朝陽のあたる場所


 寝返りを打って、もう半ば目覚めながら、隣りの承太郎の方へ腕を伸ばす。そこへ、広くて硬い背中があるはずだった。
 指先で探ると、ぬくもりは確かにあるのに、承太郎に触れない。完全に目覚めたくはない花京院は、まだ目を閉じたまま、もう少し先へ指を伸ばした。
 掌に、もう少し大きな掌が重なる。
 「・・・起きてたのか。」
 こちらを向いて、頬杖をついている承太郎は、今ははっきりと見える。まだ確かに薄暗いけれど、何もかもをあらわにする程度に、夜の明ける頃だった。
 もう一眠りしようと思えば、できなくはない時間だ。そのまま承太郎の肩辺りに頭を乗せて、目を閉じてもいいなと思った花京院を、承太郎が自分の下へ敷き込んでゆく。
 「もう、寝ないのか。」
 往生際悪く、自分の上に重なってくる承太郎の胸と自分の胸の間に、両腕を差し入れて、花京院は、小さな声で訊いた。
 「目が冴えちまった。」
 耳のそばで囁かれて、そのまま耳朶を承太郎の唇がはさみ込むのに、眠りから醒めたばかりで体温の高い体が、たやすく熱を増す。
 まだ明るくはない部屋の中で、まるで海の中のように、薄闇の青さばかりが目に入ってくる。天井を見上げ、承太郎の躯を受け止めて、そう言えば、この色はスタープラチナに似ていると、花京院は、承太郎のために膝を開きながら、そっと息を吐く。
 静かに、と思う。朝早くではあるけれど、もう誰かが起き出して、ごく普通の朝を始めていても、決しておかしくはない時間だ。
 音を立てないように、声を殺して、さっき触れたいと思っていた承太郎の背中に、花京院は両腕をしっかりと回した。
 夕べ熱を分け合って、そのまま眠ってしまった名残りが、躯の奥にくすぶっている。激しさはなく、ただゆるやかに、なぶられるように躯を揺すられて、乾いた皮膚が、熱い汗をゆっくりと呼び返しつつあった。
 慎み深い花京院は、こんな時には絶対に明かりを許さないから、こんなふうに、自分を見下ろす承太郎が、はっきりと見えることは滅多とない。濃い深緑の瞳が、濡れている。そこに、小さな自分の姿が揺れている。自分の瞳も、同じように承太郎を映して、溺れそうなほど潤んでいるのだろうと思うと、不思議な気がした。
 どこか、思いつめたような表情で、承太郎が、近々と花京院を見つめている。こんなふうな剥き出しな花京院は、確かに珍しくはあったから、今は腹の傷を気にすることもあえてせずに、花京院は、見られている躯をよじることもしないまま、承太郎が見たいに任せることにした。
 承太郎の、大きいくせに優美に動く指先が、腿の裏側や内側を探る。誰にも触れさせることのない場所だ。見られることさえ、ほとんどないその場所に、ごく当たり前のように、承太郎が触れている。日焼けするすきもないような、制服の高い襟できっちりと包まれている花京院の首筋の筋肉と骨の形を、承太郎はきっとすっかり覚えてしまっていることだろう。
 体の表面だけではなく、躯の奥深くを、承太郎の指が、まるでひっそりとしたノックのように、探るように、確かめ始める。入り込まれる時よりも、去ろうとする時の方が、背筋の奥にしびれを残す。ベッドのきしみを気にして、腰や背骨のつけ根の辺りが動くのを、花京院はやや必死に抑えようとする。
 明るくはないのに、暗いわけでもない。その中途半端さが、花京院にいつもの慎みを忘れさせて、けれどごく普通に朝が近いのだと言う自覚が、もれる声を殺させる。静かに、まるでひそか事のよう---事実、そうではあるにせよ---に、音を消して抱き合う。
 承太郎の視線は、暇さえあれば、花京院のみぞおちの辺りをさまよっていた。
