Repeat



 ホリィが、廊下の向こうから承太郎を呼んでいた。
 なんだうるせえと言いながら、承太郎は読んでいた本を置いて部屋を出て行く。
 花京院は、もう少しで終わりそうな宿題がまだ残っていて、日曜の午後だと言うのに、ひとりでテーブルの前であぐらをかいている。
 「承太郎、何かかけてもいいかい。」
 「勝手に探してかけろ。」
 ドアは閉めないまま、大きな歩幅の足音が、ホリィの声のする方へ去って行った。
 今日はスティングもポリスもなくて、承太郎が、花京院のレコードから録ったカセットテープがあるはずなのだけれど、探してそれを聞く気には何となくなれず、ちょっとの間悩んでから、一応承太郎のレコードに手を伸ばした。
 ようするに、勉強に飽きていたので、何か他にすることが欲しかった。
 禍々しいバンドの名前に、ジャケットを手に取りもせずに、次のアルバムを探る。並ぶジャケットの中には、見覚えのあるものもあって、いくつかは耳触りが気に入って、承太郎にテープに録ってもらったものもあった。
 でも何だかちょっと違う。
 レコードから離れて、花京院は、カセットテープの山の方へ視線を移した。こちらの方が数が多い。何か気に入るのが見つかるだろうかと、重ねて積んであるカセットテープに手を伸ばして、ひとつひとつ中身を確かめ始めた。
 レコードのコレクションと、大体中身は一致していて、きちんとバンドごとに並べてあるカセットのどれも、きちんと市販のレーベルに入れ替えられて、そこには、丁寧な承太郎の字で、曲名が全部並んでいる。ラジオから録音したものもあって、番組の名前と日付がきちんと書かれてあった。
 案外まめだなあと、かちゃかちゃと透明なプラスティックのケースの触れ合う音に、まるで小さな宝探しのように、少しだけ気分を高揚させて、花京院はいつのまにか微笑んでいる。
 その中にひとつ、レーベルのない、ただ透明なケースに入っただけのテープを見つけた。
 テープにも何も記されてはおらず、けれど埃をかぶっていないところを見ると、わりと頻繁に聞いているのだと知れて、花京院は、そのカセットをケースから取り出した。
 「何だろう。」
 何の変哲もないその46分テープを、花京院はカセットデッキに入れた。
 ひどく静かなバラードがいきなり始まって、低くて柔らかな男の声が流れ出す。
 普通のアルバムで、こんな曲順はありえないように思えたので、これは承太郎か誰かが作ったテープなのだと花京院は思った。
 透明なケースに、何かヒントでもないかと、手の中の四角くて薄いプラスティックを、曲を聞きながら飽かずに眺めた。
 うるさい音はほとんど聞こえない、優しい音ばかりだ。やっと始まったギターソロも、男の声と同じくらいに尖りがなく、少しだけ伸ばした音が歪むのが、耳に刺さらずに印象的だと思う。
 地味なベースは、ひたすらドラムの音と足並みを揃えて、けれどきちんと、妙に耳に残る。
 素直にいい曲だなと、フェイドアウトする音を追っていた。そしてまた、同じ曲が始まったのに、花京院は機械がおかしくなったかと、思わずデッキの正面に顔を近づけた。
 テープは、機械の中で淀みなく回っていて、怪しげな雑音もなく、ただ同じ曲を、また再生している。
 まさかと思ったけれど、3曲目も同じ曲だった。
 「まさか、このテープ、全部この曲だけなのか。」
 確かめるために、テープを一度止めて、オートリバースでB面を回す。そうすると、もう4回目の、2度目のサビのところから同じ曲が始まった。
 「これ、何だろう・・・」
 つぶやいて、ステレオの前で、膝を抱える。
