だらだらと本を読み、だらだらと音楽を聴き、だらだらとテレビを見て、示し合わせて授業のない土曜の朝は寝坊と決めて、そうやって過ごした金曜の夜はあっと言う間に土曜の昼近くになり、先に布団から抜け出たのは、花京院の方だった。
 勝手知ったる他人の家、空条邸の長い廊下を渡って洗面所でまず顔を洗い、まだパジャマも着替えないまま、音と気配のする方へ行けば、ホリィが何やら台所で楽しそうなのに行き会う。
 「おはようございます。」
 のれんをくぐって、邸内と同じほど古風な台所へ顔を突っ込むと、
 「あら、おはようノリアキちゃん。」
 おはようという時間でもないけれど、客──というよりは、すでに第二の息子扱いだ──の寝坊はとがめずに、ホリィが語尾を明るく跳ね上げて、大きな微笑みを花京院に向けて来た。
 「承太郎、起こして来ましょうか。」
 「それよりね、ノリアキちゃん。」
 食卓の方へ花京院を手招くホリィの手元には、ボールやら小麦粉の袋やら、明らかにこれから何か作るという材料が並んで、そして花京院にはすっかり馴染み深い、大きなパイ皿がふたつ、真ん中辺りにどんと置かれているのが見て取れた。
 ホリィに呼ばれるまま、素直にそのまま台所の中に入り、もう何でも手伝うつもりで、花京院はパジャマの袖をまくり上げる仕草を始める。
 「買い物お願いできるかしら。缶詰が重くて、昨日あきらめちゃったの。」
 「いいですよ、すぐ行きましょうか。」
 「承太郎が起きて、お昼が終わってからでいいの。このパイは今日のデザートのつもりだし。」
 ホリィが、肩をすくめて笑って見せる。相変わらず、高校生の──巨漢の不良──息子がいるとはとても思えない可愛らしい笑顔だ。花京院はパジャマの袖に掛けていた指先を少しの間止めて、ホリィの笑顔にちょっと見惚れてから、それならまず着替えるかと、廊下に戻るために肩を回そうとした。
 横顔だけ振り向いたそこに、花京院がさっきそうしたように、顔だけのれんの間から突き出して、一体いつ起き出して来たのか、寝起きの承太郎がふたりの方を覗いていた。
 「またチェリーパイか。」
 おはようもなく、まずちょっとかすれた承太郎の声が飛ぶ。
 大きなボールの傍らには、承太郎がそう言うように、確かにさくらんぼの缶詰がひとつあって、それを目にしなくても、花京院がいる時──いない時も──にホリィが作るパイはいつもチェリーパイだから、花京院は最初からそうだと思っていて、それに対して明らかに不機嫌そうな承太郎の声に、ちょっと驚いてあごを引いた。
 「おはよう承太郎。」
 「おはよう承太郎、後でノリアキちゃんと一緒に買い物に行ってくれる?」
 ホリィは息子の仏頂面に動揺も見せずに、変わらない可愛らしい笑顔をふり向けて、さらに何のサービスか、小首をかしげるという仕草まで加えてくれた。
 好みのタイプの女性の可愛らしさの二乗効果に、花京院はうっかり声を上げそうになって、慌てて喉を押さえるつもりでパジャマの胸元を握りしめる。その花京院を、承太郎がいっそう忌々しそうににらむ。
 「またチェリーパイか。ハロウィンが近いんなら、パンプキンパイでもいいじゃねえか。」
 やはり挨拶はなく、承太郎が不機嫌そうな声をさらに重ねた。
 「あら、パンプキンパイは承太郎好きじゃないじゃない。」
 承太郎に合わせて声を荒げるでもなく、いつもの穏やかさでホリィが言う。承太郎は鼻の頭にしわを寄せて、
 「・・・たまにはチェリーパイ以外にしろって言ってんだろうが。」
 言われたことそのままを真っ直ぐに受け取るのが当然のアメリカ人のホリィと、日本育ちの行間を読むのが当然の承太郎と、何となく噛み合わない会話のおかしみ──ホリィの方は間違いなくわざとだ、きっと、と花京院は思った────のおかげで、承太郎の怒りらしきものは何となく薄められ、いつだって承太郎を諌める役になる花京院は、ごく自然に承太郎の間とホリィの間へ立つ形になって、
 「じゃあ買い物に行った時に、君が好きなものを買って来ればいいじゃないか承太郎。」
 ホリィをかばったつもりはなかったけれど、濃い眉の間にたてじわを深くした承太郎の目から火花が散ったように見えたのは、きっと錯覚ではなかったろう。
 花京院は、承太郎の不機嫌を寝起きのせいだけかと訝しがりながら、
 「じゃあふたりで買い物に行ってくれるのね。」
 再び語尾にハートマークを散らし始めたホリィの明るい声に、すっかり気勢を殺がれた承太郎が、乱暴にのれんを跳ね上げて、どしどしと廊下を去ってゆく足音を耳で追って、花京院は、とりあえず今はホリィの笑顔を存分に見ておきたかったので、すぐには承太郎を追わずに、1分ほど台所にとどまることにした。


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 「お前は単純でいいな」
 「あ、何不機嫌になっているんだい?だいたいだね、ホリィさんみたいな素敵な女性がお母さんなんだぞ君はもっとその状況をありがたがってだな」
 「…解ったよ」
 「もう一枚のほうは何パイにする?」
 「話題をころころ変えんじゃねえ」
 たっぷり何分かホリィとおしゃべりを楽しんだ花京院が、やたら早く身支度を整えた承太郎に台所を追い出され、しぶしぶ着替えて承太郎と買い物に出たのは20分程前。
 一番近いスーパーではなく、もうちょっと歩いた先にあるところまで、散歩を兼ねてふたりはとことこ歩いた。
 絶好のパイ日和じゃないかと訳の解らない事を話し、喜びながら歩く花京院は一歩世界から浮いている様に見える。
 やれやれと思いながらも、最初は甘ったるくて食べられなかったチェリーパイを、ここ半年ですっかり克服してしまった自分の甘さというかなんというか、そういうものを嫌いにはなれないのが、承太郎だ。
 ちょっと遠いスーパーに行こうと言い出したのは花京院で、それの本当の意味は承太郎に伝わるのだろうか。
 散歩がてら、デートみたいにしようと、言わなくてはいけないのかい?