 奇形の巨大なヒトデが張りついたような、のっぺりとした皮膚は、つるつると指先に滑る、つやを持った布を思い起こさせる。それが、花京院の壊された体を必死で再生した痕なのだと、そう思うたびに、承太郎は言いようもない憤りに、鎖骨の後ろの辺りが、ぎりぎりと痛んで爆発しそうに思えた。
 あばらを1本失って、健康な皮膚と内臓を少々削がれて、それでも、こうして抱き合えば、あたたかい花京院の躯は、確かに生きている。
 その熱をもっと確かめたくて、承太郎は、繰り返し花京院を引き寄せる。
 まだあたたかい。昨日よりももっと熱い。ふさがれた傷が、あの時確かに晒していた、花京院の血の色と内臓の感触、その中に、承太郎は確かに今いる。親密な形で繋がるということは、傷つきやすさを分け合うことだと、知ったのは花京院を抱き寄せてからだ。
 背高の、厚い体---ふたりとも---の、けれどいちばん傷つきやすい部分を互いに晒して、こすり合わせたり、舐め合ったりしながら、もっと近く、もっと深く繋げ合うことはできないのかと、焦燥にも似た気分に追い立てられながら、ふたりがひとりではなく、別々の実体を持ち、そして、だからこそこうして、互いの体温を求めて抱き合えるのだという矛盾に、素直に傷つくことができるほど、聡明ではあっても、まだ若く稚ないふたりだった。
 抱き合う間に、部屋の中に明るさが増してゆく。
 隠すこともなく、承太郎の下で胸を開いて、花京院は、投げ出した自分の指先を見つめながら、以前の強靭さを少しばかり失った自分の躯のことを、また悲しく思った。そのことが、承太郎に負い目を感じさせているということが、悲しくて、悔しくて、だからこうして抱き合う時に、明かりはつけずに、いつも闇の中に、この大きな傷跡を沈めてしまう。触れればわかるけれど、見えないなら、ないと思い込むことも、決して不可能ではないのだ。
 視力を一時的にせよ失ったことで、見えないということが、いかに現実味を失わさせるか、身を持って学んだ花京院は、できるだけ腹の傷を承太郎の視線から隠し、滅多と口にもしない。その瑕瑾によって、自分が傷ついているからではなくて、承太郎を傷つけるからだ。承太郎は、花京院が命を落としかけた---あるいは、落とした後で、戻って来た---ことで、自分が傷ついたのだと言うことを素直に認める代わりに、花京院がそれによって傷ついて、そのことで、自分は苦しんでいるのだと、自分のせいで花京院は傷ついたのだから、これは罰なのだと、そう思い込もうとしている。
 躯を重ねると言うことは、そういうことだ。決して口にはしない心の内側を、躯の内側を触れ合わせることで、そうとは気づかずにあらわにしてしまう。弱さばかりを剥き出しにして、けれど、その弱さこそがいとしさの理由だと、ふたりは一緒に、そしてまた決して口にはせずに、同時に悟っている。
 傷跡は、ただの傷跡だ。多少見映えが悪いのは確かだけれど、だからどうだということもない。ただ、ああ、死ぬ目に遭ったなと、案外と懐かしく思い出す理由になる。今生きているからこそ、この傷跡を見ることができるのだと思えば、承太郎へのいとしさに似た気持ちが、その痕に向かって湧きもする。
 ゆるく浅く躯を繋げて、まるで果てることを避けるように、承太郎が、花京院を抱きしめたまま、ほとんど動かない。
 大きく開いた膝の間に、承太郎のぶ厚い体を抱え込んで、押し開かれた躯にかかる負荷が、けれど今は心地良かった。
 抱き合うことそれ自体が快楽に即繋がるほど、まだ慣れてもいなければ馴染んだ躯でもないけれど、ただ、いとしいと思える誰かの重みと形で、自分の中が満たされているというのは、わかりやすく幸せだった。
 明るくなるよりもゆっくりと、承太郎は、花京院の中へ沈み込んでいる。熱いけれど、溶けそうなほどではなく、まどろみに似た生温かさに全身を包まれて、花京院の血の流れと鼓動を、じかに感じながら、そこへ向かって、自分の血が流れ込んでゆくことを錯覚しながら、もっと見えない何かまで、すべて花京院の中に注いでしまえればいいと、願っても仕方のないことを、また考える。