 地味なバラードだけれど、繰り返し聞くうちに耳に残るフレーズが増えて、次第に、ギターの音と男の声が、とても心地良くなってゆく。英語の歌詞は、丁寧に歌ってはいても、ところどころ少し聞き取りにくくて、けれどLOVEという単語が、サビの部分に頻繁に出てくるところを見ると、曲の印象通りラブソングなのだろうと知れた。
 足音がして、開いたままのドアから、承太郎がトレイと一緒に入ってくる。坐ったままで見上げても、その上に何が乗っているのかはわからなかったけれど、匂いで、いれたてのコーヒーとわかって、花京院は上に向かって微笑んだ。
 「承太郎ー、ノリアキちゃんと、ちゃんとケンカせずに分けるのよー。」
 ホリィの、通りのいい澄んだ声が、まだ開けたままのドアから飛び込んでくると、承太郎は首をひねって、
 「やかましいッ!」
 憮然とした顔つきで、花京院が広げているノートや教科書をよけて、テーブルの上にようやくトレイを置いた。
 湯気を立てるコーヒーのマグがふたつ、ひとつはブラックで、もうひとつはクリームが入って、濃い茶色になっている。ブラックの方を物も言わずに持ち上げて、承太郎が一口すすった。
 「今日のはナッツ入りだとよ。」
 白い皿に、きれいに並んだ、明らかにホリィの手作りのクッキーに、花京院はコーヒーよりも先に手を伸ばした。
 こっそりと目だけで数を数えると、ふたりできちんと分けられるように偶数の20枚。もっとも、食べ始めてしまえば、誰がどれだけ食べたかは、最後の1枚を争う時まで気にかけることもない。
 「何聞いてんだてめー。」
 「知らないよ、君のテープだろう。レーベルも何もなかったよ。」
 空のケースを示して見せると、承太郎が、少しだけぎょっとなったように、眉間に皺を寄せた。
 「勝手に聞いて悪かったかい。」
 「いや、別に・・・。」
 花京院にくるりと背を向けて、やけにゆっくりとドアを閉めると、花京院からは遠ざかるように、さっきまで本を読んでいた場所へ戻る。
 承太郎が、せっかく持って来たコーヒーも手元に置かずに本を読み始めたのを見て、花京院は訊いた。
 「このテープ、この曲だけ入ってるのかい。」
 ちらりと本から上げた視線が花京院とかち合って、承太郎は少しうろたえたようにまた目を伏せる。それからやっと、ああ、と短く質問に答えた。
 挙動不審だ。このテープの中身も、まんま挙動不審だ。
 「どうしてこんなテープ作ったんだ承太郎。」
 ストレートに訊いてみる。承太郎のコーヒーを差し出しながら。
 「別に、深い意味はねえ。たまたまそんな気分だった、それだけだ。」
 「気分て、この曲だけ延々聴きたいって?」
 「・・・まあ、そんなとこだ。」
 「この曲、アルバム持ってるかい?」
 しぶしぶという顔つきで、承太郎がうなずいた。
 「見せてくれよ。」
 承太郎は、ほんの数秒迷ったような素振りで、それから、花京院が手渡したばかりのコーヒーのマグを、持ってろと花京院に渡し返すと、立ち上がってステレオのそばへ行った。
 迷いもなく、並んだレコードの背に指先を差し込んで、するりと1枚取り出して、黙って花京院に差し出すと、代わりにコーヒーをまた受け取って、顔を半分隠すのが目当てで、その場で一口すすった。
 ジャケットから歌詞カードを取り出して、曲名を見る。どれと言われなくてもすぐにわかった。"IS THIS LOVE?"というその曲の歌詞を、花京院はざっと読んだ。
 「案外と、陳腐な内容なんだなあ。ただ、こんな声で歌われると、ひどく切ないけど。」
 去ってしまった恋人に、戻ってきてくれと嘆く歌だ。行かせたりするんじゃなかった、おまえなしでは何もできない、戻ってきてくれるのを待っている、この気持ちは愛に違いない、ずっと探していた愛に違いない、この声が、ずっとこんなことを歌っていたのかと、花京院はまた歌詞を、1行目から読み直す。