 天気もいい。楽しい日は日常を少しだけ非日常へと変えてくれる。
 スーパーで、アメリカンチェリーをどっさり買い込む。
 承太郎からのリクエストが特に無かったので、もう一枚はシンプルにアップルパイにしようと、花京院は積まれた林檎を真剣に吟味している。
 横顔から受ける印象は寧ろ鋭利といっても良いのだが、本人はその印象の1%も、尖った部分を他人に見せはしない。
 あの旅の間には、承太郎も背中が冷たくなるナイフの様な気配を覗かせた事もあった。
 すっかりそれはなりを顰め、久しい。
 どちらが本当かなどど、野暮な事は考えない。
 誰にでも色々な面があるのは当然だ。承太郎の興味を強く惹く花京院の色々な一面は、昼だって夜だって、探ろうとすれば探る事が可能だ。
 焦ることは無い、ゆっくり時間をかけるチェリーパイと一緒だ。
 そんな事を考えながら、ひょいと林檎を5個取り、籠に入れた承太郎を見て、花京院はにへら、と、ややだらしない笑みを浮かべて承太郎を見上げたのだった。
 帰りもまったりと、のんびりと、散歩を十二分に楽しむ。
 スーパーの外に繋がれていたボーダー・コリーを、花京院は目を輝かせて可愛がり、飼い主であろう老夫婦が、『この子ねえ、ジミーって名前なのよ』と教えてくれる。
 彼はジミーと離れがたそうにそのもふもふした毛に顔を埋めていた。
 またこのスーパーに来ようと、承太郎は頭の片隅で考える。
 すっかり獣臭くなった自分の襟元の匂いに気がつき、気恥ずかしげに笑った彼の頬に、承太郎は何の気なしに手の甲で触れる。
 誰にも見られてない、表通りから一本入った用水路がある路地裏で、ふたりは買い物袋を持ちながら、ほんの少しだけキスをした。
 「…スリリングですね」
 「まあな」
 「ま、こういうのも、悪くない、よね」
 「言ってろ」
 ぶらりぶらりと歩いて、家に帰る頃にはすっかりいい時間になっていた。
 ただいま、と、そろって間延びした声を玄関で挙げれば、パタパタとスリッパの音を立てて、ホリィが二人を出迎える。
 「おかえりなさぁい。」
 ほっこりと、音がするほどの笑みを讃えるホリィは、二人並んで出迎えのホリィに顔を挙げる息子たちの顔を見るなり、一層に笑みを深くする。
 そうして、かさかさとスーパーのレジ袋と、花京院が出かけに持ち出したトートバッグを、一人は右手に、一人は左手に持って、買い物袋同士をこすり合わせるようにして立つ二人に、
 「ふふ。」
 意味深な、または穏やかな笑みを残すと、くるりとその場でターンを決めて、キッチンへとスキップでもしそうな勢いで、去って行った。
 「…ババァ。出迎えるなら荷物の一つでも持つくらいの気遣い見せたらどうだ。」
 去って行った母の背中を苦虫をかみつぶしたような顔で見送って、承太郎が悪態を吐く。
 そんなことは、当然期待もしていないし、またホリィが荷物を持とうとするのを、承太郎は当然のように手を払いのけて拒むだろう、そんなことは花京院もわかっていたけれど、出迎えたなり何もせずにキッチンに戻って行った母の行動に文句を言う承太郎の発言を、花京院は咎めはしなかった。
 要は、承太郎は恥ずかしがっているのだ。
 何をといえば、それはホリィが、二人が手の甲を触れ合せて並んで帰ってきたのを認めるなり、意味深な笑みを残して去って行ったことへだ。
 証拠にそっと、花京院が承太郎を見上げれば、らしくなく頬をあからめているし、仏頂面よりももっと、拗ねたような子供らしい…事実まだ子供なのだけれど…顔をして悪態を吐いている。
 そうして、上目づかいで承太郎を見上げる花京院の視線に気づきながらも、敢えて目を合わせることなく、乱暴に靴の踵を踏みつぶして、框に上がり込む。
 そんな承太郎のちょっとした照れくささは、背中にも表れていて、乱暴に靴を脱ぎ捨てたまま、
 「おい、早く上がれ。こっちは腹へってんだ。」
 花京院にまで八つ当たりするのに、本当は苦笑が漏れそうになったけれど。
 「ホリィさんのこと、ババァとかそんなこと言うな。」
 敢えて、的外れな返事をしてやれば、承太郎は振り向くなり、まるでレジでお金が足りずに、必死にかき集めた小銭と共に、割引クーポン券を添えたら、店員に「それ、期限切れです。」と冷たく返された時のような仏頂面で、花京院を睨みつけた。 「承太郎、ノリアキちゃん。せっかくだからママ、皆でパイ作ろうって思ってるの。」
