Resue You



 体を漂わせて、まだ、うっすらと目は開いていた。
 虹のかかる空に、蝶が飛んでゆく。幻覚かもしれないと思いながら、けれどまばたきのために目を閉じれば、もう二度とその目が開かないような気がして、承太郎は、落ちかけるまぶたを必死で引き止める。
 徐倫との結婚を許してくれと言ったイカレた男はどうしたろうかと、思っても首も動かせず、ぼやける視界に映るのは、奇妙に鮮やかな色彩の帯だ。
 自分よりは一回りは若いだろう男の、真摯な瞳の色を思い出していた。
 何よりも大切になってしまった、ただひとり自分と血を分ける娘を、そう簡単にくれてやると、言うとでも思ったのか。そんな憎まれ口を叩いてみる。それでも、あの瞳の色は、とても真剣だった。だからこそ徐倫も、そこに希望の調べを見出して、いいわと答えたのだろう。
 それは、若さという、愚かさゆえのものだと、今の承太郎なら、ふたりに向かって言ってしまえるのだろう。けれど、その若さをうらやんでいる自分も、確かにいる。
 いや、うらやんでいるのは、若さではない。あの、瞳からあふれていた、真摯さだ。
 真摯な恋。彼は、確かに恋をしている。承太郎のひとり娘徐倫と、確実に恋に落ちている。
 おれもそうだった。承太郎は、もう呼吸にさえ動かない唇を、わずかに震えさせた。
 あの瞳に見覚えがあるのは、そんな瞳を、向けられたことがあるからだ。そして、そんな瞳を、同じほどの熱を込めた瞳で、見つめ返したことがあるからだ。
 彼の、あの瞳。静かでいて、荒々しく、穏やかで、熱っぽく、あんな瞳で見つめられて、平静でいろという方が無理だ。自分に向かって、君に恋をしていると、唇よりも雄弁に語っていた、あの瞳。そして、それを受け止めて---あるいは、実はもっと以前から---、輝き始めただろう、自分の瞳。どちらも、ブレーキの利かない真剣さだけに満ちていた。
 花京院。
 もう、一体何度その名を呼んだだろう。応える声がないと知っていて、呼んでいたのは、ずっと彼だけだ。
 失うということすら知らずに、恋に溺れることさえ許されてはいなくて、それでも、ふたりは真剣に恋をした。その先にあるのが絶望だとは知らず、あの時、触れ合うことさえせずにふたりは、この世の誰にもそうはできないほど、深く恋に落ちていた。
 あれが唯一のものだったのだと、失った後に気づいても、ひとり空の手を見下ろしながら、取り戻せるものは何もない。
 思い出すらろくにない恋を引きずって、気がつけば、娘は、あの時の彼よりも承太郎よりも、年上になってしまっている。
 もう、そんなに昔のことなのかと、瞳だけを動かして、空を飛ぶ蝶を追い駆けた。
 そんなにもおれは、ひとりで待ち続けたのか。そんなにもおまえは、ひとりで待ち続けたのか。
 アナスイの瞳と声を思い出す。許すという一言を、承太郎から引き出そうと、必死だったアナスイの表情が、彼の面影と重なる。徐倫に恋をしていると、徐倫が欲しいと、だから許すと一言言えと、そう言ったアナスイにとって、その恋は唯一無二なのだろうか。
 承太郎にとっての花京院が、そうであったように。
 目の前で、時が流れてゆく。凄まじい速さで、時間が流れ去ってゆく。
 時の流れの中で、ひとの存在というのは、なんと無意味なものかと、そんなことを考えながら、承太郎はゆっくりとまばたきをした。再び開いた視界に、まだ蝶は舞っていて、けれど薄れた虹の色が、もう色の境い目もわからないくらいほどに、にじんでぼやけていた。
 徐倫。娘の名をつぶやく。父親として、精一杯に示したつもりの愛情が、不器用すぎて届かなかったことを、今ひどく後悔する。こんなことになる前に、救い出してやれなかった自分の無力さに、歯噛みする。先行きはわからないにせよ、恋をしているということを、受け入れてやれなかったことを、愚かだったと思う。
