片眸



 小さなCDの歌詞カードを、ステレオから流れる音を追いながら、目を細めて読んでいる。
 その花京院の肩にあごを乗せるように、隣りに寄り添って、承太郎も、その歌詞カードの小さな字を、花京院と一緒に追っている。
 「ラブソングばっかりだな。歌詞は気にしない方が良さそうなアルバムだな。」
 半分皮肉でそう言うと、承太郎が笑ったので、花京院も安心して笑みを浮かべた。
 これも、音を聞きながら、承太郎があれこれ説明してくれるので、一体どういうバンドで、誰がメンバーなのか、アルバムを聞き終えた時にはすべて忘れているとは言え、一瞬だけは、まるでファンのような知識を得ることができる。
 出会う女を片っ端から口説いているような歌詞の内容はともかくも、声も音も良かった。どちらかと言えば華やかな、けれど浮つきのない、10年経っても古臭くはならないだろう、そんな音だ。
 素直に気に入って、だからこんなに熱心に歌詞カードを読んでいる。
 その花京院に、承太郎が小さく声を掛けた。
 「目をやるって言った話、憶えてるか。」
 肩の上、耳の傍で承太郎がそう訊いたのに、花京院はわざと振り向かなかった。
 音に聞き入って、まだ熱心に歌詞を読んでいる振りで、あれから、実は何度もそのことを思い出していたのだと承太郎に悟られないように、花京院は努めて表情を消した。
 たった今、あれ以来初めてそのことを思い出さされたと、そんな嘘が通用するかどうかはともかく、今ようやく思い当たったという表情を作って、花京院は、まだ承太郎の方は見ずに薄く微笑む。
 「僕が、目を怪我してた時だったかな、あれは。」
 あまり興味はないという声音を、うまく作れたような気がした。
 承太郎のあごが、いっそう強く肩に押しつけられる。
 ちゃんと思い出せと、そのあごの硬さが言っている。ちょっと肩を揺すって、さあねという気のない素振りを見せながら、花京院は、思わず両の目の上に走る薄い傷跡に、そっと指先を伸ばしていた。
 思い出せないはずがない。忘れたことなど、なかったのだから。
 花京院の心の内が読めない承太郎ではなかった。けれど、それが優しさの表現なのか、それともほんとうに、花京院が忘れてしまっていると思っているのか、承太郎が、小さな声で言葉を区切る。そうして、あの時のことを、ぼんやりとした輪郭だけの形に、描き出す。
 「夜だったな。どうせ何もねえ砂漠の夜だ、何にも見えやしねえ。見るものもねえ。憶えてるか。」
 思い出すことは、そう難しくはなかった。けれど目の前にその情景を描き出すのは、少しばかり骨が折れる。夜の闇と、砂と岩ばかりだった---はず---周囲の景色だけのせいではなく、花京院は目には包帯が巻かれて、たとえ猥雑な昼間の町でだって、何も見えはしなかった。
 憶えているのは、承太郎の声と、掌の湿りだけだ。
 「僕が失明する羽目になったら、君の目を片方くれるって、言ったな承太郎。」
 やや揶揄を含んでそう言った花京院の口調は、あの時の承太郎の声音の、まるきり反対だ。それに気がつくだろうかと思いながら、花京院は、大したことではないに、心にもとめてはいなかったという素振りで、また薄く微笑んだ。
 もう外は薄暗く、ふたりのいる承太郎の部屋の中は、とても明るくて、そしてステレオからは、暗い気分にはなりようのない、爽やかなロックが流れている。
 雨風や、夜露の心配のない、ここは日本の、空条家だ。後1時間もすれば、花京院は自分の家へ帰る、家族の待つ、自分の家へ帰る。
 承太郎のあごが、ようやく肩から浮いた。その代わりに、そこに腕が回って、引き寄せられると同時に、こめかみの近く、目尻の辺りに承太郎の唇が触れた。
 あの時は、もっと目に近く、傷には触れないように気をつけながら、包帯の上に押しつけられた承太郎の唇だった。
 花京院は、目を閉じた。
 おれの目をやる。承太郎は、確かにそう言った。低い声で、けれどきっぱりと、本気なのだと、世界中を説得させられそうな声だった。