 お昼に用意したおにぎりをがつがつと頬張る息子と、その隣でから揚げに箸を伸ばす花京院を、ホリィは頬杖をつきながら笑顔で見守りながら提案する。
 「……あぁ?」
 母の提案に唇の端に付いたのりを手の甲で拭いながら不機嫌に答える息子は、『冗談じゃねぇ』と顔を顰めるが
 「いいですよ。楽しそうだな。」
 花京院は、声まで上ずらせてホリィの提案に乗り気だ。
 「おい、花京院。」
 「いいじゃないか承太郎。せっかくだから、君も家族の団欒を楽しむといい。」
 『それに、ホリィさんと料理なんて、僕嬉しいです。』と、隣に息子が、あるいは親友が、またはもっとそれ以外の何かが、居るにも関わらず、怯むことなく答える花京院は、優雅に箸の先に唐揚げを…よくこの短時間で揚げ物をつくる余裕があったものだ、料理好きのホリィには手間には思わないだろうが、きっと衣も市販のものではないだろう…つまみながら紳士的に答える。
 ―――唐揚げつまみながら何格好つけて言ってやがる。
 承太郎は正直、乗り気ではないが、ホリィは花京院の言葉に『きゃあ』と歓喜の声を上げ、いつの間に用意していたのか、膝からお菓子のレシピ本を取り出していそいそと開き始めた。
 「ふふ。」
 「うふふ。」
 レシピを挟んで、時折顔を合わせて微笑みながら、パイの作り方を語りあう二人を、承太郎は行儀悪く頬杖をつきながら、おにぎりを頬張って見守っている。
 すこしだけ、退け者にされた寂しさを味わいながら。
 自分には菓子作りなど専門外だと思いながらも、空腹が満たされるころには、傍らでレシピ片手に盛り上がる二人が気になる。
 ちょっとした疎外感を感じているのだから、それは当たり前なのだが、キャッキャと、まるで女子高生のように笑いあう二人に、なんとも面白くないものを感じる。
 どうせ俺には関係ないことだと部屋に戻っても、そこに花京院は居らず、キッチンで母親と仲良くチェリーパイなんていう甘ったるいものを作る声を遠くで聞くのか。それもまた、癪だ。
 出された食後のお茶を啜りながら、行儀悪く膝を立てて頬杖をついて見ていれば、やがてホリィはスーパーの袋をがさごそと探り始め、
 「生のチェリーね、煮ておきましょ」
 食事もそこそこに立ち上がるので
 「僕がやります。ホリィさんは食事をしてしまって下さい」
 花京院が食卓の上の空いた皿を持って後を追う。
 「じゃあ、手分けしましょうね。ママ、パイ生地を作るわ」
 頬張っていた唐揚げを、きちんと咀嚼しないままゴクンと飲み込み、
 「ほら、承太郎はお皿洗ってちょうだい!」
 母は強し。結局息子の仏頂面に気付いているのか気付かないのか、気付いていながら顎で使うのか・・・結局流しに立てば、二人の目論見通り?菓子作りを手伝う羽目になるのだ。
 「やれやれ」
 いつもの台詞を呟きながらも、どことなくホッとしている自分がいるということに、承太郎は少なからず驚いていた。
 皿洗い自体はすぐに終わるが、流しに立っているというだけで、チェリーを煮た鍋、小麦粉とバターを混ぜ合わせたボウル、さらには皮を剥けと、先ほどスーパーマーケットで吟味した真っ赤なリンゴとナイフを渡される。
 調理器具を大きな手で洗い、布巾で拭き終われば、リンゴをくるくると回しながら皮を剥いていく。
 それが慣れたもので、皮は切れないままシンクにゆっくりと落ちていく。
 「うまいじゃないか、君」
 長くつながったリンゴの皮を見て、花京院が感動して承太郎に声をかけると
 「たいしたことねーよ」
とは言うが、満更でもない表情で答えたとたん
 「あ」
 「うお」
 全部剥ききらないまま、皮はぼとりとシンクに落ちた。
 「おめーが話し掛けるから」
 次をよこせと手を伸ばす。
 「ごめんごめん」
 笑いながら新しいリンゴを渡すが、次も、その次も、結局全部のリンゴの皮を剥いたが、最後まできれいに剥ききれることは無かった。なんとなく、負けた気がする。
 黙々と作業をしていたホリィが、マーブル台でパイとバターの塊を織り込み、何度か繰り返したところでそれをラップにくるんで冷蔵庫にしまう。パイ生地は冷たく冷やして扱うものなので、生地を寝かせる時間が必要なのだ。
 「じゃ、次はリンゴを煮ましょうね」
 小さなまな板の前で、二人でナイフを持って、狭い狭いと肩をぶつけ合いながらリンゴを切る二人に、思わず微笑んでしまうホリィだった。


 すでにホリィがきれいに煮たチェリーは火から下ろされ、ふたりが一生懸命皮を剥いて小さく切ったリンゴを、今度は煮る番だ。