 どれほど深く繋がっても、そのままで一生いられるわけはない。ひとつ身ではないふたりは、だからこそ、別々にある心を重ねようと、こうやって互いへのいとしさを表すこともできる。けれど、それで満足できないのはなぜなのだろうかと、結局そのまま、承太郎はゆっくりと花京院から躯を引いた。
 薄闇は、今は白さを増して、目を凝らす必要もなく、花京院がすべて見えた。猛々しさはなく、穏やかに形良く盛り上がった胸筋と、触れれば鋼のような、肩と二の腕と、首筋から掌を滑らせて、肩と胸に触れた後で、花京院の様子をうかがいながら、みぞおちの傷跡に、掌を乗せる。
 なめらかな皮膚はそこだけ薄く、他に比べれば弾力も少ない。指を押しつければ、そのまま中まで沈み込んでしまいそうに、柔らかくどこまでも、承太郎の指の形に沿ってゆく。
 承太郎が沈み込んでしまいたいのは、ほんとうはそこだ。
 掌の傍に頬を寄せて、承太郎は、花京院の肋の終わる辺りに横顔を押しつける。こんなに傷跡近くに顔を寄せても、嫌がる様子のない花京院を、少しばかり不思議に思いながら、掌全部では隠れない、やや赤みの強いその皮膚を、承太郎はゆっくりと撫で始める。
 すでに明るくなっている部屋の中で、その皮膚は、光を集めていた。
 なぜこんなにもいとしいのかと、まるであやすように自分の髪を探っている花京院を、承太郎はそこから見上げた。何も隠さない花京院の、眉から頬近くにかけて、そこにも傷跡が走る。承太郎の体も、よく見れば傷だらけだ。
 完全ではないからこそ、他の誰を求めるのか。どれほど近くに躯を寄せても、決してひとつにはなれないというのに、その虚しさを味わうことを知りながら、その空しさを埋めたくて、また抱き合うことを繰り返す。
 花京院のみぞおちから手を離し、胸を撫で上げてから、喉を覆って、それから、唇に触れた。承太郎の指先に、花京院が唇を開いて、舌先を滑らせた。
 濡れた唾液の感触が、流れ出す血のようにも思えて、その舌の熱さに、別の何かを思い出しながら、承太郎は、明るすぎる陽を消すために、口づけと一緒に、目を閉じる。
 求めるためではなく、ただ、そこに在るのだと確かめるための、どこか焦燥に似た承太郎の必死さを、花京院は薄く微笑んで受け止めて、何もかもが承太郎に沿うようにと、脚を絡めるように持ち上げて、そして、腹の傷跡を、承太郎の下腹の辺りにこすりつけようとした。
 この傷が、承太郎につけられたものならよかった。この傷が、承太郎にも、そっくりに写せたらよかった。
 僕か君か、わからなくなってしまえればいい。
 人を分かつ、皮膚という境い目の、いちばん薄いところを探して、無駄なのだと知っていても、そこで汗を交じり合わせることをやめられない。
 重ねた唇の間で、舌と唾液が行き来する。朝陽に照らされて、上がってゆく部屋の温度と同じに、ふたりの体温は下がることを忘れてしまっていた。
 時計がかちりと音を立てて、針をふたつ、1秒だけ重ね合わせた後で、目覚めるべき時間を知らせるために、不粋な音を立て始める。
 そこへ腕を伸ばしかけた承太郎を、花京院は自分の上へ近く引き寄せたまま小さく首を振って、その音を止めたのは、気配もなくシーツの端を這って行ったハイエロファントだった。
 静かになった明るい部屋の中で、膚の触れ合う音だけが、ひそやかに続いている。

Photo by CAPSUL BABY PHOTO
* 2007年9月、イベントにて無料配布。

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