Red Water

 すでに手遅れと分かっていても、傷の痛みに負けそうになりながら、承太郎はただ足を前に出した。革靴の底は、もう小気味よく地面を蹴る力はなく、引きずらないのが精一杯だった。
 進むたび、地面から浮いたかかとを追うように、傷口から滴り落ちた血が丸く跡を残す。幸いに、すでに固まり始めている血は流れる量を減らして、けれど承太郎はそれには気づきもしなければ頓着もせず、ただ前へ進んでいる。
 屋上へ飛び上がるのは、スタープラチナに任せた。地面を蹴ると、全身の骨がばらばらになりそうに痛んだけれど、承太郎は呻き声を一度だけもらして、後は歯を食い縛って、目当ての場所へようやくたどり着く。
 一面、水に濡れてコンクリートはひと色分闇色に近く、水の染みは、中心部では不気味な緋色を重ねて、もっと視線を中央に寄せると、緑の影の輪郭が目に入った。
 そこで足を止め、承太郎は帽子のつばへ指先をやる。直視を避けるためだった。
 すでに顔色が白い。血は流れを止めて、水に薄められ、淡い緋色に全身を浸して、花京院が奇妙な方向へ手足を投げ出している。目は閉じられていた。
 ひどい風邪でも引いて寝ているのだと、そう言われれば信じてしまいそう──承太郎の、虚しい願い──な、けれど全身血まみれの、糸の切れたあやつり人形のようなその姿に、そんなことはあるはずもなく、承太郎はようやくじりっと爪先を滑らせて、花京院のそばへ近づいて行った。
 濡れるのも構わず、水たまりの中へ膝をつき、自分が思ったよりもずっと丁寧な手つきで、花京院を抱き上げた。
 軽いと思ったのと、重いと思ったのと、ほとんど同時だった。後ろに折れる首を慌てて手を添えて受け止め、そうしながら、だらりと垂れた右腕を血に染まった胸へ乗せるように取り上げ、ふと触れたみぞおちの傷の縁からは砕けた肉片や骨が見え、覗き込めば内臓のかけらと、そうして花京院の体の下の、剥き出しのコンクリートが直に見えてしまいそうだった。
 まだ体温はそのままだ。軽いと感じたのは、もう呼吸をしていないとはっきりと悟ったからか、重いと思ったのは、こちらに添うこともせず、今にもずり落ちそうな肩先のせいか。
 自分が抱き上げて、このまま運んでよいものかと、承太郎はわずかの間迷う。承太郎自身も、あちこち骨折しているし、途中で花京院の体を落としてしまうわけにも行かない。素直にスタープラチナにやらせようと、そんな現実的なことを考えながら、頭の片隅で、自分が抱いている花京院の姿を、受け入れようとしない自分がいることにも気づいている。
 額も頬も血に汚れて、その上に、承太郎から滴った血も交じっていた。水たまりには、今では承太郎の流した血も交じり、それにふたり一緒に浸って、下がる一方の花京院の体温を引き止めようとするように、出血のひどい承太郎の体も冷え続けていた。
 花京院の体は、どこか乾いて清潔なところへ運ばれるべきだったし、承太郎には性急に治療が必要だった。それでも承太郎は、黙って花京院を抱いたまま、血の交じった水たまりの中から、まだ立ち上がろうとはしない。
 「・・・花京院。」
 いつもそう呼ぶよりも、もっと低めたささやくような声で呼んでみた。怯えたようにかすれたその自分の声に愕いて、乾いた口の中と唇をゆっくりと湿し、打撲か骨折で痛むみぞおちへ少しばかり力を入れて、もう一度同じように呼んだ。
 「花京院。」
 喉の奥から、舌の上に向かって、音を転がすような名前だ。ジョセフやポルナレフは日本語そのままのようには発音できず、アヴドゥルは器用に呼んだけれど、それでも承太郎が呼ぶようにではなかった。日本語で育った承太郎だけがきちんと、花京院がそう名乗ったように発音できる、特別な、不思議な名前だった。
 「花京院。」
 声が大きくなる。少しずつ、激した感情があふれて、乾いて頬に張りついている血の跡を、気づけば涙が重なって流れてゆく。水たまりと同じように、血交じりの涙が唇の端をかすめて、あごへ伝わって、そうして、花京院の顔の上に落ちた。
 承太郎。
 自信に満ちた声と表情。揺るぎのない、その声音を、承太郎は耳の奥で聞いている。それもまた、他の誰も同じようには発音できない名前だった。花京院の名のようには、優美な響きはないけれど、花京院が呼べば奇妙に耳にまろやかに響く、承太郎のその名前だった。
 「花京院。」
 承太郎。
