夜空の雲


 見上げる夜空に、今夜は月が明るく、伸ばした首から滑り込む、まだ確かに冷たい冬の冷気に、花京院は慌てて肩をすくめた。
 それでも、視線は上に上げたままで、上目遣いに見る月が、冴え冴えと白いのに、はあっと大きく息を吐きかける。
 足下から膚の1枚下を凍らせるような冷たさは、いつの間にかやわらいでいる、春も近い夜だ。それでも、まだ冬の気配は深く、見回す木々の枝も、縮こまったような風情で、花京院以上に、風のぬくもる春を待っている。
 その夜空に、花京院は黒い雲を見る。
 光があればそのままの色に染まる、今は闇色に、不気味なのろさで流れてゆく、身じろぎのなく見える、夜の雲だ。
 それが、月の端を滑ってゆく。
 夜の空にだって、雲はかかっているのだ。鮮やかに白くもなく、美しく緋色でもなく、天を覆う闇よりもひと色青い、それもまたため息を誘う荘厳な、月が降らせる夜の、深いその青よりも、いっそう闇色に近く、まるで、悪者の影そのもののような、黒色の雲。
 それに覆われてしまう月が、何だか憐れに思える、光を通さない黒だ。
 その黒さを、けれど今は邪悪とは感じずに、なぜか、その昏さゆえに忌まれるのだろうその色を、花京院はひどく身近に感じた。
 あれは、どこか自分と似ている。
 まるで添えもののように、空や光の色に、その時のまま染まる。まるで自分のことなどないように、ただそこに漂い、風に流され、そこに在ろうと、なかろうと、風景の重みは変わらない。それでも、ただそこに在る。あるいは、ない。
 変幻自在と言えば言えるのだろう、見た目そのまま、重みのない存在に、花京院は親しみを感じて、空を見上げて微笑んだ。
 そう言えば、雲のある夜には、星が見えにくいなとそう思った時、向こうから近づいて来た足音が、自分の前で止まる。
 「こんなところで立ち止まって何してやがる。」
 承太郎が、そんな必要もないだろうに、首に巻いたマフラーにあごを埋め、そこから白い息を吐いて、憮然と言う。
 「やあ、どうしたんだい、承太郎。」
 「帰って来ねえから、どうしたかと思った。」
 心配していたと、表情や声には現れない。それでも、花京院にははっきりとわかる。
 「月が、きれいでね。」
 ほら、と上を指差すと、背高い体の、長い首を伸ばして、承太郎が上向く。あごの線が、相変わらずとてもきれいだ。
 星であり、月であり、太陽であり、そして、空そのもののような承太郎の姿を、承太郎が上を向いている間に、花京院は素早く目に焼きつけた。
 そうして、やはり自分は、あの雲なのだと、そう思う。
 それでいい、喉の奥でつぶやきながら、承太郎のそばへ寄る。
 「まだ少し寒いな。」
 「おう、風邪引くな。」
 言って、それが当然だという仕草で、承太郎が自分のマフラーをほどいて、花京院の首に巻きつける。
 逆らわず、ぐるぐると首に巻かれたマフラーに、承太郎を見習ってあごを埋め、花京院は承太郎と爪先を揃えた。
 「行こう。」
 「おう。」
 ふたりが一緒に住む場所へ向かって、同時に足を滑り出す。
 街灯に照らされて、影が長く伸びる。黒いアスファルトに、いっそう黒々と浮かぶその影は、ふたり分の境も区切りもなく、奇妙な形にふたつがひとつに繋がり、花京院も承太郎の、その繋がりをいっそう近寄せるために、ごく自然に体を近寄せる。
 歩きながら、花京院は後ろを振り返り、また空を見上げた。
 月が、黒い雲に覆われて、風も消えた空には明るさも消えている。
 月や星にも見られずに、ふたりは、その気はなく足音を消し、影を寄せ合って、夜道を歩く。
 春の風はまだ吹かない。けれど、冬の風も、もう吹かない。
 春の湿りをかぎ取ろうと、まだ冷たい空気を、花京院は胸一杯にこっそりと吸い込んだ。


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