 「ちょっといいかしら。」
 またふたりが大きな肩を、ガス台の前に並べた後ろで、ホリィが可愛らしく尋ねる。
 「見たいテレビがあるのよね。」
 土曜の午後に再放送されているサスペンスドラマだ。ホリィがそれを楽しみにしているのを知っている花京院は、返事もしないし振り向きもしない承太郎の代わりに、顔半分だけ向けて、
 「どうぞ。承太郎とふたりで見てますから。」
と笑顔で応えた。
 ぱたぱたと、声や仕草と同じほど可愛らしいホリィの足音が去ってゆくのを、まだ顔を振り向けたまま見送って、花京院はやっと、承太郎がリンゴを鍋の中でかきまぜている手元に視線を戻した。
 「君が剥いた方が形がきれいだな。」
 「こうして煮ちまうのに、形もへったくれもあるか。」
 相変わらずの仏頂面のまま、手元から視線を動かさずに承太郎が言う。
 「それでも、見た目がきれいな方がいいじゃないか。」
 「…てめーは根っから日本人だな。」
 「美味しいアップルパイに国境はないし国籍も関係ない。」
 「…今度ジジイによく言っとくぜ。」
 繋がりのよくわからない軽口は、だからこそ楽しくて、ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、今では承太郎の口元には薄く笑みが浮かんでいる。花京院も、合わせたようにうっすら微笑んだ。
 それから、少しずつ透明に、黄金(こがね)色に変わってゆくリンゴを一緒に見下ろしながら、ふたりはごく自然にもっと肩を近寄せた。
 承太郎が肩越しに廊下の方をうかがい、花京院がそれにちょっといたずらっぽい笑みを送って、そっとハイエロファンとが台所の床を這ってゆく。
 同じスタンド使いのホリィにも見破られないように、こっそりと台所の入り口に、ハイエロファンとの結界を薄く張った。
 それを見てから、承太郎が軽く花京院にうなずき、喉を伸ばしてかかとを浮かせた花京院の唇に向かって、触れるだけの、けれどすぐには離れない口づけを落とす。
 リンゴが、くつくつと鍋で音を立て、甘い匂いをさせて、同じくらいに、ひそやかで甘ったるい、ふたりの口づけだった。
 「いい匂いだ。」
 唇が外れた後で、まだ肩は寄り添わせたまま、花京院はそっと承太郎の腰に掌を当てる。
 「食っちまうか。」
 「…パイになるまで待とう、承太郎。」
 「…待てねえ。」
 「食い意地が張ってるにも程があるぞ承太郎。」
 「…パイじゃねえ。」
 肩が滑って、また唇が近づく。呼吸が鼻先にかかって、花京院は、うっかり頬を染めた。
 「…おれが食い意地が張ってるのはてめーにだ。」
 リンゴと砂糖の甘い匂いが、一瞬遠くなる。
 あれこれといろんなものが詰め込まれた、空条家の台所が遠くなり、まるでふたりきりの、ふたりだけの空間のような錯覚に陥って、花京院は素直に承太郎の唇を受け止めていた。
 「…リンゴが焦げるぞ承太郎。」
 鍋をかきまぜるのを止めている承太郎の手に、花京院は自分の掌をそっと重ねた。
 くつくつと、鍋の中で甘いダンスを踊る林檎を、スタープラチナにかき混ぜさせるといった荒業を駆使して、承太郎は花京院の口唇を奪う。
 次第に深くなるそれは、煮込まれた砂糖と洋酒の香りも手伝って、とろとろに思考を溶かしそうになる。キッチンの入り口に貼ったハイエロファントの結界が、心臓の鼓動にあわせて明滅を繰り返した。
 遠のく理性。
 このまま溶けてしまいそうになった花京院を現実に引き戻したのは、居間でホリィが立てたほんの些細な物音だった。
 「んっ…承太郎…!は、離れてくれ…!!」
 「あぁ?なんだいきなり」
 「いくらなんでも、これはマズい」
 今考えれば、大した大きさの音では無かったのだが、花京院の『理性を保とうとする心』が、その物音を敏感に聞きつけ、とっさに明瞭になった思考で、承太郎の暴走を拒絶したのだろう。
 さっきまで触れ合っていた肩は随分と遠くなり、スタープラチナからヘラを強引に奪うと、花京院はまだ耳を赤く染めたまま、黙って林檎をかき混ぜる作業に戻った。
 急激に熱が冷めていく恋人の横顔に、苛立ちを隠せない自分に驚いているのは、何を隠そう承太郎自身だった。
 子供じみた感情だ、忘れてしまえと何度も何度も繰り返しても、一度火がついたものは留まる事を知らない。
 楽しそうに微笑みあう自分の母親と、恋人。関係としては十分素晴らしく、暖かな気持ちで見守れる筈なのだが、今日に限って虫の居所が悪い。
