雨と傘

 雨の日は、並んで歩くのが少し大変だ。差した傘の半径ふたつ分、どうしても肩の間の距離が遠くなる。ただでさえ見通しの悪い狭い歩道を、でかい男がふたり並んで歩くのは周囲にも迷惑だ。
 だから雨の日は、半分くらいは前後に並んで、承太郎はともかくも花京院はいつもよりも肩の幅を狭めて、しとしと降り続ける雨の中を、ふたりで一緒に歩く。
 「梅雨の時期は、通学がほんとうに面倒だな。」
 すでに濡れてしまった革靴の先と、ズボンの裾を、少し地面を蹴り上げるような仕草をして、花京院が承太郎に示した。広い肩をやっと傘の下に押し込めているような承太郎が、ふんと鼻の先で笑う。
 「いっそ裸足に体操着で登校しちまえ。そしたら濡れても面倒がねえ。」
 「・・・君がやったら考えるよ。」
 体育祭の練習を見事にさぼっている承太郎に、花京院がちくりと言う。
 他の生徒たちよりをとっくに引き離して、体格も見た目も、すでにどちらかと言えば成年に近い花京院には、あの体操着とやらが恐ろしく似合わず、制服をきっちり着ていればひどく厳格に見えて他の生徒に避けられ、体操着を着れば大人っぽさが殊更際立つちぐはぐさでいっそう遠巻きにされる。花京院でそれなら、承太郎なら言わずもながだ。そういう意味では確かに、基本的に制服を脱ぐ機会を徹底的に避けている承太郎は、学校生活において正しい選択をしていると言えた。
 教師たちがどう考えているかはともかく、承太郎は自分と言う存在をきっちりと隅から隅まで把握している人間だ。承太郎が、体操着は着たくないと言えば、誰も彼にそれを強制はできない。彼の意志を尊重しているわけではなくて、単純にその腕っぷしが恐ろしいだけだ。花京院だけが、承太郎に対して勝手な軽口を叩けると認識されていて、それはほぼ100パーセント正しい。
 僕が着ろって言ったら着るかな。
 ちらりと考えてから、多分もっと似合わないだろう承太郎の体操着姿を想像して、花京院はわざと傾けた傘の陰でくすっと笑う。
 目の前の水たまりを歩幅を大きくしてよけて、偶然合わせたように、またいだ先でふたりの爪先が揃う。歩幅は4歩揃って、それからまた少しずつずれ始めた。
 きちんと手に持っていた傘の柄を自分の肩に乗せて、花京院は濡れないようにしながら承太郎を振り仰いだ。
 「僕の父さんが子どもの頃は、山を越えた先の学校に通ってて、雨の日は裸足で山道を通ったそうだ。下駄の鼻緒は濡れると切れやすくなるから、自分は濡れても下駄は濡れないようにふところに入れて、片道7キロを歩いて通ってたそうだ。」
 「7キロか、おれなら登校拒否だ。」
 「はは、僕らならスタンドを使えばきっと早い。」
 「それにしても山道を7キロはな。」
 「・・・体育祭の練習よりはましだろう?」
 またちくりと言う──けれど笑いは込めて──と、承太郎が傘の下で帽子のつばを引き下げ、やれやれだぜとぼやいた。
 山道を裸足で7キロに比べれば、舗装された道を1キロ足らずなど、少々の雨であっても文句を言える筋合いではない。しかも途中には自動販売機もコンビニもある、ここは便利な街中だ。
 雨続きのせいで、熱気のこもる体育館での体育祭の練習について、ふたりであれこれ文句を言いながら、少し大きな道に出たところで、また雨が少し激しくなった。ふたりはまた傘の中で肩を縮め、承太郎は小さく舌を打って、その角を一緒に左に曲がる。曲がったところにコンビニがあり、駐車場には、車がひっきりなしに出入りしている。立ち止まって、ふたりは車の流れが切れるのを待った。
 待つ間に、何気なく視線を流したコンビニの入り口で、傘立てのそばをうろうろしている、子ども連れの若い女性の姿に、花京院はふと目を止める。子どもは4つくらい、女性の方は30手前くらいに見えた。たった今買い物をすませたのか、店のビニール袋に腕を通し、同じ方の手でしっかり子どもをつかまえて、彼女は傘立ての上に体をかがめて、明らかに自分の傘を探しているようだった。
 花京院は、考えるよりも先に彼女たちの方へ爪先を向けて、もう体を動かしながら、
 「ちょっと待っててくれ、承太郎。」
 小さくつぶやいて歩き出す。
 承太郎が、おい、と背中に声を掛けたのに、花京院は振り返らなかった。
 出入りする車をよけながら、足早に駐車場を横切り、花京院はなるべく静かに彼女のそばへ寄る。音を立てて近寄ると、たいていはぎょっとされるのは経験済みだ。突然現れた花京院を、きょとんと見上げている子ども──男の子に見えた──ににっこりと微笑みかけてから、花京院は、まだ傘を探している彼女にそっと声を掛けた。
 「すみません、あの、傘が見つからないんですか?」
 弾かれたように、薄くて小さな背中が伸びる。振り返った彼女は、ぎょっとした表情を浮かべてから、花京院の制服と花京院の顔を両方見て、数秒思案した後で、花京院の口調が不良のそれではないと決めたらしい。戸惑ったように、ええ、と小さくうなずいた。
 「・・・どなたかが、間違えて持って行ってしまわれたみたいで・・・。」
 こんな時でも、子どもの前だからなのかどうか、母親らしい彼女の口調はひたすら上品だ。