 生きている人間たちならば、おまえがいちばん大切だった。何よりも、自分の命を賭けても、救いたいと思っていた。いつも。
 それに、力が足りたかどうか、今はわからない。
 おまえを救いたいと思っていたのは、あの時、花京院を救えなかったからだ。もう、失うのはたくさんだ。失い続けながら生き続けるのは、もうたくさんだ。
 あの恋の形見は、花京院の腹に空いた穴と、承太郎の胸に空いた、花京院という大きな空洞だけだった。何ものも埋められないその穴を、風と時間が通り過ぎてゆく。そうして、承太郎の骨を鳴らす。通り過ぎながら、承太郎の骨と肉を削り、承太郎は、少しずつ少しずつ、内側から朽ちていた。
 痩せ細り、乾いて、自分の骨の鳴る音を聞きながら、その穴に向かって、花京院と、呼びかける。返事のあるはずもないその名を、ずっとずっと、呼び続けていた。
 もう、終わりにしてもいいか。
 承太郎は、よろよろと腕を上げた。宙に向かって腕を伸ばして、そして、その腕が、指先から塵になるのを見た。
 時が流れ続けている。何もかもが朽ち果て始めている。これからゆく先がどこなのかわからず、胸の空洞に、少しずつ絶望が満ちてゆく。
 あの時も今も、おれは無力だ。何も救えない。大事なものを、何も救えなかった。
 こめかみを、涙が流れた。
 塵になった腕から骨が剥き出しになり、それもじきに、ぼろぼろと崩れて消えた。
 花京院。唇を動かして、また呼んだ。
 来てくれるか、おれのところへ。連れて行ってくれるか、おまえのいるところへ。
 今はもう、それだけが希望だった。あるいは、もうずっと長い間、それだけが承太郎の希(ねが)いだったのかもしれない。
 ついに力果てたまぶたが、最期のまばたきを終えて、承太郎は目を閉じた。細まる視界に最後に見えたのは、鮮やかな蝶の羽の端で、それは、翠の光に包まれて、輝いていた。そして、まぶたの裏の闇の中へも、その翠の光は差し込んできて、承太郎は、その見覚えのある色に少し驚いて、呼吸の止まる一瞬前に、見上げるような仕草で喉を伸ばした。
 承太郎。
 翠に輝く声が、確かに呼んだ。
 花京院。
 承太郎。
 暖かな光に包まれるのを感じて、承太郎は、けれどもう目を開けることができない。
 自分を抱き上げようとする腕に、力なく肩を預けて、耳元で、慰撫するようにささやく声を聞く。
 もういいんだ。終わらせよう。承太郎。
 胸の空洞の辺りに、掌が乗る。まるで、その穴をふさごうとでもするように、その手が、もう動くことない承太郎の胸を、そっと撫でる。
 翠の光が、自分の中に満ちてゆくのを感じて、承太郎は、声にならない声で、必死に、あの時伝えられなかったことを、伝えようとする。
 花京院、おれは、おまえが---。
 その先を、掌が止めた。いいんだと、あやすように、承太郎の、色を失い始めた唇に指先を乗せて、しぃっと、子どもにそうするように、承太郎を黙らせる。
 僕も、君が好きだよ、承太郎。
 耳を寄せた胸らしきところに、鼓動を感じることはなく、承太郎は、何もかもを悟って、おとなしく体の力を抜いた。
 あの時、言葉にできないまま終わってしまった、あの時の気持ちを、ふたりはようやく伝え合って、過去形にする必要のないところへたどり着いたのだと、ひどく安らいだ気持ちに満たされて、承太郎は翠の光の導くままに、すでに塵となってしまっていて今はないはずの手足を伸ばす。
 胸の空洞は、翠の光に満たされ、もう二度と、骨の鳴る音を聞くことはないだろう。
 承太郎と、自分の名を呼ぶ声をもう一度聞いて、承太郎は、二度と覚めることのない眠りの中へ、ゆっくりと落ちて行った。


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