 これと言って見るものもない、月と星の明るさだけが頼りの、砂漠の夜だった。花京院は視力を奪われていて、一体承太郎がどんな顔でそんなことを言っているのか、見極めることはできなかった。
 だから、代わりに、触れた。
 承太郎の唇と、鼻と、頬と、目と、額と、髪の生え際と、それから、くれると確かに言った眼球の形を確かめるように、まぶたの柔らかくて薄い皮膚を、指先でなぞった。
 濃い、深緑の瞳だ。東洋と西洋の血の交じり合った、その瞳の色だけではなく、承太郎と花京院は、様々に違う。けれど、差異よりも近さばかりを数えていたのは、あれはもう、互いに魅かれていたからに違いないのだ。
 見えなくても、触れなくても、ちゃんと思い描ける承太郎の顔に触れて、そうして花京院は初めて、もう二度と承太郎を見ることはかなわないのかもしれないと、思った。
 目を傷つけられ、視界を奪われたのは一時的なことだと思って、けれど、失明するかもしれないという不安は拭い切れず、自覚すらなかったそれに先に気がついていたのは、花京院本人よりも、承太郎の方だったのか。
 僕に目をくれたら、君が困るじゃないか。
 不意に明らかになった不安に、歪む口元を笑いにごまかして、軽くそう言ってみた。
 包帯に押し当てられていた承太郎の唇が離れて、息が、唇の近くにかかった。
 両方はやらねえ。片方だけだ。おれの片目だけ、てめーにくれてやる。
 包帯の下で、傷に痛む両目を、花京院は見開いた。ように思った。
 なぜ片方だけかと、冗談せよ、訊くことはできずに、唇だけが、その問いを形にして、わずかに動いていた。
 汗は、吹き出すはしから蒸発してゆく。皮膚の上に白っぽく、体から出た塩の跡を残して、そんな熱気の中、それでも互いに触れていたかった。
 見えないからというのが、花京院の主な理由で、心配だからというのが、承太郎の主な理由で、けれど、それが言い訳でしかないことは、互いの指先でわかり合っていた。
 見えないことは、とても不安だ。ハイエロファントグリーンを辺りに這わせて、近づくものの気配を感じることはできる。けれどその姿の見極められないことのもどかしさに、花京院は、全身で焦れていた。
 触れて、あるいは匂いで、または立てる音で、それが誰かと、何かと、きちんとわかるまでに掛かる時間の分、自分が一行の足手まといなのだと、自己嫌悪は深まるばかりだ。
 もう少し大きな町に着けば、医者にこの傷を見せることができる。そうすれば、失明するかどうかも、はっきりわかるだろう。
 承太郎の肩に頬を乗せて、花京院は、見えない目を閉じた。視線を向けたところで、どの辺りを見ているかわからないから、もう無駄なことはせずに、正面を向いていた。
 君の瞳(め)の色は、僕には似合わない。
 普通よりもやや色の薄い、白い部分が神経質に紫がかった、自分の目のことを思い出しながら、花京院はそう言った。承太郎の瞳を思い浮かべながら、それを自分の顔の中に当てはめて、ひと房だけ長い前髪の奥に隠れるなら、なおさら濃い深緑は自分には似合わないと、花京院はひとり苦笑をこぼす。
 片目だけで見る世界は、どんなふうだろうか。承太郎の目を通して見る世界は、何かが違ってみえるだろうか。少なくとも、視力を完全に失ってしまうことはない。見ることはできる。それでも、それは、自分が見たいと思っている世界とは少し違うのだろうと、花京院はそう思った。
 それに、承太郎と目を分け合ってしまったら、承太郎の目で、世界を眺めることになる。もう、自分の目で、世界を見ることをないのだと思うと、不意にひどく深い淋しさが湧いた。
 承太郎のいる世界だ。それを、できるなら、自分の目で見続けたいと、花京院は心の底から願った。
 見るということと、見えるということは、別のものだ。同じではないのだと、こうなって初めてわかる。花京院は、何気ない仕草で、目に巻かれた包帯に触れた。砂を浴びてざらつくその下で、傷ついた目が、まだ開かれずに待っている。永遠に開かれることはないかもしれない自分の目を、何かとても貴重なもののように感じていた。
