Picky



 とても良い天気で、けれどベランダの戸を開ければ、刺すほど冷たい空気が、部屋の中から見えるようだった。
 雲ひとつない空は、色さえもっと濃ければ、夏の空に見えないこともなく、けれど沈んだ街の色合いと、すっかり葉の落ちてしまった街路樹が、今が冬の真っ最中であることを、いやになるほど思い知らせてくれる。
 冬はあまり好きではない。四季のどれが嫌いということはなかったけれど、ただでさえ出不精なのに、寒いのを口実に閉じこもってしまえる冬は、少々不健康だ。
 これで雪でも降れば、どこか広い駐車場にでも出掛けて、承太郎と年に似合わないはしゃいだ声で、雪合戦でもできるのにと、思うだけなら簡単なことだ。
 花京院は、ベランダのガラス戸から見える明るさに魅かれて、背中を丸めて遊んでいたゲームを一時停止させると、コントローラーをそこに置いて、ベランダの方へ寄った。
 「いい天気だなあ。」
 そんなつもりはなかったけれど、少しばかり声が大きくなって、キッチンのテーブルで、辞書や教科書やコピーした資料の山に埋もれている承太郎に聞かせるつもりのように、澄み切った空の色とは裏腹な、少しばかりいら立ちの見える承太郎の目元の翳を、うっかり振り返って視界に入れてしまってから、花京院は少し肩をすくめた。
 同じ大学でも、学年も学部も違えば、与えられる課題の量も違い、案外と生真面目な承太郎は、こうしていつも、字数さえ一定量満たせばきちんと点数のもらえるレポートにも、花京院には無駄としか思えない全力を尽くす。
 その努力の具合は、きっと承太郎が将来やりたいことに、何か関っているのだろうと思うから、口を出すことはせずに、承太郎の要領の悪さと、自分の小賢しい小器用さ---こんなことに、だけ---と、どちらが人としては必要なものなのだろうかと、自分を恥じることはせずに、少しばかり考えてみる。
 僕らは、スタンド使いって以外は、全然似てないのになあ。
 ベランダの外を眺めながら、うつむいて、手元に視線を据えたままの承太郎をちらりと振り返ってから、花京院はまた、澄んだ淡い青い空を見上げた。
 なぜ一緒にいるのだろうかと、考え込むことが、ないでもない。他の誰とも話すことのできない話題が、ふたりの間に多々ある、ということはある。他の人間たちには、絶対に理解されない秘密が、ふたりの間にあるということもある。けれど、そもそもなぜ魅かれ合って、こんなことになってしまったのだろうかと考え始めると、他の誰かでも良かったのではないだろうかと、思うことがある。
 自分がではなく、承太郎が、だけれど。
 スタンドと呼ばれる、精神が形を取ったその像(ビジョン)は、主の心の側面を表すということを証明するかのように、ふたりのスタンドは似ても似つかず、正反対の性質と能力だからこそ、闘いの場では補い合って役に立つと言えるけれど、ごく普通の生活の中では、違いが際立てば際立つほど、一体自分たちを結びつけている共通点は何なのだろうかと、そもそも、そんなものがスタンド以外に存在するのだろうかと、うっかり考え始めてしまう。
 違うからこそ魅かれ合うというのは、絶対に嘘だと、花京院は思う。
 でも、自分そっくりな承太郎なんて、絶対に見たくないなあ。
 自分の気持ちは、それなりに把握できても、他人の気持ちは、どこまでも推測でしかありえない。自分の気持ちが理解できるほどは、他人の心の内側まで覗き込むこともできず、所詮、どれほど共通点があろうと、どれほどわかり合おうと、どこまで行っても他人じゃないかと、投げやりに結論めいたことを、胸の内側に吐き出した。
 あの、エジプトへの旅の後も、承太郎が高校を先に卒業した後も、花京院が承太郎と同じ大学へ入学した後も、歩ける距離に新しい住所を定めた後も、承太郎は、まるで当たり前のように花京院を引き寄せ続けて、今日も、課題の締め切りが切羽詰っているなら、来るなと一言言えばいいものを、むしろ、てめーが一緒にいた方がはかどると、花京院を歓迎すらする。
