犬も喰わない



 恋人同士が長く付き合っていれば、かならず子どものことが話題になる。
 普通に結婚できる間柄ならなおさらだし、結婚できない間柄でも、一度は話し合う羽目になることだ。
 承太郎がそのことを言い出したのは、もう何度目だったのか。花京院は、相変わらず相手にもせずに、いやだよと素っ気ない返事を返しただけだった。
 「欲しければ君が勝手に作ればいいじゃないか。」
 キッチンテーブルに新聞を広げて、トピックごとに分かれている紙面の、社会面に見入ったまま、花京院は顔さえ上げない。
 土曜の朝の話題にしては、少しばかり重いのは、大方承太郎と同じような研究をしている誰かが、サメかクジラの親子連れの研究写真か何かを、承太郎のところへ送ってよこしたからだろう。
 動物の子どもならともかく、人間の子どもを、そうそう気軽に生みたいだの欲しいだの、花京院には気が知れない。
 「僕は、自分の遺伝子を残すことにはまったく興味がないって、何度も言ってるだろう。」
 同性同士でも、養子や体外受精や卵子の提供で、子どもを持つことはそう難しいことではなくなったここ数年、学生時代には夢を語っていたに過ぎないことが奇妙に現実味を帯びてしまい、ことにふたりは、妊娠出産の当事者になる必要がないために、年齢のことを気にせずに子どもを持つ話をし続けられる。
 承太郎が、いれたばかりのコーヒーを、花京院のそばへ運んできた。
 「おれだけの子どもじゃ、意味がねえだろう。」
 「どこの誰のともわからない卵子を使うのだって、僕らに意味があるとは思えないな。」
 受け取ったコーヒーを一口すすって、うまいと、花京院はほんの少しだけ、横に広い唇の端を持ち上げて見せた。
 今日はおとなしく引き下がる気分ではないのか、承太郎は取りつく島もない花京院のそばに立ったまま、自分のコーヒーを飲んでいる。
 新聞の紙面は、相変わらず金と戦争の話で埋め尽くされている。あるいは、もう少し下世話に、殺人や強盗や、あるいは誰かの、突然の死や穏やかな最期や、細々とした文字は、そんなものの羅列だ。
 花京院は、変わり映えのしないそれらに、それでも丁寧に目を通しながら、ぱさりとページをめくった。
 「君の遺伝子には興味があるよ。でもそこに、他の誰かが混ざるなんて、僕はごめんだ。」
 休日などない研究者に、週末は関係ない。今日も大学へ出掛けてゆく承太郎は、もうすっかり着替えてしまっていて、シャワーを浴びたばかりだと言うのに、帽子から覗く髪が、濡れている様子さえない。
 花京院は、まだパジャマに、寝乱れた髪のままだ。
 「それとも、イルカの卵子が人間の生殖に使えるかどうか、研究でもしてみるかい。」
 承太郎と、承太郎の興味の対象をバカにするつもりはなかったけれど、そのくらい言わなければ、今日は引き下がってくれなさそうだと、花京院はちょっと唇をとがらせた。
 また別々に過ごす週末に、小さな言い争いは、できれば避けたかった。その話題に触れることすら興味がないのだという花京院の気持ちは、子どもの欲しいらしい承太郎には、理解は出来ても完全に受け入れられはしないらしい。
 もっとも、花京院にすれば、承太郎が子どもを欲しがるのは、未知のものに対する生物学者らしい好奇心と、子どもがいて一人前という、古臭い男性観に汚染されているせいだとしか思えないから、何をどう言われようと、賛成する気はまったくない。もちろん、承太郎が、花京院の子どもを欲しがってもいるのだという事実も、否めないにせよ。
 「・・・研究するだけで百年かかるぜ・・・。」
 どうやら、一瞬にせよ、真面目に考えそうになった気配が声ににじんでいて、花京院は慌てて、まだ熱いコーヒーを飲み干した。
 「おかわり。」
 承太郎は、差し出されたマグを黙って受け取って、カウンターの方へくるりと向き直った。
 それで話を打ち切ったつもりで、花京院は熱心に新聞を読んでいるふりをする。経済面に並んだ数字を、意味も取らずに斜め読みしていると、また承太郎が、コーヒーを満たしたマグを、新聞の端の方へ置いた。
 「ありがとう。」
