夜歩く

 深夜少し前、こっそりと家を抜け出す。
 鍵は普段から持っているし、勉強の合間の休憩だと言えばそれですむ。第一親たちは、家にいればもう寝ている時間だ。
 いつも以上に静かに、足音をひそめて、靴底で音のしないスニーカーを履いて、まるですり抜けるようにドアを開けて外へ出て行く。
 昼間の熱気も少しは冷めて、ただ立っていても汗の吹き出すような湿った空気の塊まりは、どこかへ移動したように爽やかだ。
 数分歩けば、待ち合わせの四つ角へ着く。同じように、ジーンズに袖をまくり上げたTシャツ姿で、承太郎が花京院を待っている。足元は、スニーカーではなく、よく履き込んだ下駄だ。
 ふたりで一緒に家を抜け出して、夏の夜の深夜近く、町中をひっそりと歩く。ごくまれに、警邏の警官に呼び止められることもあったけれど、
 「受験勉強の休憩なんです。」
と、花京院がことさら丁寧に言えば、ああそうとあっさり解放してもらえるのが常だった。承太郎を、わざわざ補導したいとも思わないだろう。
 どこと行ってあてもなく、ただふたり肩を並べて歩く。見上げる空に、銀色の月が丸く上がっている夜もあれば、雨の気配に空気が重く、いつ降り出すかと心配する夜もある。あるいは、声をひそめるようにして何かささやき合っているふたり連れと、足音を消してすれ違うこともあった。
 一応の用心に、周囲にハイエロファント・グリーンを這わせておくことは忘れない。警官に呼び止められる気分でない時は、気配を察知して自分たちが道を変える。夜道で、近所だと言うのに、迷ったこともあった。
 人気がないことを確かめてから、指先を近づける。長い人差し指と中指がまず絡んで、それから互いの手をたぐり寄せるように、全部の指を絡め合ってから、掌を重ねる。指と指の間に、自分の指を差し入れて、そうしてぴったり重なる掌に、気持ちを込めるのが精一杯のふたりだった。
 歩き回る間に、ふと行き当たった公園や、自動販売機の並んだ場所や、そんなところで足を止める。明るければ手を離して、何か下らない話の続きをするだけだし、あるいは、承太郎が煙草を吸う間一緒に立ち止まったり、ポケットの小銭を合わせて数えて、買った冷たい缶コーヒーをふたりで分け合ったりもする。缶コーヒーを分け合いたくて、近頃花京院は、わざと足らない小銭しかポケットに入れて来ない。それに気づいているのかどうか、これもいつも少ししか小銭を持って来ない承太郎に、きちんと訊いたことはない。
 今夜もコーヒーを一緒に買って、交互に飲みながら歩いた。
 人の気配を避けて、いつもと違う道を曲がり、思ったよりも遠くへ来たのか、灰色のコンクリート塀に囲まれた、薄暗い建物にぶつかる。
 「学校だ。」
 承太郎が、コーヒーから口を離して言った。
 「学校?」
 緑の多いグラウンド、3階建ての校舎、照明のない道に、学校は威圧感ある姿を浮かび上がらせて、花京院は一瞬気味悪さに足を止める。
 「おれが行った小学校だ。」
 承太郎がまた言う。声音に、明らかに懐かしそうな響きがあった。
 へえ、と、校舎を眺めて、道路を挟んで向かいに、同じような色合いの建物がある。けれどそちらは鉄筋ではなく、ただのプレハブに見えた。金網に覆われたそこには、いっそう薄暗い水面を晒す、小さなプール。
 「へえ、プールだ。」
 今度は声に出して言った。
 小学校の、と思うせいか、何もかもが小振りに見える。プレハブは、恐らく更衣室なのだろう。そこから出てプールへ進む方向へ、いくつか並んだ簡素なシャワーと、花京院にも覚えのある、目を洗うための蛇口がずらりと並んだ手洗い場。そうして、ゆっくり歩きながら近づくと、さらに手前に、もうひとつプールがあるのが見えた。
 「随分と設備の整った学校なんだな。」
 「生徒の数がけっこう多かったからな。」
 右側を過ぎてゆく塀は、確かに延々と長い。表側から見える巨大なグラウンドの他に、小さなグラウンドもあるようだった。この規模だと、きちんとした野球部くらいあるのかもしれないと、花京院は、ここに通ったと言う小学生の承太郎の、ランドセル姿を思い浮かべようとする。
 承太郎は、花京院から手を離して、少し早足になった。
 きれいに掃かれて、ゴミひとつ見当たらない塀の周辺と、そしてプールの金網も、ところどころ錆びてはいても、プール自体は手入れが行き届いている。今は水の痕もなく、静けさが掌につかめそうなほど、しんとしていた。
 からころと、下駄の音を響かせて、承太郎はプールの金網の方へ小走りに近寄って行った。