 今にも、その血に汚れた唇が動き出しそうに、承太郎はそこから目が離せず、まだ生きた人間のぬくもりのある自分の指先でなら、体温をそこから分け与えられるのではないかと、ふと手を伸ばしそうになる。
 また、涙が滴り落ちた。承太郎の血色の交じった涙が、花京院の血を洗い流して、耳の下から首筋へ流れ落ちてゆく。流れながら、通り道の血の跡を誘い、次第に緋さを増して、こんな時ですらきっちりと閉じられた制服の襟の中へ消えてゆく。あるいは、ふたりの浸っているコンクリートの上の水たまりに、落ちて溶け交じってゆく。
 花京院の体温は戻って来ない。もう、血の流れも完全に止まってしまっていた。
 ぐっしょりと濡れた花京院の体を、そろそろここから抱え上げようと、承太郎はようやく決心がついて、地面を踏みしめるために膝の位置を変える。肩と膝裏へどうにか腕を差し入れようとした時、傾いた花京院の体から、さっき胸の前へ乗せた右腕がずり落ちた。
 ぴしゃりと手の甲が緋い水を打ち、慌てたように承太郎がそこへ自分の手を伸ばそうとするより一拍早く、その腕は力なくのろのろと自分で持ち上がり、承太郎の肩の方へ伸びて来る。
 声のような音が聞こえた。承太郎と、呼ぶ声のように聞こえた。それはごろごろと喉で湿った音と交じり、承太郎でなければ、それを承太郎と言う音だと聞き分けることはできなかったろう。
 胸元にあごを引きつけて、音のした方へうつむいた。目がうっすらと開き、花京院が、これも乾いた血で汚れたまぶたの向こうから、承太郎を見ていた。花京院の全身が、淡く翠の光に縁取られ、どこかぼんやりとした瞳には生気はなかったけれど、それでも確かに、花京院は承太郎を見つめていた。
 「・・・承太郎。」
 音の輪郭が、少しだけさっきよりもはっきりとする。承太郎は言葉を失ったまま、呆然と花京院を見下ろしていた。
 花京院が伸ばして来た手が、やっと承太郎の肩に届く。爪がいくつも割れ、手の甲はすり剥けている。その手が肩から首筋へ滑り、まるで撫でるように、承太郎の後ろ頭へ触れて来た。
 「ありがとう。」
 音がはっきりと聞こえ、唇も、弱々しく、声に合わせて動く。一体どうやったのか、花京院は承太郎にぶら下がるように腕に力を込め、体を浮かせ、承太郎へ顔を近づけて来た。
 花京院を支えるように、自然に背中を抱き寄せると、目の前で花京院の唇が薄く伸び、確かに微笑んだように見えた。血まみれの笑顔が、なぜか不気味にも思えず、承太郎は思わずもっとよく見ようと目を細め、それから、ひどく厳粛な気分に襲われて、ほとんど祈るような気持ちで花京院に目を凝らした。
 喉が伸びて、血の匂いが強くなった。花京院の唇は、とても冷たかった。唇の間からもれる呼吸の気配はなく、ただ血の味だけが、承太郎の唇の間から入り込んで来る。ただ押し当てられただけの唇はそこから動かず、引き寄せられたまま、承太郎も動かない。通い合う息もないまま、こすれる唇の間で行き交うのは、互いが流した血だけだった。
 そこから、自分の息を吹き込めばいいのだと、そう思いついた時には、花京院の唇は去り始めていたし、後ろに首を折る花京院が、笑みを浮かべたまままたかすかに唇を動かしたのが、さようならと、そう見て取れた時には、花京院の体からはあの翠の影が消え失せていた。
 承太郎の顔の周りに、まだふわふわと翠に影の消え残りが漂い、何か叫ぼうと大きく息を吸った承太郎の肺の中に、それはすべて吸い込まれてしまった。
 いつの間にか、承太郎の肩から花京院の手は滑り落ち、緋い水の中へ浸かっている。指先の周りにはまだわずかに水紋が残り、水の表面を揺らしていた。
 「・・・花京院。」
 もう、応えてはくれなかった。目は再び閉じられ、力を失くした体は承太郎の腕の中にだらりと伸び、翠の影が戻って来ることはなかった。承太郎の唇には、花京院の血の味が残り、その唇を承太郎は血の出るほど強く噛んで、それから、声を殺して泣いた。
 肩を震わせて泣く承太郎の、その震えは今は傷つけることを恐れる必要もなく抱きしめた花京院の体へ伝わり、水に浸かったままの掌へ伝わる。流れ落ちて来る承太郎の涙を、もう花京院の頬は吸い取らず、承太郎と一緒に揺れる指先が水たまりに小さな波紋を呼び、滴る承太郎の涙もまた小さな波紋を作り、花京院の冷たい体の下で、広がった波紋が重なり合っては消えてゆく。
 消えかかる波紋の端で、水に写し取られた月の光が揺れ続けていた。

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