 そして、花京院は、頭を抱え込んでいる承太郎を見るのは、あまり愉快ではないものの、ひとりで放っておかれても、承太郎がそばにいる限りは、退屈とすら感じないというていたらくで、僕らは一体、何をしてるんだろうと、花京院でなくても少しばかり考え込みたくなる。
 承太郎の手元をまた眺めて、承太郎が使っているペンが、自分が見つけて、承太郎に薦めたものだと気づいて、そんな小さなことでいきなり幸せだとつぶやける自分の能天気さに、苦笑を隠しながら、また外の風景を見返す。
 筆圧のやたらと高い承太郎が、それが濃い字を好むせいなのだと気づいて---承太郎自身は、そんなことなど知りもしなかった---、君の腕力でぼろぼろにされる鉛筆やノートが気の毒だと、そう言って、自分の画材用の筆箱から、B2の鉛筆を渡したのが最初だった。
 電動の鉛筆削りでは、先が尖りすぎてしまうのがいやで、わざわざカッターで手持ちの鉛筆を削っている花京院の手元を覗き込んで、物好きなヤツだなと、承太郎が言った。けれど、花京院から手渡されたB2の鉛筆の使い心地---それももちろん、削りたてだった---がよほど良かったのか、ある日B2の鉛筆を一箱、わざわざ花京院の教室まで持ってきて、4、5本削ってくれと、少しばかり憮然とした口調で言い置いて、花京院は、苦笑いでそれを受け取った。
 卒業する頃には、花京院が教えて、承太郎も器用に自分で鉛筆を削るようになっていたけれど、てめーが削った方が紙によく滑ると、忌々しげに何度も唇をとがらせていた。
 大学入学で街を離れる承太郎に、花京院は、どうせもう鉛筆なんて使わなくなるだろうけれどと前置きをして、新品の鉛筆をきれいに削ったものを一箱、これも新品のカッターを替え刃付きで、よく切れないと、ケガをするからと、荷造りの箱の転がる承太郎の部屋で、荷物の中に紛れ込ませてきた。
 それは、承太郎の律儀さだったのか、それともほんとうに、花京院の心遣いをありがたいと思っていたのか、たまに来る手紙は、たいていはノートを破り取ったページに、あの見慣れた濃い字の鉛筆文字で、削りたてだと示す、手紙の最初から最後への文字の太さの変化が、花京院にはよくわかるものばかりだった。
 1年間、自分の手で鉛筆を削った後で、自分を追いかけて同じ大学へ入学した花京院を、構内のあちこちを案内しながら、レポートの時に手が汚れて困ると、初めて承太郎はこぼした。
 濃い鉛筆は、その分柔らかで、右利きの人間が大量の字を紙いっぱいに書くと、どうしても右手が汚れる。承太郎が、自分より先に大学に入って、ひとりで暮らしながら、高校の時とは打って変わって、真剣に勉強に取り組んでいる姿を咄嗟に思い浮かべられるほど、その言い方が大人びていて、花京院はひとり頬を染めた。知らない承太郎がそこにいて、その承太郎とまた一緒にいられるのだと、初めて、承太郎と同じ大学に合格したことを、心底ありがたく思った。
 ふたり揃ってする買い物が筆記用具というのは、色気のない話だと思いながら、それでも、承太郎の手に常に触れるものだと思えば、選ぶ指先にもつい力がこもる。
 まずは、両親から贈られた万年筆のペン先が固くて好みではなかったのを言い訳に、自分のために普段使いの万年筆を1本買って、ダークブルーの替インクも買う。
 花京院の買った万年筆を、興味ありげに見ていた承太郎に、けれど、君の筆圧だと、ペン先がすぐに傷むよ---つまり、もったいないからやめておけ、ということだ---と忠告して、もっと別な筆記用具を眺めに、ふたりは足を前に進めた。
 ボールペンもシャープペンシルも、どれも承太郎の手には細身すぎて、持ってみると折れそうに見える。書き心地も良くねえ、紙に引っ掛かると、承太郎はぶっきらぼうに感想を述べて、勉強用の筆記用具なんて、もう他にはないじゃないかと、花京院は少しだけ唇をとがらせた。
 また鉛筆削りに戻ることになるのかと、少しばかり小さなため息をこぼした時に、サインペンの類いが置いてあるコーナーの隅に、目を止めた。