 「おい承太郎。」
 低くした声で呼び止めながら、花京院もその後を追う。
 恐らく、大人の侵入者など想定してはいないだろう、意外と華奢で背の低い金網を、承太郎はするすると登り始めた。
 「おい承太郎!」
 今度は少し声を高くして、けれど承太郎は花京院の声になど頓着もせず、そのままとんと、金網の向こうへ入ってしまった。脱いだ下駄だけが、金網のこちら側に残っている。
 花京院は、金網に顔をつけそうにして、承太郎の体重に負けなかった金網を掌で思わず撫でながら、中へ入ってプールを見ている承太郎を呼んだ。
 「おい承太郎。」
 「てめーも来い。水のそばのせいかけっこう涼しいぜ。」
 飲みかけのコーヒーの缶と、承太郎の下駄と、花京院は両方を交互に見てから、やれやれとため息をついて、それから覚悟を決めた。
 何かあれば、承太郎が時を止めて、きっと捕まらずに逃げられるだろう。
 金網の華奢さを気にしながら、心の中で自分の体重──それから承太郎の体重──を詫びながら、コーヒーの缶は唇で挟んで、承太郎の下駄はハイエロファントに任せて、花京院は思ったよりも背の低い金網を、軽々と越えた。
 コンクリートの敷かれたプールサイドは、確かに道路よりも涼しい気がした。薄暗くても、水が澄んでいるのはわかる。少しきつい、塩素の匂い。懐かしい、と花京院は思う。
 「泳ぐか?」
 冗談めかして、けれどもう素足の爪先をプールの縁に近づけて、承太郎が訊く。笑って、花京院は首を振った。
 「裸で泳ぐのはごめんだ。」
 「服のままでもいいじゃねえか。」
 「濡れて家に帰るのはまずい。」
 「歩く間に乾く。」
 承太郎は、爪先だけ水に差し入れて、そんな問答を花京院と繰り返して、けれどさすがに本気ではなかったのか、そのままおとなしく花京院のそばへ戻って来る。花京院から受け取ったコーヒーをひと口飲んで、懐かしげにプールを眺めた。
 承太郎の横顔を見つめて、花京院は、自分の知らない承太郎を想像しようと、少しの間必死になった。ここへいたのだと言う、まだ幼い承太郎。手も足も華奢で、まだ筋肉のかけらもない、正しく少年の承太郎。もしろん、花京院の想像はうまく像を結ばず、そのまま、今と変わらない17歳の承太郎を思い浮かべるのが精一杯だ。
 コーヒーが、承太郎から戻って来る。どうしてか、それを飲むのにためらいを覚えて、花京院は缶を手に持っただけで、そこへ突っ立っている。
 承太郎が、金網を背にしている花京院に、半歩近づいた。
 「・・・誰か来るか?」
 こちらに顔を落して、承太郎がずっと声を低めて訊く。
 「いや・・・。」
 首を振った途端、唇に、承太郎が触れて来た。
 こちらへ寄って来た承太郎の体の重みに押されて、花京院の背中に金網が当たった。音を立てないかとひやりとしながら、けれど奇妙な大胆さで、承太郎の背中に片腕だけ回した。
 街灯もない、人気もない、夜の小学校のプール。小学生だった承太郎が、今も声を立てて走り回っているような気がした。
 触れるだけの口づけは、まだそれ以上はどこへも行かず、ただ互いの体に回した腕の位置だけは、もう迷いがない。
 承太郎のうなじに、花京院は掌を乗せた。
 僕が飛び込みたいのは、プールじゃなくて。
 重なった唇の間で、言葉にはせず、花京院はつぶやく。
 蒸し暑い──それでも昼間よりはましだ──夜に、ふたりで肩を並べて町を歩くのは、まだ昼間、堂々と一緒に歩く気にはなれないからだ。それを淋しいと感じても、互いへの気持ちにブレーキがかかるはずもないふたりの稚さだ。
 夜だけ、と思うと、別の気持ちも湧く。癪だと、必死に塵に返した吸血鬼のことを思い出して、花京院は、思わず承太郎を強く抱き寄せた。
 君だ。僕が飛び込みたいのは、君の中だ。もっともっと深く。もっと。もっと。
 それ以上は深くならない口づけを、それでも夜の深さに励まされて必死に貪る。それしかできることのないふたりだった。
 プールの水面に月が映る。あるともしれない風に揺れて立つ小さな波が、コンクリートの壁を叩いて、時々小さな咳のような音を立てる。
 花京院の手の中で、缶コーヒーが揺れて、それが合図のように、ふたりの唇が離れた。それでも、回した腕はゆるめずに、誰もいないプールの片隅で、朝日を避けるように、ふたりは抱き合ったままでいる。

☆ 絵チャにて即興。
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