痛み


 夕べ、休まずに降った雪が、踏み込めば沈むほどに積もっていた。
 玄関の戸を開けてから、自分の足元を見下ろし、もう少し水気の気にならない運動靴に履き替えるために、承太郎はもう一度家の中へ戻った。
 滅多と覗くことのない下駄箱の中を、腰を折って覗き込み、薄暗いそこへ腕を差し入れる途中で、うっかり半端に開けた戸に、がたんと指をぶつける。思わず、声が出る。
 ちっと舌を打ってから、目当ての靴をようやく取り出し、すっかり爪先の形に馴染んでしまっている革靴を、かかとをすり合わせるようにして脱ぐと、たたきに放った運動靴の方へ、乱暴に爪先を差し込む。結んだままの靴紐がきつ過ぎて、するりというわけには行かない。仕方なく、また舌打ちをして、玄関に腰を下ろした。
 背高い体を折り曲げて、手荒に紐をとく。うっすらと埃をかぶった靴紐の終わり、プラスティックのテープのようなものが巻いてあるところで、さっきいためた指先をまたこする。今度は、歯を食い縛るほど痛かった。
 やれやれだぜと、つぶやく声に、腹立ちが混じるのを止められずに、痛む指を避けて帽子のつばをつまむと、承太郎はようやく玄関を出た。
 きゅっきゅっと、澄んだ高い音が響く。雪を踏みしめるのは、そう言えばこの冬初めてだ。
 息が白い。それでもまだ前は締めないままの学生服の、硬い高い襟に、寒さを防ぐ役には立たないというのに、あごの先を埋めてみようとする。
 さっきから、指先がひどく痛んでいた。左手の、中指だ。ズボンのポケットに入れて、中では、指を握り込んで拳を作っているけれど、その指だけ、やけに熱い。
 靴を履き替えた分だけ、遅刻が確実の時間だというのに、承太郎は、ポケットの中から手を抜き出しながら、わずかに足をゆるめた。
 夕べ、風呂の後で取り替えた絆創膏に、血がにじんでいた。ぽつぽつと空いた小さな穴から、すでにあふれた血が、絆創膏の表面を、赤く染め始めている。
 ちっと、もう何度目か、また舌を打つ。完全に足を止めて、まるで皮膚でも剥ぎ取るように、しっかりと貼り付いているはずの絆創膏を剥がして、承太郎は、中指の腹を横一文字に裂いた、新しい血にまみれている傷を、乱暴に振った。
 歩道の端の、金網の根元に盛り上がっている真っ白い雪の上に、血の跡が点々と散る。鮮やかな緋と、眩しい白と、その色に、承太郎は、ごく自然に目を細めていた。
 新しい傷ではない。中指を切ったのは、もうずいぶんと前のことだ。病院へ行ったなら、確実に縫われていたほど深かったせいか、絆創膏だけでは血止めにしかならず、気をつけていないと、こうして時々傷が開く。
 たらたらと血をあふれさせている傷口を見下ろして、承太郎は、雪の方へ手をかざすように伸ばすと、雪を溶かすほど温かいくせに、雪に届く頃には凍るほど冷たくなっているのだろう緋い滴りを、数えるように視線で追った。
 美術の時間だった。仕上げさえすれば、出来は問わずに点数をくれるという、そんな3学期の課題のひとつだった。
 あまり大きくはない板に、何か絵を彫れと、控え目に生徒に告げる教師の表情を、帽子のつばの下からすくい上げて、鼻先で笑った後で、それでも何か、不意に神妙な心持ちが湧いて、珍しくさぼりもせずに、承太郎はその課題に取り組むことにした。
 描いたのは蔦だ。ノートよりも、少し大きなその板いっぱいに、承太郎は蔦を描いた。現実のそれではなくて、何か他のものに似ている気がしたけれど、まるで隠すように両腕を板の上に乗せて、奇妙な熱心さで、承太郎は蔦の絵を描いた。
 指先を切ったのは、半分以上彫り進んでからだ。授業のたびに、指先に気をつけてと、美術教師が耳にたこができるほど繰り返していたけれど、一体何に心奪われていたのか、するりと、刃先が板の上を滑り、滑った先に、左手があった。
 親指と人差し指は難を逃れ、けれど他よりも長い中指が、驚くほどのなめらかさで、その刃先を滑りを受け止めていた。
 切ったのだと、一瞬わからずに、掌を上に持ち上げた左手の中指に、顔を近づける。目の前で、つやつやとした桃色がぱっくりと口を開け、ああきれいだと、瞬間とも言えない長さの間見惚れた後で、その中から、驚くほどの勢いで血があふれて来た。
 ざわっと、周りで声が立つ。教師が、それに反応してこちらへ振り返り、承太郎の方へやって来ようと、反射的に足を前に出していた。
 それを目の端に捕らえて、低く、心配ねえと、血まみれになる手を握りしめる。その手の真下で、蔦の絵に仕上がりつつある板が、鉄の匂いのする染みを広げつつあった。
 承太郎の声にひるんでか、保健室へ行けと、それ以上は足を進めずに教師が言い、ハンカチまで差し出そうとする女生徒もいたけれど、承太郎はそれを目顔で止めて、無言のまま教室を出た。
 傷口を押さえるための右手にまで、血が滴り始めていた。ひとまず血を止めなければと、保健室へ向かう承太郎の足元を、小さな血の跡が追ってゆく。
