果実の味

 用心にと這わせていたハイエロファント・グリーンが、承太郎が来る、と思念を送って来る。戻っておいで、と手元に引き戻した20秒後に、ドアの外で気配がした。
 「おれだ、入るぜ。」
 今は奇妙に耳に懐かしく響く日本語。どうぞ、と言い終わる前にドアが開く音がして、歩幅の大きい足音が、4歩に足らずに傍にやって来る、気配。
 花京院は包帯の巻かれた顔を上げて、承太郎のいるだろう方へ視線を向けた。
 「見えるのか?」
 声が聞く。思ったよりも高い位置から声が降って来るのは、自分がベッドに坐っていて、承太郎はすぐ傍に立っているせいだ。花京院は首の角度を変えて、もっと上を見た。
 「無理だ。傷が塞がるまで、目に負担を掛けないようにって言われてる。」
 ふん、と承太郎が、どこかを見た気配があった。部屋の中を珍しそうに見渡しているのかもと思って、花京院は、どこともなしに承太郎の位置から視線を外し、窓があるはずの方へ首を回す。
 「ジジイたちも後から来る。」
 「そうか。」
 君は、ひとりで先に来たのか、どうしてと、なぜか訊けない。シーツに置いた手元にうつむいて、花京院は承太郎が何が言うのを待った。
 がさがさと、紙がこすれる音がする。どさりと何か重いものを置いた音。それから、指先でまず探るように、承太郎の手が触れて来た。
 「オレンジだ。食うか。」
 上向けにされ、開かされた手に乗る、ひやりと冷たい果実の感触。大きくて重い。口の中に、あっと言う間に酸味が広がる。思わず、口元がゆるんだ。
 「ナイフがいるんじゃないのか。」
 両手に持ち上げて、果肉の厚さをまるで測るように、両手の間に挟みながら花京院は訊いた。
 「かもな。」
 椅子に腰を下ろしたのか、金属が触れる音がする。花京院の手からオレンジが取り去られ、そうして、ふっと部屋の空気が膨れて揺れた。スタンドが出現する時の、独特の空気の流れだ。スタンドそれぞれで、見えるなら空気の色も変わる。今は膨れた空気が自分の頬を撫でて行ったのに目を細めて、これも自分だけに感じられて、たとえばハイエロファントが出て来る時に、承太郎も同じ雰囲気を感じ取るのだろうかと、花京院は考えている。
 「目は、痛むか。」
 今度は、ちょうど胸の辺りへ向かって声がやって来る。またそちらへ顔を向けて、いや、と花京院は首を振った。
 「痛みはない。ただ、見えないと動けないし、動けてもひとりで出歩くのは危険だ。」
 「ハイエロファントで見張りはできても、守りまでは無理か。」
 「・・・見えない限りは無理だな。」
 黙る。承太郎の手元で何か動いている気配がある。スタンド──スタープラチナ──の気配も相変わらずだ。スタープラチナがもしかして皮を剥いているのだろうかと、ちょっとおかしくなった。
 オレンジの匂いが、今は敏感になっている鼻先に、鋭く立つ。
 「退屈で仕方がねえな。」
 承太郎が、突然言った。
 「たいくつ?」
 聞き返して、何が退屈なのかと、続けて訊こうと思ってから、花京院は口をつぐんだ。
 花京院がここでひとりきりなのを不憫がってくれているのか、それともあるいは、承太郎自身が、花京院抜きの旅を退屈がっているのか、どちらとも取れる口調だとわかるのは、見えない目の代わりに鋭くなっている感覚のせいだけではない。自惚れなんかじゃないと、自分で確信できるのは、けれど目の怪我でここにひとり置かれて、心細くなっているせいではあった。
 早く、傷を治してみんなに合流したい。
 君と、とは言わず、みんなと、と心の中でわざわざ言い直した。
 廊下を走る足音。ふたりか、3人分。耳をそば立てた花京院と同時に、承太郎もドアの方へ振り向いた。
 なんだ、とつぶやくと同時に立ち上がって、様子を見に行く背中をこちらへ向ける。
 「てめーはこっから動くな。」
 動きたくても動けないのに、おかしな言い草だと、思った時にドアの開閉の音がした。
 承太郎が出て行くと、急に部屋の空気が減ったような気がして、立っていればその辺りにあるだろう承太郎の帽子に向かっているつもりで、花京院は天井に向かって首を伸ばす。そうして、上向いたあごの辺りに伸びて来る、体温のない大きな手。
 「・・・ああ、おまえはいたのか。」
 本体の承太郎は、ドアから先へは行く気はないようだ。スタープラチナが承太郎の代わりに、ベッドの傍で花京院を見下ろしている。
 唇近くに指が触れて来た時、そこからオレンジの匂いがした。
 「やっぱりおまえが皮を剥いてたのか。」
 うっかり声を立てて笑う。自分の頬に触れたその薄青い掌に顔を傾けて、本体の承太郎にはそんなことはできないのに、スタープラチナには素直に寄り添うことができる。
 スタープラチナの気配に応えて、ハイエロファントが姿を現したがっているけれど、花京院はそれをあえて抑えた。どうしてか、自分のまま、承太郎のスタンド──承太郎の一部──に触れていたかった。
 自分のために、オレンジを携えて来た承太郎と、わざわざスタンドに皮剥きをさせる承太郎と、少なくとも今ここでだけは、旅の目的を忘れられる。オレンジの匂いに酔ったように、花京院は思う。
 「おまえがいれば、承太郎は大丈夫だ。だから僕は、後から追いつくよ。」
 承太郎のそれとよく似た、スタープラチナの指の感触。承太郎のそれよりもぶ厚くて大きくて、握りしめれば驚くほど大きな拳を作る。それを味わった経験がないでもなかったけれど、恐れる必要はもうなかった。自分に、ただ優しいだけと知っているその掌に、花京院は自分の手を重ねた。
 体温がないのが、残念でもあったし、気楽でもあった。これは承太郎の手ではないから、こうやって寄り添っても平気だ。承太郎とそうすればいつも湧く、どこか心に咎めるような、そんな気分を味あわなくてすむ。
 たとえ承太郎に、この掌の感触がきちんと届いているのだとしても、花京院が今こうしているのは承太郎本人ではない。
 「・・・僕はずるいな。」
 掌に向かってつぶやいた。包帯と皮膚の境い目を、まるで応えるようにスタープラチナの親指の腹が撫でる。
 廊下で足音が聞こえた。せわしく数歩、音の重みと歩幅で、承太郎とわかる。スタープラチナのいる方を見上げて、その手を遠ざけながら、花京院は小さく言った。
 「承太郎を護ってくれ。お願いだ。」
 僕のために。僕の代わりに。言わなかった言葉まで受け取ったのかどうか、目の見えず、スタンドでもない花京院にはわからない。
 足音が止まって、オレンジの匂いを散らすように、ドアが大きく開いた。スタープラチナから視線を外して、花京院はこちらへ戻って来る承太郎の気配へ、見えない視線を向けた。

☆ 絵チャにて即興。
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