぶ厚い体を見せびらかすような、目のやり場に困る服装も多く、それでも、フロアを埋め尽くす数のゲイの集団は、いっそ壮観ですらあった。
 承太郎がバドワイザーと、花京院にはダブルのスクリュー・ドライバーを頼んで、これもひどく優しげな口調のバーテンダーが、承太郎と花京院を見て、苦笑しそうになるほど友好的な微笑みを浮かべてくれた。
 「僕、アルコールは苦手なんだけどな。」
 差し出されたスクリュー・ドライバーを一口飲んで、花京院がウォッカの量に顔をしかめる。
 「今夜は黙って酔え。」
 「酔わせてどうするつもりだよ。」
 「知りたいか?」
 背の高いグラスに入ったストローを数回噛んで、考えてから、
 「・・・知りたくない。」
と答えておいた。
 カウンターに寄りかかって、目の前のバカ騒ぎをふたりで眺める。大半はすでに軽く酔っ払って、無意味に叫んで、それから、辺りかまわない素振りで、連れと抱き合ったり、見せつけるようなキスをしたりしている。
 ほとんど着ている意味もないような服の下の素肌に手を這わせている連中もいて、ほんとうにここは日本ではないのだと、改めて思う。
 汗をかくほどの室温のせいか、花京院はTシャツの襟に指先を差し入れて空気を送り込みながら、1杯目のアルコールをすでに空にしていた。
 氷ばかりになったグラスを承太郎がさっさと取り上げて、さっきのやたらと友好的なバーテンダーに同じものを頼む。ウォッカの量を減らせという間もなく、2杯目が手の中にやって来た。
 承太郎は、1本目のバドワイザーを、まだちびちびと飲んでいる。
 「・・・承太郎、ここに来るために、あんなにしつこく僕を誘ったのか。」
 主を見習うように、ふたりの後ろで、スタープラチナがハイエロファントにぴったりと寄り添っている。スタンド同士の会話に、ここの騒音は関係ないけれど、スタープラチナはハイエロファントを離す気はないようだった。
 「こんなところでもねえと、堂々と手も繋げねえからな。」
 そう言いながら、花京院の掌に、するりと自分の掌を重ねてくる。
 ふたりだけではなく、今ここにいる連中の大半も、こんなふうに堂々とは、外で決して振舞えないのだろう。普通ではないという自覚はあっても、それで卑屈になる必要はない。けれどそれは理屈だ。友達のふりをしなければならない、女の子と付き合わない理由を、あれこれと用意しなければならない、隠し事があるというそれだけで、息苦しいこともある。かと言って、そうなのだと打ち明けてしまうのは、リスクが大きすぎる。
 ここにいる連中と自分が同種の人間なのだとは、どうしても思えないけれど、誰はばかることもなくうっとりと見つめ合って、引き剥がせそうにないほどしっかりと抱き合っている、男同士のふたり組を見ると、あんなふうにしたいと、思っていないわけではないのだと、花京院はちらりと承太郎を見上げた。
 ウォッカの量が、少々過ぎたようだと、花京院は思いながら、残りを一気に空にすると、自分から承太郎の腰に腕を回した。
 「・・・堂々としたいと思ってるのは、君だけじゃないよ。」
 ぴたりと胸を合わせて、そのままあごを突き上げるように承太郎を見上げると、今夜はいつもの帽子のない承太郎の、眉の上から前髪の辺りまでが、一気に見渡せる。その線を、とてもきれいだと思って、まるでねだるように、唇が動いた。
 「もう酔ったのか、てめえ。」
 「酔えって言ったのは君じゃないか。」
 「・・・上等だ、もっと酔え。」
 言いながら、承太郎の唇が、触れるだけのために落ちて来た。それに向かって、少しだけ伸び上がって、もう少し深く、誘ってみる。
 周りの振る舞いを見習って、酔っているからだと言い訳できる今なら、ふたりきりの時でさえ滅多とはしない、相手を食い散らすような口づけも、そう難しくはない。
 薄いシャツとセーターの下の素肌の熱さは、けれど今は、アルコールのせいばかりとも言えなかった。
 「・・・ビールは、やっぱりあんまり好きじゃないな。」
 離れた唇を舐めて、花京院が言った。
 承太郎が、花京院を下目に見て、ちょっと挑発するように唇だけで笑う。
 花京院の両腕の輪に収まったままで、承太郎がカウンターの方へ肩を回した。
 例のバーテンダーが、承太郎が声を掛ける前にさっさとこちらへやって来る。そちらに体を伸ばして、ほとんど頬が触れ合うくらいに、バーテンダーの耳元で、承太郎が何か怒鳴った。
 花京院とあまり背の高さは変わらない、さほどぶ厚い体でもない彼は、腰を振るようにしてカウンターの奥へ行くと、ショットグラスふたつと、透明なボトルを手に、ふたりの前へ戻ってくる。
 小さなグラスからあふれそうに、少し高い位置から透明な酒を注いで、そうして、優雅な手つきでふたりの方へ押しやった。
 「Here you are」
 「Thanx」
 承太郎が置いた紙幣を、小指だけを立てた手で取り上げて、
 「You're welcome, cutie pie」
 花京院と承太郎と、それぞれに向かって、片目をつぶって見せた。
 承太郎が手渡したショットグラスに、花京院は恐る恐る唇を近づける。
 「・・・何だい、これ。」
 「テキーラだ。」
 「・・・匂いだけで酔っ払いそうだ。」
 相変わらず、花京院を片腕で抱いたまま、承太郎は、いきなり上向いて、グラスの中身を喉に流し込んだ。濡れた唇を舐めながら、音を立ててグラスをカウンターに置いて、ぶるっと頭を振る。
 見た目は水のような、きつい匂いのその酒を、花京院も目をつぶって一気に飲んだ。