 それきりだ。病院へは行かなかった。保健室の女医が、心底心配そうに、しつこく病院へ付き添って行くというのを丁寧に断り、絆創膏を何枚か重ねて貼って、それだけですましてしまった。
 後でよく見れば、制服の袖や裾もあちこち汚れて、けれど血の色は、制服の色に紛れて、しかとは見極められなかった。
 彫っていた絵は、血の染みを残したまま完成させ、濃い目のニスを塗って、教師には何も言わず、教師も、承太郎と作品を交互に眺めただけで、何も言わなかった。
 この手の傷は、傷を負った瞬間よりも、その後の方が長く痛むのだと、久しぶりに思い出していた。
 彫刻刃で切ったその傷は、幸い化膿もせず、けれど骨が見えたように思えたほど深かったせいか、絆創膏だけではなかなかふさがらず、何度も口を開けて血を流した。それでも承太郎は、頑固に病院へ行こうとはせず、指をかばいながら、まだたまに開くその傷に、飽きもせずに新しい絆創膏を重ねていた。
 雪を赤く溶かす自分の血を、承太郎は、路上に立ち止まったまま、じっと見つめている。心臓が打つたびに、新しい血が流れ、そして痛みが増してゆく。
 ぱっくりと開いた、信じられないほどつややかだった自分の肉の色を思い出しながら、承太郎は、指先に集まってくる痛みに、目元を歪めている。
 また手を振る。雪に血が散る。寒さにも、指先がかじかんで、痛み始める。
 こんな小さな傷が、こんなに痛むのだ。こんな小さな傷口から、こんなに血が流れるのだ。
 血まみれの指先を折って、承太郎は、血まみれの拳を作った。その拳が、かすかに震えていた。
 苦しかったか。
 拳に向かって、訊いた。答えがあるはずもなかったけれど、承太郎は、白い息を吐きながら、その問いを口にした。
 腹に大穴を開けて、あれは、どれほど苦しかったのだろう。想像を絶する痛みと、そう思いながら、その痛みが想像できずに、たとえ指先を全部切り落としたところで、あの痛みを味わうことはできないのだろうと、震える拳を手元に引き寄せようとして、やめた。
 苦しまずに逝ったのかどうか、承太郎は知らない。腹に、拳の通る穴を開けられて、人がどれほどの間生きていられるのか、知りたいとすら思わない。間に合わなかったのだ。何もかもが遅すぎたのだ。血と水に濡れて、崩れてしまった体は、何がどうと、見極めすらつかなかった。
 苦痛の声を上げられたなら、その方がよかったのだろうか。そうしたら、承太郎の耳に、その声が届いたのだろうか。
 痛みに泣き叫ぶということを、できたとしてもしたとも思えないけれど、それでも、最期の声を聞きたかったと、承太郎は、今もあきらめきれずにいる。
 流れていた血は、裾の長い制服を濡らして、かさの減ったように思えた体とは逆に、重しのように、承太郎の腕にまといついた。重くて軽い、花京院の体だった。
 どれほど呼びかけても開くことのなかった目には、白い傷跡がくっきりと走っていて、それがまるで、花京院が最期に流し損ねた涙のように見えた。
 苦しい、死にたくない、助けてくれ。口が裂けても、花京院はそんな泣き言は言わなかったろう。声も立てずに、最期のひと息を吐き出して、静けさだけを伴って、逝ってしまったに違いないのだ。それでこそ花京院だと、そう思って、そうして、承太郎は、声を立てずに泣いた。花京院の体を抱きしめて、ひとりきりで、花京院の血に濡れながら、泣いた。
 だからこそ。
 最期のひと息が、苦痛を表してはいなかったかと、生き延びたいとあがいてはいなかったかと、その証拠を探して、承太郎は、もうない花京院のなきがらを、空の腕の中に、いだき続けている。
 花京院の体は、そこから新たに流れる血はなく、今は承太郎の血に濡れて、静けさばかりを身にまとっている。
 雪が、すべての音を吸い取ってしまっていた。
 今流れる血は、承太郎の涙の代わりだ。そして、あの時花京院が流す間すらなかったのだろう、別れの涙の代わりだ。
 寒さに凍りつき始めたように、流れる血はねばりを増して、その勢いは衰えつつあった。手の甲に流れた血はすでに乾き、このまま放っておいても、じきに血は止まってしまうのだろう。
 傷はまだふさがらない。深さと同じだけの痛みを保ったまま、生々しく新しい肉を盛り上げて、けれどふさがることはなく、新たな血を流して、また痛みを呼び戻す。忘れたくはなかったから、承太郎は、この痛みを耐えていた。
 花京院のあの腹の傷は、永遠にふさがらないのだから。
 寒さにかじかんで、他の指先には感覚がないというのに、血を流す中指だけが、ひどく熱かった。
 時間を掛けて、雪の上に落ちてゆく血を、承太郎はまだ眺めている。その血が、白い雪を汚す。手当てさえされなかった花京院の、腹の大穴の縁を、赤黒く染めていた血の匂いを思い出す。吐き気の代わりに、喉の奥に突き上げてくる涙のかたまりを飲み下して、このまま血を流し続けても、死ぬことはないことを、承太郎はひどく残念に思った。思いながら、自分を笑った。


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