 ちいさく燻る苛立ちの感情を知ってか知らずか、花京院は黙って林檎をかき混ぜている。
 無表情というよりは、寧ろすこし嬉しそうに作業を進める彼に、承太郎はいかんともしがたい気持ちを抱いてしまう。
 かき混ぜる作業を花京院に任せ、徐にポケットから煙草を取り出した承太郎は、いつもなら我慢できるはずの『キッチンでの喫煙』を、我慢できずに、煙草と同時に持っていたライターでぶっきらぼうに火をつけた。
 乱暴に椅子に腰掛けて、いつもより盛大に煙を吐き出す。
 「後は任せる。俺には菓子心が無いんでな」
 「何拗ねて…あ!承太郎、煙草は駄目だ」
 「別に、いつも吸ってるじゃねえか」
 「キッチンでは禁止だって、いつも僕もホリィさんも言ってるだろ。食べ物に匂いが移るし、承太郎だってそれは嫌だって言ってたじゃないか。吸うなら外で…」
 「ったく、二言目にはババァかよ…」
 沈黙が、流れる。
 このひとことがいけなかった事に、無論この時の承太郎は気が付いてはいない。
 「だから、自分の母親をそんな風に呼ぶのはやめろって、言ってるだろう」
 「自分の母親だ、どんな風に呼んでも勝手だろ。お前の知ったことか」
 「何だよそれ。どうしてそんな風に僕が言われないといけないんだ?僕はホリィさんを尊敬しているし、大切な友達でもあるんだぞ」
 「あいつが友達だと、笑わせるぜ。そんなに好きなら口説くでも何でもすればいいじゃねえか」
 「君、僕を侮辱してるのか?」
 売り言葉に買い言葉。
 言い争いの火種はどこにだって転がっている。
 その間にも煙草を止めようとしない承太郎に、とうとう穏やかな花京院の堪忍袋の尾も切れそうになっているらしく、ハイエロファントにヘラを任せ、くるり承太郎に向き直った。
 「とにかく!煙草は厳禁だ。承太郎、今すぐそれを消し賜え。」
 振り向きざまに、びしりと指を差してまるで教師のように、花京院が厳しく言い放つ。
 ふてくされて乱暴に椅子に腰かけている承太郎は、背もたれに腕を引っかけながら、花京院を睨みつけていたが、『偉そうに』と一言呟くと、指で挟んでいた煙草を、徐に持ちあげた。
 ゆっくりと、テーブルの上に置いてある皿に、煙草の先を持っていき、指をとん、とはじいて灰を落とす。
 そのやり方はかなり、行儀悪かったが、花京院は厳しい顔をしたまま、言うことをきいて煙草を消そうとする承太郎に、ほっと安堵の顔を向けた、矢先。
 あろうことか承太郎は、にやりと笑って見せて、皿におしつけかけた煙草を、ひょいと唇の端に、挟んでみせた。
 「誰か、優等生君の言うことなんて、聞くかよ。」
 「承太郎ッ!」
 舌でも出しそうな勢いで、フンと鼻を鳴らして花京院を拒む承太郎に、花京院は頬をか、と赤くそめて顔を顰める。
 ヘラを持って丹念に鍋の中のリンゴを掻き交ぜているハイエロファントは、そんな花京院の様子を映してか、注意散漫だ。時々忘れたようにヘラを持つ手を止めるし、何より何度も二人に振り返っては、おろおろと彼らのやり取りを見守っている。
 スタンドは、本体の心を映している、とはいうけれど。
 すこしばかり、ハイエロファントは花京院と共に過ごした日が長すぎたかもしれない。
 心の反映というより、むしろ心のそばにいつも居て、花京院を支えてきたハイエロファントは、時に友のように、時に保護者のように花京院を見守っていて、今も心配そうに、肩を怒らせる花京院と無愛想にそんな本体を睨み上げる承太郎を、止めに入ろうかそれとも本体の言いつけどおりに鍋に集中しようかと、あぐねいている。
 そんな、ハイエロファントの心配をよそに、花京院はつかつかと承太郎に歩み寄ると、目と鼻の先にまで顔を近づけて、顰め面のまま、睨みつけてくる承太郎の唇から、ひょいと煙草を抜き取った。 「君、子供っぽいぞ。」
 その言葉は、少なくとも今の承太郎には禁句だったのかもしれない。
 寛容…花京院に対しては、他の誰よりも間口が広い承太郎でも、今の花京院の、まるで聞き分けのない子供をしかる大人のような態度に、腹が立つ。
 さっきからずっと、むくりと腹の立つことがおこっては、それでも花京院の笑顔や、はしゃいだ声になんとか自制してきたのだ。
 母親にばかりかまけている花京院や、自分をぞんざいに扱う花京院、周りを気にして、そっけなくする花京院。