 油性ペンでは紙に裏移りしてしまうし、大体その類いのペンが、講義のノートを取るとか、レポートを書くとか、そんな用途に適しているとは思えなかったのだけれど、ごつごつした外観のペンの中に、どちらかと言えば細身の、けれどボールペンよりは少し太く見えるペンがあって、花京院は、深くは考えずにそれに手を伸ばした。
 半透明で、中のインクが透けて見えている。鉛筆のように軽くて、持っている気すらしない、見かけはいかにも使い捨ての、安っぽいペンだった。ペン先は銀色で、ボールペンと同じ原理でインクが出るらしい。けれど、ボールペンとはインクが違う。どうせなら試してみようと、花京院は、並んでいるペンの傍に置いてあるメモの束に、ペン先を滑らせた。
 承太郎。
 うっかり、大きな声で呼んだ。まだボールペンの辺りにいた承太郎は、足早に花京院のところへやって来て、なんだと後ろから訊いた。
 これ、書いてみろ、承太郎。
 たった今、試し書きに使ったペンを、キャップも戻さずに手渡す。
 承太郎の大きな手がそのペンを取って、素直に字を書いた。花京院と書いたことは、後でやめてくれときちんと言ったのだけれど、その場ではふたり、その安っぽい使い捨てのペンの、あまりの書き心地の良さに、向かい合ってガッツポーズを決めていた。
 なんだこれ。だろ?だろ? てめーの鉛筆みたいじゃねえか。もっと滑るよ。インクが、触っただけで出る感じだろう? これなら手も疲れないよきっと。だな、紙にも引っ掛からねえ。
 承太郎が、とりあえず一掴み、そのペンを持ってレジへ行った。
 講義のノートは、相変わらず花京院が削った---たまには、自分で削ってもいるようだけれど---鉛筆で取っているけれど、レポートは下書きから清書まで、あのペンでないと書けないと言っている。
 おまけに、花京院が最初は半ば冗談で、大学のコンピュータールームから持ち帰っていた、プリントアウトの前後に出る、真っ白なままの印字紙をやたらと気に入って、あのペンにあの紙でないと、もうレポートは一字も書けないと、ひどく真面目な顔で承太郎が言うのを、笑ってはいても聞き流さない花京院だった。
 花京院の万年筆は、柔らかなペン先が、花京院の書き癖にすっかり馴れて、もう、何本替えのインクを入れたかわからない。手に馴染んだ筆記用具というのは、どれほど古びていても、手離せないものだ。
 好みのものを選んだとしても、最初からうまく馴染むはずはないから、時間を掛けてゆっくりと、こちらの癖を飲み込んでもらう。握った瞬間に指先が勝手に動くようになれば、しめたものだ。一文、息を止めたままで、一気に書き切れた時の爽快感は、指と筆記用具がまるで一体になったようで、そこまで自分に馴染んでくれた小さな道具に、まるで自分の体の一部へのような親しみと、いとしさが湧く。
 そう思ってから、ああ、そうかと、花京院は思った。
 同じことか。
 万年筆の握り心地を思い出しながら、花京院は、掌を握りしめて、開いて、破顔しながら承太郎に振り返る。
 ちょうど、承太郎が、開いていた教科書と資料の束を、テーブルの端にまとめ始めているところだった。
 「終わったのかい。」
 「後は、〆めと清書だ。コーヒーいれるぞ。」
 承太郎の手を離れたペンが、ころりとテーブルの上に転がった。ほとんどインクが空になりそうな、その半透明のペンに向かって微笑んで、花京院は、承太郎のペンケースに手を伸ばす。
 コーヒーをいれ始めた承太郎の背中を眺めて、ペンケースを開くと、長さのばらばらな鉛筆を全部取り出して、細身のカッターも一緒に取り出した。
 手近にあった新聞紙を下に敷いて、六角の鉛筆の角に、ゆっくりとカッターの刃先を滑り込ませる。コーヒーの匂いに交じって、かすかな鉛の匂いが、鼻先に立つ。しゅっしゅっと、黒い鉛筆の先を削って、承太郎の好みに柔らかく尖らせながら、花京院は、それを握る承太郎の指先を、自分の掌の中に感じていた。


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