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鎮痛剤

 承太郎は、鎮痛剤を持ち歩いている。薬局でならどこででも買える、何の変哲もないただの痛み止めだ。錠剤の銀色のシートから切り離して、4錠──普通には2回分──を、コートのポケットの中に入れて持ち歩いている。
 承太郎は頭痛持ちでもなく、痛みのある持病もなく、医者に掛かるのは怪我の時だけで、これも高校卒業以来滅多とない。どこか人より鈍いのか、骨折の痛みも、ほとんど薬なしでやり過ごした。医者にも薬にも、承太郎自身はほとんど縁がない。
 痛みに苦労しているのは、花京院の方だ。寒暖の差、湿気、冷房、時間帯、ストレス、寝不足、悪夢、姿勢、体のねじれ、歪み、靴、服、椅子、ベッド、荷物、かばん、持ち物、持ち方、重さ、歩き方、歩く場所、歩く量、日常のありとあらゆることが痛みの悪化の原因になりうる。
 腹に空いた大穴を、無事塞げたのは確かに僥倖だった。その後の回復に、一体どれほど時間が掛かるか、医者にすら予測できなかったにせよ、花京院は少なくとも、傍目には五体満足を取り戻した。ように、誰の目にも見えた。
 鎮痛剤を使えば、少なくとも痛みは楽になる。けれど薬を使えば、その分だけ回復に時間が掛かる。あちらが立てばこちらが立たず、こちらが立てばあちらは立たない。承太郎を見習ったのかどうか、花京院はできるだけ鎮痛剤を使わないことを選び、そして医者も驚くスピードで回復した。
 体は確かに、元に戻る。見た目だけは、ごく普通の、どこにでもいそうな男子高校生の姿だ。よく見なければ、右側の肋骨の数が1本足りないこと、そのせいで右肩が少しだけ下がっていること、そんなことは分からない。花京院が気にしている──気にしていると知っているのは、承太郎だけだ──ほどは、他人は、見た目はまともな高校生に見える花京院をじろじろ眺めたりはせず、この上なく健やかであるはずの男子高校生が、大人の腕の突き通る大穴の跡を腹と背中に抱えて、傷が治った後も、無理矢理に繋ぎ合わせた皮膚と内臓と筋肉と血管と骨と神経のおかげで、爆弾を抱え込んで歩いているようなものだとは、想像もしない。
 高校が終わっても、花京院の痛みは去らない。傷は治っている。ひどい傷跡があるにせよ、承太郎がそこに指を押しつけても、皮膚が裂けることはないし、そこから血がにじみ出すこともない。よくよく目を凝らせば、内臓の動きがかすかに視線の先にとらえられたのも、最初の頃だけだった。今では、引き伸ばして繋ぎ合わせた皮膚はきちんと厚みを増し、きちんと花京院の体の穴を覆っている。ナイフか何か、そんなものでわざわざ切り裂きでもしない限り、そこから体の中を窺えるはずもない。
 治っていると、医者は言う。そう言い続けている。そして花京院は、もう医者には何も言わず、黙って残る痛みに耐えている。それは仕方のない痛みだ。痛みの原因になることを避け、薬でも飲んで、おとなしくしているしかない。
 「痛まないようになんて、できるわけないじゃないか。」
 大学入学したての頃に比べると、穏やかな口調で花京院は言う。こんな愚痴をこぼすのも、承太郎に対してだけだ。
 「痛くないんじゃない。ひどく痛むか、それほどでもないか、どちらかだけだよ。」
 承太郎も、その鬱陶しい、始まれば神経をつつき続ける痛みは知っている。体中に残る傷跡が、花京院ほどではないにせよ、痛むことがある。承太郎のそれは、花京院ほど頻繁ではなく、花京院ほどひどくもなく、年に数度、痛みが雨の予報に役立つことがあるかもしれないと言う程度だ。薬はなくても充分我慢できた。
 「近頃、雨が降るのがわかるようになったんだ。君が言ってたのはこのことだったんだな。」
 大学を卒業して、あれはSPWのために働き始めてしばらくした頃のことだった。
 「痛みがそれほどでもない時が増えて、ちゃんと、低気圧で痛む時が区別できるようになったんだ。」
 それは、ひっきりなしにあの痛みと闘って来た花京院にとっては、充分朗報だったらしかった。回復している。のろのろと、けれど間違いなく。間断なく在った痛みが、なりをひそめる時間を増やし、そして花京院は、雨の降る前に訪れる痛みに初めて気づき、今では天気予報よりも正確に、傘を持って出るべき時を言い当てる。
 そうだ、花京院は、確かに回復している。今は、どのくらいだ、70%か? それとも80%か? あるいはもっとか? もっと下なのか? 今では、腹の傷跡に触れる手に躊躇はなく、そうやって承太郎は考え続けている。100%になるのは、一体いつだろう。そして同時に、絶対に声には出さない別の問いも、頭の後ろに思い浮かべる。一体、100%になる日が、いつか来るのか?