 いつもなら、その一つ一つを、片眉ひとつ、吊り上げるくらいの機嫌の上下で乗り越えてきた承太郎も、さすがに3つそろうと、いけない。
 承太郎は、顎を上げて自分を見下すように睨んでくる花京院に手を伸ばすと、ぐいと彼の首筋をひっつかんで、引き寄せた。
 「…うわッ!」
 突如、伸びてきた手に、バランスを崩して、花京院が承太郎の元に倒れ込む。
 けれど、その彼を、優しく抱きとめる腕は、そこにはなく。
 代わりに、乱暴に首を傾けた、承太郎の唇が、声を挙げた花京院の唇に、重なった。
 ろくに息もせずに重ねた唇は、咄嗟に塞がれた瞬間に、息を吸い込もうとして、ヒュ、と喉が鳴る。
 その所為で、がっちりと重なった、承太郎の唇から吹きかけられた、煙草の煙いっぱいの息を、肺の奥まで吸い込んでしまった。
 「ん…ッ!」
 とたんに目にしみるほどの痛みと苦みが喉や肺を焼き、花京院は手加減するのも忘れて、承太郎を突き飛ばす。
 ガタリと椅子が傾いて、それよりも盛大な咳をして、花京院が激しくむせれば、涙目で振り返って見上げた先の承太郎は、平然とした様子で、花京院を見守っていた。
 「何す―――ッ。」
 「うっせぇ。元は、テメェの所為だ。」
 いたずらを仕掛けたくせに、承太郎の機嫌は元に戻るどころか、下がりっぱなしだ。
 「ぼ…くが…何時ッ!?」
 「テメェの胸に、手ぇ当てて、善ッく考えてみろ。」
 顔を真っ赤にしながらも反論する花京院に、承太郎はフンと鼻を鳴らして顔をそむけると、形のよい眉を顰める。
 思い当たる節のない花京院は、急に不機嫌になった承太郎に、いぶかしむ…余裕は今はなく、売り言葉に買い言葉、その通り。逆立った気持ちは、そのまま彼にぶつかるように近づいて、二人は取っ組み合いの喧嘩でもしそうな勢いで、向き合った。
 ガツン、と額がぶつかって、罵声が浴びせられる、その直前に。
 「……喧嘩、いくない。めッ。」
 いつの間にかキッチンに顔を出していたホリィが、のれんから顔を覗かせて、顔を傾けたまま、大きな瞳をくりくりと動かして、怒ったふりの、愛嬌のある顔で言い放った。
 「……………。」
 「………はい。」
 呑気なホリィの一言に、二人はそれまで苛立っていた気を一気に削がれて、掴みあったまま、唖然とホリィを見つめた。
 「なんなの、喧嘩なんてあなたたちらしくない」
 言い放つホリィに
 「・・・だってよ・・・」
 ぼつりと承太郎は答えたが、まさか二人が仲良くしているのを見て、疎外感を味わい、苛立ちが募って悪いと解っている台所での喫煙を強行した、などとあまりに子供っぽくて言えない。花京院に「子供っぽい」と、言われてやけになったのは図星だったからだ。
 「・・・・・・何でもねーよ」
 そっぽを向く承太郎の横で、花京院も一緒に叱られるべきなのだ、と、彼は少しだけ、彼を庇うようにホリィの正面に立ったのを、承太郎は黙って見つめていた。
 こんな風に身を挺してくれる存在があったなんて。その存在に、つまらない言葉を吐いて、怒らせたなんて。
 「ママはねぇ・・・」
 まるで小学生に言い含めるようにゆっくりとした口調になるホリィ。その口からどのような酷い言葉が飛び出そうとも、受け止めるべきだと二人は身を構えた。
 「ドラマの再放送、すっごい楽しみにしてたんだから。あなた達が喧嘩はじめて、ちょうど船越栄一郎が犯人を崖の上に追い詰めていたのよ」
 「火サスかよ!!!」
 「だって見所でしょ、もー」
と、ぷんすか頬っぺたを膨らますホリィに花京院は思わず噴出し、承太郎もまた、喧嘩の火付け役のタバコを灰皿に押し付けた。
 それを見た花京院は、はっとして承太郎を見上げた。
 その瞳には、もう、怒気は感じられなかった。
 承太郎もまた、まっすぐに見つめてくる彼に、先ほどよりずっと穏やかな視線を向けることができた。
 互いに思い合っている。それは自分たちが充分過ぎるほど解っているのだから、表情にはもう、わだかまりはない。
 それでも、黙ってしまった彼らを見て、ホリィは気まずさを感じたのか(怒りすぎちゃったかしら?でも船越さぁん)・・・と、考えつつ、その場の沈黙をやり過ごそうと、わざとらしく冷蔵庫を開け
 「そ、そろそろチェリーは冷めてるかしら?パイ生地も落ち着いたかしら」
 煮たチェリーを入れた容器を手に取り、手をかざして蒸気で温度を見るのかと思いきや、一粒のチェリーを両手に一つづつ胸の高さまで持ってきて