 とろりと、水に比べれば少し丸みのある液体が、喉と食道を焼く。鼻から抜ける香りにむせそうになりながら、花京院はアルコールの強さに、目を白黒させた。
 花京院から、グラスを取り上げると、承太郎は、ほんのわずかグラスの底に残ったテキーラを、グラスを舐めるように飲み干して、それもカウンターに、とんと音をさせて置く。
 それから、まだテキーラの強烈な香りに戸惑って、必死に唇を舐めている花京院のあごを持ち上げると、さっきよりももっと深くて濃いキスを奪った。
 周りの騒ぎは、ひととき、ふたりの傍でだけ音を失くして、こんなところにいる東洋人が珍しいのだろう不躾けな視線も、同類だと思われて送られる奇妙な好意の視線も、何もかも視野の外に置いて、絡む舌に残るテキーラの、まろやかなくせに尖った香りに、ふたり一緒に酔う。
 自分の腰を撫でる承太郎の手を、今は止める気もない花京院だった。
 ふたりが我に返ったのは、いつのまにか傍に立っていたウエイターらしき男---花京院よりも背の低い、少年のような体つきの、スキンヘッド---が、大量のシャンパンのグラスを乗せたトレイを手に、
 「3 minutes to go, guys」
と、グラスを取るようにふたりを促しながら、天井近くに吊り下げてあるいくつかのテレビを指差した時だった。
 気がつけば、鼓膜を破りそうだった音楽はいつのまにかやんでいて、代わりに、どうやらどこかで行われているコンサートか何かの中継らしいテレビの音声が、デジタル表示の時計を大写しにして、新しい年が近いことを告げていた。
 好き勝手に騒いでいた集団も、今はそれぞれテレビの画面を見上げて、皆、手には同じシャンパンのグラスを掲げている。
 ふたりは、周囲に倣って、いちばん近くにあるテレビを見上げると、また肩をくっつけるように寄り添った。
 30秒を切った辺りで、また騒がしくなり、いよいよ10秒になる頃には、一瞬、しんと静まり返った後、10から、テレビの声に揃えて、カウントダウンが始まった。
 珍しく、少し大きな声で周りと一緒に数を数えて、花京院は大きく笑った顔で承太郎を見上げている。承太郎も、フライングでシャンペンを飲み干した後、4秒から参加して、ふたり一緒に、テレビ目を凝らして、声を揃えた。
 Three, Two, One, Happy New Year!
 壁が揺れるかと思うほどの声が一斉に上がり、そして、テレビの中では、飛び上がって騒いでいる観客を映し、冬の夜空には花火が上がっている。
 花京院の目の前では、皆が、傍にいる誰かをつかまえて、キスを交し合っていた。
 え、とその光景に目を奪われていると、承太郎が花京院の肩を引き寄せて、あごを持ち上げ、さっきのようにではなく、触れるだけだったけれど、丁寧なキスをしてくる。
 まだ口をつけていないシャンペンが、うっかり傾いてしまったグラスから、少しだけこぼれて、指を濡らしていた。
 唇が離れても、承太郎から視線を外さずに、花京院は、酔っているなと、まだ残っているテキーラの味に、唇の中で舌を動かした。
 「新年になった瞬間に、そばにいる誰にでもキスしていいって習慣があるって、言ったか。」
 「いや、言ってない。」
 そうと意識はせずに、けだるく首を振りながら、抱き合う腕は外さない。そういえばそんな習慣があるんだったなと、今さら思い出して、ほんとうに日本を離れて、今は承太郎とふたりきり、誰に---ジョセフにさえ---はばかることもないのだと、ふと、声を立ててはしゃぎたくなる。
 「・・・明けまして、おめでとう、承太郎。」
 また元通りの騒ぎに戻った周囲になど、気づいてもないふうに、花京院は静かに承太郎を見上げている。
 「今年も、よろしく。」
 そう言うと、承太郎がにやっと笑った。
 「今年だけじゃねえ、これからも、ずっとだ。」
 熱を持ったように熱い耳朶のそばで、承太郎の声が聞こえた。
 体の中はふわふわと軽いのに、手足の自由が少し利かない。どうやら、ほんとうに酔いが回り始めたらしいと、承太郎に寄りかかって、花京院は、首や肩の辺りに頬をすりつける。
 「・・・君が英語を話す時の声が、好きだ。」
 花京院の頭を撫でて、髪に唇を押しつけながら、承太郎がそうか、と言う。
 「何が違うのかわからないけど、日本語の時と、少し違う、ような、気が、する。」
 足がもつれないように、しっかりと承太郎の腕にしがみつきながら、舌が回らない。飲まないままだったシャンペンのグラスは、いつのまにか承太郎に取り上げられていた。
 「・・・もっと酔うか?」
 そそのかすように、おかしそうに承太郎が言った。
 「んー、テキーラはもういい。それより、君のいれたコーヒーが飲みたい。コーヒーがいい。」
 「ああ、いくらでもいれてやるから、もう黙れ。」
 言った通りに、黙らせるためなのか、承太郎がまた、花京院の唇に触れる。濡れた音を立てて、舌を軽く噛んで、花京院は喉を反らせて、承太郎の首にぶら下がる。
 周囲に見せつけるように、見せびらかすように、承太郎の肩や背中を撫でた。それが許されるのは今だけだったから、それなら思う存分やってやると、そう思った後のことを、花京院は覚えていない。
 I'm deadly in love with you
 流れるように承太郎の声が聞こえたのが、その夜の最後だった。


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