 テープはまだ再生中で、花京院はデッキに手を伸ばすと、ずっとオートリバースになるスイッチを押した。それから、歌う声に合わせて、歌詞を目で負う。言葉だけよりも、この音に乗った方が、もっと臨場感が出る。こんな声でこんなことを言われたら、別れる気も挫けるかもしれないと、花京院は耳に流れ込んでくる音のひとつびとつを追いながら思う。
 「声だけじゃねえ。」
 承太郎が、コーヒーのマグを、とんと音を立ててテーブルに置く。そうして、まだ歌詞カードを読んでいる花京院を、自分の手元に引き寄せようとした。
 承太郎を、斜めに見上げて、引きかれるまま上体を傾けながら、けれど耳だけは曲の方へまだ向けたまま、
 「この曲、ぜんぶ、せつねえ。」
 ひどく苦しげに承太郎が言うのに、花京院はうっすらと微笑む。
 承太郎の胸に額をすりつけて、なぜこの曲がこんなに気になるのか、それは自分のせいなのだと、はっきりと悟っていたので。
 大事な人を永遠に失うのだという恐怖を承太郎に与えたのは、花京院だ。あの時、自分の死を潔く受け入れて、満足して逝こうとした花京院を必死で引き止めたのは、承太郎だ。見たこともないような必死の形相で、涙を流しながら花京院を追いかけてきたのは、承太郎だ。その手を掴んだのが承太郎だったから、花京院は、戻りたいと思った。死ぬのも悪くはない、けれど承太郎のそばに戻るのも、また悪くはないと、往生際悪く思って、自分を引き戻すその手に従った。取り戻した光の中にあったのは、治さねばならない大きな傷だったけれど、少なくともそれ以上のものを失うことはなかったし、それ以上のものを間違いなく得たと、花京院は確信している。
 まだ手にしていた歌詞カードを、踏んだりしないように、床の上に、少し遠くに放って、花京院は両腕で承太郎を抱きしめた。
 「ごめんよ、承太郎。僕が悪かった。ごめんよ。思い出させるつもりなんかなかったんだ。」
 背中を丸めて、自分の肩に顔を埋め込んでいる承太郎を、花京院はなだめるためにその背を撫でる。
 「もう、どこにも行ったりしないよ。約束する。」
 承太郎の長い腕が、余るように花京院を抱いて、けれどその肩は今はやけに小さく感じられて、花京院は、自分の腕に、いっそう力を込めた。
 「泣くなよ、承太郎。」
 あの時言ったと、同じことを言いながら、声もなく泣き出した承太郎に肩を貸して、承太郎の重みを受け止めて少し反った上体が、腹に残る傷跡を中心に、少し痛むような気がした。
 「花京院・・・花京院・・・」
 確かめるように自分の名を呼ぶのに、うんうんと応えてやりながら、自分の、今は癒えた傷と同じほど、あの時承太郎は、自分の死によって傷ついていたのだと思い知って、自分の傷跡のひきつれた皮膚と、承太郎の心の傷跡が結合しているような、そんな想像をする。
 あの時繋いだ手は、今も繋がれたままだ。
 承太郎の広い背を撫でて、肩にしみ通ってくる承太郎の涙のあたたかさに、自分は生きているのだと、承太郎に生かされたのだと、花京院は改めて思った。
 ここは承太郎の部屋で、承太郎が好きだという曲が今流れていて、テーブルには、花京院がやりかけたままの宿題と、ホリィの焼いたクッキーが並んでいる。そして花京院は今、ここにいて、承太郎を抱きしめている。生きているというのは、大層なことではなく、こんなささやかな日常の積み重ねなのだ。そして花京院のその日常の中に、承太郎がいるのだということを、こんなにも強く感じたことはなかった。
 承太郎が泣き止むまで、ずっとこのまま抱きしめていようと、花京院は、ありがとうと、まだ言っていなかった言葉を、聞こえないように小さくつぶやいた。


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