 「ほらほら、おっぱい!」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・ぷっ」
 吹き出した花京院は、それが皮切りに、堰を切ったように笑い出し、ホリィも空気が和んだわー、と、自身の捨て身のギャグもいい感じじゃない?と、鼻を高くしたが、一人、羅刹の表情の息子が肩を震わせていた。
 「マ・・・ママ・・・だめだったかしら?」
 「いえ、最高です。すごい、面白い。バンド組みたい」
 腹を抱え、とうとう涙をこぼし始めた花京院だった。
 「あのね、仲直りさせたかったのよ」
 慌てて言うのへ
 「わ、解ってます。すみません、凄い、ツボった」
 息も絶え絶えの彼の背中を摩りながら
 「ババァー・・・てめぇ、覚悟しろよ」
 凄んで見せるものの、すぐさまハイエロファントの持つ木べらで、頭を小突かれた。
 泣くほど笑う花京院につられたように、ホリィもおかしさをこらえられない風に口元を押さえながら、
 「ふたりとも、後は大丈夫だからここはいいわ。」
 言葉の間に笑いがふきあふれる。そのホリィの様子に、また花京院が笑いを誘われる。承太郎だけが、笑いの輪に入れずに、体をねじって腹を抱えている花京院の襟首をつかみ、ホリィの言葉通りに台所から去ろうとしていた。
 「じゃ…じゃあ…お言葉に甘えて…。」
 承太郎に引きずられながら、花京院はまだ笑っていた。
 廊下に出て、後ずさりしながら、ホリィの弾けるような笑い声が追って来るのに、花京院はまた笑いを止められずに、承太郎に引っ張られて庭の方へ行く間、花京院は奇妙な笑い声で笑い続けた。
 砂漠で聞いた覚えがあると、痛む腹を抱えて苦しがる──それでも笑いは止まらない──花京院の爪先をサンダルに差し入れさせ、自分は下駄をつっかけて、玄関から庭へ回ったところで、ようやく花京院が涙に濡れた目元を拭った。
 「こんなに笑ったの久しぶりだ。」
 まだ口元がゆるんだままだ。承太郎は、それを忌々しげににらみつけて、への字に曲がった唇に、取り出した煙草を差し込んだ。
 「母親の冗談ほど薄ら寒いモノはねえ。」
 「そんな風に言うなよ。ホリィさんは君のために──」
 「てめーのためにだ。」
 まだかすかに笑いの残る花京院の言葉の途中を、承太郎がぴしゃりと遮る。くわえた煙草に火はつけないまま、怒った表情もそのままだ。
 「…君もしかして、ヤキモチ焼いてるのかい?」
 図星を突かれて、うっかり煙草が落ちそうになった。
 承太郎が何をしようと、承太郎の心配はしても、他のことに気を回すということはしない母親だ。それが花京院のこととなると、やけに必死になる。それを不自然と思って、承太郎はつい不機嫌になる。
 母親と、大事な友人──けっ、と胸の中で唇を突き出した──が、自分の前で仲良くしているのをありがたいと思いながら、同時に、自分がいなくなっても、このふたりは相変わらず楽しげに過ごすのだろうと思ってしまう。そう思う自分の子どもっぽさが、何よりいちばん癪に障る。
 花京院が、背の低い木の花に手を伸ばしながら、今はすっかり落ち着いた笑みを浮かべている。
 「バカだなあ、君は。ホリィさんが僕のことを可愛がってくれるのは、君と一緒だからじゃないか。大事な君と一緒にいる僕だから、ホリィさんは僕のことも大事にしてくれてるだけじゃないか。」
 まだ腹立ちの治まらない承太郎を斜めに見上げて、その表情が、いつも以上に大人びて見える。承太郎は、それに向かって目を細めた。
 「君が素直じゃないから、ホリィさんは僕越しに君を大事にしてるだけだよ。ホリィさんがベタベタしたらいやがるくせに、君はほんとに相変わらずだな。」
 「…チェリーパイのためならおれを敵に売るくらい屁でもねえヤツが何を言う。」
 花京院が途端に笑顔を消して、心外だと言う風にあごを引く仕草を見せた。
 「そんなことはないぞ承太郎、チェリーパイくらいで、大事な君を裏切ったりするもんか。」
 火をつけないまま、結局煙草を掌に握って、承太郎は疑わしそうな表情のままだ。
 「チェリーパイ10個なら考える余地はあるか。」
 「ないね。」
 きっぱりと花京院が言う。今にも胸の前で両腕を十字に組み合わせ、ハイエロファントを呼び出しそうな勢いだ。
 もう一度、往生際悪く、承太郎は手にしていた煙草をくわえようと唇に近づけた。
 「…百個ならどうだ。」
 う、と花京院がたじろぐ。
 ちょうどタイミング良く、台所の方向からパイの焼ける素晴らしい香りが漂って来て、それがよけいに、花京院の思考を乱すことになった。