 子どもは、手を繋いでいる母親──に違いない──と花京院を交互に眺めて、幼いなりに一体何事かと、状況を把握しようとしているように見えた。きっといつもそうやって見上げているのだろう母親への角度よりも、花京院を見上げる時の角度が、細くて頼りないその首には大変そうで、花京院はもう一度子どもの方を見下ろして、やや体を前に傾けてからにっこりと微笑んで見せる。
 「じゃあ、これをどうぞ。お子さん連れだと濡れるわけには行きませんから。」
 差し出した傘を、もちろん彼女は素直に受け取るわけもなく、
 「僕は連れがいますから、大丈夫です。」
 肩越しに、承太郎のいる道路の方をあごの先で示す。彼女が、まだ戸惑った表情を消さずに、花京院の視線の先を追った。
 花京院を待っている承太郎の姿を認めたのかどうか、彼女の表情が少しだけやわらいだその瞬間を逃さずに、花京院は彼女よりもむしろ子どもの方に傘を差し出すようにして、強引に彼女の手に傘の柄を握らせてしまった。
 「あ、でも、どうやって・・・」
 語尾を途切らせた彼女の後をさらっと引き取って、
 「次に傘のない人がいたら、その人にどうぞ。」
 すみません、どうもありがとうございます、と彼女が言う途中で、花京院はくるりと背を向けて走り出してしまった。
 「おにーちゃん、ありがと。」
 母親に言わされたのか、自主的になのか、そう言った子どもの小さな声が聞こえて、背中を向けたまま軽く手を振った花京院の目の前、意外と近く駐車場の半ばに、承太郎がいた。
 「ひとりでかっこつけんな。」
 傘を差し掛けながら、いつもの、何もかも苦々しいと言う口調で、承太郎が言う。
 「ひとりじゃないさ。君がいるからできるんだ。」
 傘の中に入りながら、花京院はわざと振り向かないまま、肩に残る雨の粒を払う仕草をした。
 「まだ礼言ってやがるぜあのガキ。」
 花京院の肩越しに、承太郎があごをしゃくる。
 自分の胸元から見上げた承太郎の視線の動きで、あの親子が、花京院の傘の中に一緒に入って、店の左側の路地へ向かっているらしいのがわかる。
 あの子は、母親に手を引かれながら、もう一方の手で、花京院たちに手を振っているだろうか。並んだ、母親の背と小さな子の背と、よちよちと危なげに歩く足元に、かすかに上がる水しぶきの形すら、彼女らに背を向けたままの花京院にはたやすく想像できた。
 「行こう。」
 さり気なく、承太郎の腰を掌で押した。
 「で、おれがてめーを家まで送るのか、それともてめーがおれん家まで来て傘借りて帰るのかどっちだ?」
 駐車場を揃って出て、歩道へ曲がりながら、承太郎がおかしそうに訊く。
 「・・・そこまでは考えてなかったな。」
 さっきの彼女の困惑を写した表情で、花京院が前方に目を凝らした。
 「君がいるから、一緒なら濡れないと思っただけだったんだが。」
 承太郎の傘は大きいけれど、さすがにふたりが肩を並べると、互いの肩が一方ずつはみ出す。そのせいかどうか、足の幅半分ほど、承太郎は花京院の方へ寄った。
 夕方の近い、こんな雨の薄暗い日は、普通にしていてもじろじろと視線を浴びる男ふたりが、ひとつ傘を分け合って歩いていても、通り過ぎる誰も雨を避けることに夢中で、特にふたりに不躾けな視線を投げかけない。意外な雨の日の効能だ。
 「分かれる角までに決めろ。」
 承太郎が言う、ふたりがそれぞれの家に向かって右と左に分かれる道は、もう200mほど先だった。
 雨は相変わらずやむ様子はなく、予報を見なくても、明日も雨だろうとわかる。水たまりを一緒にまたぎながら、ふたりの肩は、前に進むたびひとつ傘の中でいっそう近づいている。
 少し大きな水たまりを、完全にまたぎ損ねて、端っこにかかとが引っ掛かったのに、承太郎が聞こえるほど大きな舌打ちをした。その水たまりを振り返って、
 「・・・裸足で歩けねえのが残念だな。」
 何が、と承太郎を見上げると、舌打ちの大きさに似合わず、承太郎はうっすら微笑んでいる。
 「ここらを裸足で歩くのは、ちっと危ねえからな。」
 父親のことを言っているのだと気づいて、たかが15分前の会話とは言え、別に大した話でもないのにこんな風に持ち出す程度には興味を持って聞いていたのかと、花京院は不思議な気分になった。
 「裸足で歩けるところに行くか。」
 承太郎が何気ない風に、ぶっきらぼうに言う。
 ふたりが分かれる曲がり角が近づいていた。
 「どこだい?」
 「どっかの山ん中か、海か、それとも砂漠にでも行くか。」
 「はは、いいな、あそこなら雨は降らない。」
 まだ、花京院はどちらを承太郎に頼むか決めていなかった。
 次に足が止まった時に、右足が前から承太郎の家で傘を借りる、左足なら家まで送ってもらう、頭の中でつぶやいて、傘の中で承太郎の肩と自分の肩が触れていることに、花京院は気づかない振りをしている。
 あの親子は、もう無事に家に着いたろうかと思いながら、花京院は承太郎と歩幅を揃えて、またひとつ水たまりをまたいだ。水たまりの端をわずかに踏んだふたりの革靴のかかとが、小さな波紋を作って、端と端が交ざり合って、連なるふたつの山のような形になった。
 雨が降り続くまま、分かれ道が、もうふたりの目の前だった。

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