 花京院は、充分に健やかだ。日常生活にそれほど支障はなく、様々なものを失ったにせよ、完全に健康な人間ですら、生きる過程で必ず何かを失くすのだから、失わずに逝き続けることなど不可能なのだから、花京院──や、承太郎──がことさら不幸と言うわけでもない。
 普通よりも、恐らく何倍か量の多い痛みを背負い込んだことは、単純に面倒くさい不運ではある。それでも、花京院を他と比べて特に不幸だとは、決して思わない承太郎だった。
 幸も不幸も、死んだ後に自分以外の他人が勝手に決めてくれることだ。生きていて、死ぬ予定のない若いふたりが、いちいち毎日思い煩う必要もないことだった。
 だって、そうじゃねえか、花京院。口には出さない。顔にも出さない。承太郎は、胸の内でひとり考えるだけだ。明日もこともわからねえのに、今日が幸せだの不幸だの、考えてる暇はねえ。今日をとにかく生きるだけで、おれは必死だ。なあ、そうだろう、花京院。
 人は、簡単に喪われてしまう。ほんのわずかなすれ違いや、ほんの数秒の躊躇や、どちらを選んだと言う判断や、とてもとても小さなことで、人の運命は決まってしまう。人の死は、いちいち知らされることもなく、突然起こり、突然終わり、痛みも悲しみも、感じている暇すら与えられない。だから承太郎は、目の前の一瞬を、花京院が自分の傍にいるのだと常に実感しながら過ごすだけで、ただただ精一杯だ。
 なあ、そうだろう、花京院。
 用意周到な花京院が、滅多に使わないにせよ、念のためにと痛み止めをきちんと持ち歩かないわけがなく、それでも承太郎は、万が一と思い決めて、花京院が常用しているのと同じ鎮痛剤を、常に自分の上着のポケットの中に忍ばせている。
 必要な分だけきちんと切り取られた、銀色のシートの中に包まれた白くて丸い錠剤。はさみで切り取った包みの角は意外と鋭く、ポケットに入れた手の中で握り込めば、鋭く承太郎の掌の内側を刺して来る。それは、花京院の抱えた痛みとは恐らく似ても似つかないのだろうけれど、それで承太郎は、そうせずにはいられない。
 承太郎のその手の中にあるのは、花京院が使うと同じ鎮痛剤だ。その小さな存在は、承太郎にとっては花京院そのものでもある。花京院が抱え込んだ痛みを、やわらげてくれるかもしれない、小さな薬の粒。それはもう、承太郎の中で、花京院と分かちがたく結びついてしまっている。承太郎が掌の中に包み込んでいるのは、花京院自身だった。
 花京院のために在るそれ。それを持ち歩く承太郎。花京院は、間違いなく承太郎の傍にいる。
 痛みを感じるのは、生きているからだ。薬が必要なのは、生きているからだ。花京院が承太郎の傍で、間違いなく生き続けているからだ。
 腕の輪の中に、花京院を閉じ込める。腹の傷跡を圧迫しないように、今でも無意識に気をつけてしまう承太郎のその手を、花京院がそっと取り、自分の腹にあてがう。承太郎の掌が、花京院の腹に重なる。伝わる体温と、血の流れる音と、内臓の動き。
 まぶたが触れそうに近づいて目を凝らせば、ごく細かな波打ちの見分けられる、継ぎ合わされた皮膚。つるりと光って、他よりも薄く、血の色のわずかに強い、不自然に引き伸ばされた皮膚。そこに剥き出しの自分の皮膚を重ねて、汗と熱で一緒に溶けながら、溶けた自分の皮膚が、汗が移るように、花京院のそこへ移らないかと、承太郎は思う。
 皮膚を溶け移して、そうして代わりに、花京院の痛みが自分の皮膚へ移って来ないかと、承太郎はふと考える。
 承太郎の掌のぬくもりで、まるで痛みがやわらぐのだとでも言うように、花京院は承太郎の手を取り、そしてゆっくりと息を吐く。痛みを耐える表情で、時々唇を噛み、その表情が、まったく別の時とまったく同じなのが、承太郎を不謹慎な気持ちにする。
 痛みを感じながら、痛みに耐え、花京院はそっと息をする。生きてる花京院が、承太郎の腕の中にいる。自分の不埒をそっと押し隠して、承太郎はただそっと花京院を抱く。掌のあたたかさが、花京院にとっては痛み止めの代わりだと知っているから、同じ掌で握り込んだ鎮痛剤の包みが、自分の皮膚を突き刺す痛みを思い出しながら、承太郎は花京院の呼吸の数を数えてそっと目を閉じる。
 承太郎は、花京院の鎮痛剤だ。花京院の痛みをやわらげ、穏やかに眠らせる。痛みのせいの悪夢を見ないように、承太郎は、花京院を抱いて眠る。
 そうして、花京院は、承太郎の心の痛みを吸い取っている。承太郎が、穏やかに眠るために、自分の穏やかな寝顔がそれを助けているのだとは知らないまま、花京院は承太郎の心の痛みをやわらげながら、穏やかに眠る。
 互いがこうして生き続ける理由になったのがいつのことが、もうふたりにはしかとも記憶もない。
 見た夢のことは思い出せないまま目が覚めて、少なくとも、それが悪夢ではなかった証拠の爽やかな目覚めに感謝しながら、花京院が、まだ名残惜しげに自分の腰辺りに腕を巻きつけている承太郎に振り返って、健やかに微笑む。
 「今日はあたたかそうだ、承太郎。」
 そうか、と口の中で、もごもごと承太郎が返事を投げる。顔を洗いに、勢い良く立ち上がって、花京院が洗面所へ向かって姿を消した。水音が聞こえ始めてから、やっとベッドの中から這い出て、承太郎はくしゃくしゃの後ろ髪を自分で撫でた。カーテンの向こうに見える陽射しは、花京院がそう言った通り、晴天の様を見せている。
 今日も承太郎は、上着のポケットに花京院用の鎮痛剤を忍ばせて出掛けるのだ。

おきむくさま/「雨の日」(2012/11/29記事)宛。
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