 それでも、すんでのところで踏みとどまって、前髪に半分表情を隠しながら、
 「百個でも君を売ったりしない!」
 右側の眉の端が、わずかに上がったり下がったりしているのを、承太郎は見逃さなかった。
 互いのことをわかり過ぎている間柄というのも問題だ。そうか、自分はチェリーパイ百個程度の価値しかないのかと思って、逆に考えれば百個の価値があるということだと、いつものように、何もかも自分の都合の良いように考えようとする余裕を、承太郎は取り戻しつつある。
 「まあいい、99個なら、多分おれたちはこのままってことだな。」
 空いた方の手を伸ばして、花京院の手を取る。
 「アップルパイなら、多分千個でも君の方が大事だ。」
 誉められているのかどうか、微妙なところだったけれど、花京院を抱き寄せて髪を撫でて、承太郎はそこで深呼吸する。
 アップルパイ千個なら、悪くない扱いだ。
 そう思いながら、ラズベリーだのブルーベリーだのを持ち出そうかと思ったけれど、花京院が黙って背中に両腕を回して来たので、承太郎はそこで考えるのをやめた。
 先程までの剣呑とした空気はどこへやら。
 ふたりは庭先で抱き合ったまま、しばらく時間を忘れてそうしていた。
 頭の先から肩を降り、腰を撫で、つま先を蹴っていく秋風に乗って、微かに生地の焼けるいい香りがする。
 秋も深まってきて、そろりそろりと冬の足音が聞こえてきそうな昼下がりだ。
 「あっ」
 「どうした?」
 「さっき僕達、スタンド出しっぱなしだったよな?」
 「………だな」
 「ホリィさんにも見えるんだろう?びっくりしなかったのかな?」
 「あんな薄ら寒いギャグやる位だぞ、何とも思ってねえんだろうよ。我が母親ながら、呆れるぜ。ジジィにそっくりだ」
 「あはは、流石、ジョースターさんの娘さんって感じだね」
 柔らかく、距離をとったふたりの間を、ハイエロファントがすっと横切る。
 それは風に乗って遊んでいる様にも見え、花京院はいたずらに枯葉を舞い上げる彼を、目を細めてやさしく見守っていた。
 長すぎる時間、共に過ごした訳じゃない。
 もちろん短い時間でも無いが、こうした瞬間に、承太郎とホリィの重ねてきた時間を感じて、とても幸せな気持ちになる。
 その時間、空間に自分がいて、それを受け入れてくれる承太郎と、やさしい母親。
 大切なものは一緒に共有し、守っていきたい。
 承太郎はそれを表すのが、人より下手なだけなのだ。花京院は慣れない空間にまだ過敏に心を跳ねさせるだけなのだ。
 お互いにそれを感じ取り、不器用に距離を計り、徐々に理解しあっていく。
 お菓子と一緒、時間をかけて、手間をかけて。
 いつしか甘く甘く完成するのを楽しみに。
 「ノリアキちゃーん、承太郎ー。焼けるまでお茶でもいかがー??」
 遠くから呼ぶホリィの声に、照れたように頭をぼりぼり掻く承太郎は、幾分か子供にも大人にも見える。母親を目の前にすると、男は子供にも大人にもなれるらしい。
 声のする方には背中を向けたまま、ややためらいつつ、迷いを捨てた様に承太郎は大きな声でこう告げる。
 「甘ったるいミルクティーにするんじゃねえぞ、お袋」
 “お袋”
 承太郎にしては大きすぎる第一歩を踏み出した瞬間だった。
 花京院は見てて恥ずかしくなるくらいに顔を綻ばせて笑い、思わず承太郎をぼふっと抱きしめる。
 「わかってるわよお、砂糖も入れないからねえ!!」
 パイが焼けるまでのティータイムに何をおしゃべりしようかと、またしても花京院は世界から一歩浮いた雰囲気を漂わせ、承太郎をハグしたまま彼女に返答を返す。
 「今、行きますねー!!!ほら、承太郎、行こう」
 かさかさと枯葉を踏む音が音楽に聞こえそうなほど浮かれた花京院を、先程までとは違う暖かい目で見つめることが出来た。
 ふうと大きく息を吐いて、承太郎はゆっくりと彼の後を付いていく。
 おしゃべりしている内に、ホリィお手製のパイは美味しく焼けて、健康的な一青年であるふたりの胃袋を満たす時もそう遠くない。
 「承太郎にあわせて、あんまり砂糖入れてないのよ」
 可愛く小首を傾げるホリィに、ふたりが照れながら違う方面で赤面したのも、素敵な休日のいい思い出。


2009/11/7−11/8

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