 ステレオから流れていた音が止まった。
 最後まで読み終わった歌詞カードを元通りに閉じると、承太郎の指先が伸びてきて、花京院の手からそれを取り上げる。
 うっすらを傷は残っているけれど、きちんとふたつ揃った目で、花京院は承太郎をやや後ろ向きに見上げた。
 字が読めるのも、目が見えるおかげだと、思いながら、近づく承太郎の唇を待っている。その唇が、自分のために、何か読みたいと思うものを声に出して読み上げてくれるというのも、悪いことではなかったろう。それでも、自分のこの目で見たものを、描きたいとか表現したいとか、そんなささやかな願いが、微風のように胸の内を吹き過ぎてゆく。
 自分の目で、承太郎を見ていたかった。
 花京院は微笑んで、心の底からの微笑みを浮かべて、承太郎の唇を受け止めた。
 薄く切られた跡の残るまぶたが閉じられる直前まで、承太郎は、そこに映る自分の小さな姿を見つめていた。それが、花京院の見ている自分の姿なのだと思いながら、自分の瞳に映る花京院の姿が、花京院の瞳の中に映り込んではいないかと目を凝らして、2拍遅れて目を閉じた。
 目を分け合うことを思いついたのは、花京院のためだけではなかった。
 絵を描くのが好きだとあの旅の間に聞いて、それでは、目が見えなくては困るだろうと、最初に思ったのが、単なる言い訳だと気がついたのは、目をやると言ってしまってからだ。
 花京院が、もう二度と自分を見ることができなくなると、そう思っただけで、自分の目をその場でえぐり出したくなったからだ。
 視神経を繋いで、いずれ承太郎の目は、花京院の目になる。片方だけでも、見えないよりはましだろう。その目で、世界を見続ければいい。描きたい絵を、描き続ければいい。ずっと、おれを、見ていればいい。そう思った。
 承太郎も、残された片方の目で、花京院を見つめ続ける。花京院の眼窩におさまっているのは、あれは自分の目だったのだと、繋ぎ合わされて、花京院の血肉に同化してしまった、あれは元は自分のものだったのだと、そう思いながら、片目だけで、片目の花京院を見つめ続ける。同じ色の瞳、見覚えのある、元はひと揃いだった瞳が、けれど花京院の顔の中におさまって、それは奇妙な眺めだろうか。
 自分の目で、花京院が自分を見ている。自分と、そこから広がる世界を見ている。そうして、承太郎は花京院と繋がっていると、ずっと肌身に感じ続けることができる。
 見ること、見つめ合うこと、その両方を、承太郎は失いたくなかった。だから、片目をやると、そう言った。
 その必要がなくなったことに、単純に安堵したそのすぐ後で、自分の秘かな希(ねが)いがかなわなかったことを、承太郎はほんの少し、残念に思った。口にはせずに、けれどきっと、表情に現れてしまっていただろう。けれどその時まだ、花京院の視力は戻ってはいなかったから、承太郎は思う存分、失望の視線を、5分間だけ花京院に浴びせた。
 花京院のあの目が、自分を見つめている。承太郎は、その目が見えていることを確かめるように、まつ毛の辺りに指先を揃えてかざした。
 少し角度を変えて唇を重ねて、そうして真正面から互いを抱いて、背中に腕を回す。制服の上を、ふたりの指がそれぞれに滑る。
 背骨の辺りを探る花京院の、長い指の形を、承太郎は思い浮かべていた。
 目が見えても、見えないものはある。
 ゆっくりと瞬きを繰り返す花京院のまぶたに、ゆるく唇を押し当てて、そこに走る傷跡を舌先でなぞる。濡れた舌の動きに合わせたように、薄い皮膚を隔てて、花京院の眼球が、何か言いたげに慄えていた。それは間違いなく花京院の目だと、そう思いながら、弾力のあるその丸みに、承太郎はまるで食むように舌を滑らせていた。


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