 承太郎の方は見ない。多分あと数分で、手にしているコーヒーを飲み終わって、行ってくると言って、承太郎は出て行くだろう。戻って来た時には、こんな会話はなかったことになっている。いつものことだ。
 新聞の上に身を乗り出して、花京院は、その数分を耐えることにした。
 「この間、イルカのことで、妙な記事を見つけた。」
 時間は大丈夫なのかと、言いたいのを飲み込んで、新聞から半分だけ顔を上げる。続きを促すように肩をすくめると、承太郎の口元が、うっすらとほころんだのが見えて、花京院は、何だとうっかり興味をそそられた。
 「イルカとのセックスの仕方が、懇切丁寧に説明してあった。」
 え、と、唇を近づけかけていたコーヒーのマグからまた顔を遠ざけて、花京院は承太郎の方を、今度こそまっすぐに見た。
 「イルカとって・・・まさか人間と、イルカと・・・?」
 マグの陰に口元を隠して、承太郎の目元が笑っているのが、帽子のつばの下に見える。冗談で笑っているわけではないのは、長年の付き合いでわかる。
 ああ、とうなずいた承太郎につられて、けれど笑うことはせずに、花京院は驚きだけを目元に刷いた。
 「すごいな、人間の飽くなき探究心ってやつは。僕は人間相手だけで手一杯だ。」
 したいかしたくないかはともかく、読み物として面白そうだと、承太郎が見つけたという記事の内容を想像しながら、それを初めて読んだ時の承太郎の反応は一体どんなものだったのかと、案外顔色ひとつ変えなかったのではないかと、ずいぶんと長い間イルカに魅せられている、濃い深緑の瞳の、長い恋人の表情を、花京院は盗み見ようとした。
 「君は、イルカと寝てみたいと思うかい。」
 少しばかりの意趣返しのつもりと、そして純粋な好奇心で、花京院は承太郎に言葉を投げる。
 照れと笑いに少し持ち上がっていた唇の端が、そこで止まって、そして、いつもの仏頂面へ戻りかける。怒っているわけではない。本音をきちんと吐こうとする時に、承太郎はことさら無表情になるのだと、花京院は知っている。
 2拍置いて、承太郎が、やっと応えた。
 「・・・おれは、てめーで手一杯だ。」
 マグをテーブルに置いて、花京院はテーブルから立ち上がった。
 「偶然だな、僕も、君だけで手一杯だよ。」
 裸足の爪先を滑らせて、承太郎の目の前へ体を進める。承太郎の、重くて硬いブーツの爪先を軽く蹴るように、手も胸も合わせずに、唇だけ突き出して、あごを伸ばして背伸びをする。触れるだけの口付けは、出掛ける前の挨拶だ。
 花京院は、いつもより少しだけ長く、承太郎の唇にとどまって、それから、笑顔を浮かべた口元で、そこからゆっくりと離れた。
 「・・・今日は、どうする・・・?」
 承太郎が、花京院を下目に見て、訊いた。
 「ベッドに戻って本を読むよ。それから、自分の発情のメカニズムについて、君が帰ってくるまで、ゆっくり考える。」
 花京院の唇の上に、花がゆっくりと開くような、ほのかな微笑が、色を塗り重ねるように浮かぶ。それに、承太郎がうっかり見惚れている間に、
 「僕の発情期が、君がいる時にしか起こらない理由の研究発表がきちんとできるくらいに、いろいろ考えてみるよ。」
 いたずらっぽくつけ加えて、承太郎が照れて視線をそらすのを、花京院はひとりで面白がっている。
 帽子のつばに手をやって、行ってくると、承太郎が、慌てたように肩を回して、ようやくキッチンを出て行った。
 「今日は、なるべく早く帰る。」
 顔半分だけで振り返って、そう言い残して、ブーツが床を蹴る音が、玄関まで淀みもしない。
 ドアが開いて、閉まる。車のエンジンが遠ざかる。花京院は、ふたり分のマグをシンクに運んで、それから、ようやく息を吐き出した。
 これでしばらく、子どもの話は出ないだろう。今度もうまく回避したと、花京院は、ひとりでガッツポーズをする。
 午後まで自堕落に過ごそうと、心はもう、読みかけの長編小説に飛んでいる。
 それから、承太郎が、イルカの子どもを抱いているところを一瞬だけ想像して、やっぱりイルカに焼きもちを焼く自分に安心してから、花京院もキッチンを後にした。


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