戻る

同じ空違う空

 革靴の中に爪先を滑り込ませてから、かすかな違和感に、遠い足元に目を凝らした。
 靴紐がほどけているのだと気づくのに、三秒かかる。ちっと舌打ちをして、遅刻など痛くもかゆくもない承太郎は、上がり框に腰を下ろし、ようやく目の前に近づいた足元に手を伸ばし、乱暴に靴紐を結び直した。
 立ち上がって、かかとを強く踏みしめてから、結んだ紐の具合がちょうどいいことを確かめて、今度こそ外へ出るために玄関の引き戸を開ける。そこでまた、ちっと小さく舌を打った。
 雨だ。薄暗い空から、ぽつりぽつりと、小さな水滴が降って来る。それを見上げ、帽子のつばに当たって音を立てるのを避けるように、一歩出掛けた足を中へ戻し、承太郎は履いたばかりの革靴を、濡れても構わない運動靴に履き替えるために、肩を中へ向かって回す。
 そうしながら、呼吸でもするような自然さで、何も考えずにスタープラチナを発動させて、時を止めようとしていた。
 これ以上学校に遅れるのがまずいと思ったわけではない。靴を履き替える間に、雨足が強くなったら面倒だと、頭の片隅で思っただけだ。
 息を吸い込みながら時を止めて、スタープラチナは、もう姿すら現さない。家の中に完全に戻ってしまった瞬間に、まるで地震のように、足元から震えが這い上がって来る。どくんと、心臓が跳ねた。
 空気が揺れていた。承太郎を押し包み、揺さぶり、全身が四方に引っ張られる。めまいが首の後ろを襲ったけれど、正確には、それはめまいなどではないのだと、承太郎は知っている。後ろに引っ張られる力に、背中から倒れてゆく。床には触れずに、体が、そのまま沈み込んだ。うねうねとうごめく、何かの塊まりの中を、体が無理矢理に通り抜けてゆく。目は開いているけれど、見えるのは光の洪水と、その合間に弾ける陰ばかりだ。
 悪意は感じられない、けれど不安を誘うその中を、承太郎は凄まじい速さで落ちてゆく。
 目の前に見える光の量が次第に減り、代わりに、突然、背後から、いっそう明るい光が、白を通り越して、銀色に輝きながら、承太郎を包み始めた。
 明るさに誘われるように首を傾け、まぶしさに目を細めた瞬間、体も感覚も、正常に戻っていた。足は地に着いている。何事もなかったように、制服が乱れた様子もない。けれど、目の前に見える風景に、承太郎は軽く頭を振り、確かめるように目を凝らす。
 ここはどこだ。
 何の変哲もない、大きくはない道路。その歩道に、承太郎は立っている。人通りはなく、すぐ傍には、小さな、けれど見掛けの派手な店がある。知らない場所だ。こんな場所は、見たこともない。家や学校はどの方向だろうかと、きれいに晴れている空の色を振り仰いでから、承太郎は周囲をもっとよく見渡そうとした。
 そうして、声がした。自分の名を呼ぶ、声がした。
 「承太郎・・・。」
 店の向こう側の端から歩いて来るその男が、承太郎を呼んだのだとわかる。自分の目の前で足を止め、驚きに目を見開いている男を見下ろして、承太郎も、同じように目を見開いた。
 「……花京院。」
 ここはどこだ。承太郎はまた思う。
 「……てめーは、ほんとうに、花京院か。」
 花京院という、珍しい名前を、その男はそのまま受け取って、そこにある言葉をつかみ出そうとしているのか、喉の辺りに掌をさまよわせる。
 「君こそ、ほんとうに、承太郎なのか。」
 承太郎と言う、これも今時には珍しい名前を、男は───花京院は、すらりと口にした。
 「一体…。」
 同じ言葉を、ふたりは同時に口にした。
 目の前にあるものが、互いに信じられない。
 花京院が、承太郎の顔から、ゆっくりと肩や胸や、制服の長い裾の辺りへ順に視線を滑らせてゆく。唇が震えていて、隠せない驚きに、頬が青ざめていた。
 承太郎の憶えている花京院は、こんな風にうろたえた様子など見せたことはなかったから、承太郎はそれを珍しいものだと観察する視線になって、それからようやく、花京院が学生服を着ていないことに気づく。
 この男を花京院と最初に気づかなかったのは、白づくめのこの服装のせいだったのだと、悟ってから、その意味を理解しようとして、脳の中で、そんな馬鹿なとつぶやく声がしたのが聞こえた。
 襟の高い、裾の長い薄手のコート、喉元まで前をきっちりしめてはいないけれど、その下に着ている黒いタートルネックのシャツは、わずかしか見えない。癇症に切れそうな折り目のついたズボンは、真っ白で汚れなど見当たらない。靴は、爪先に傷ひとつない、黒の革靴だ。
 旅の間、いつだってできる限り身綺麗にしていた、花京院らしい姿だった。
 そして、目の前の花京院が、少年の空気などどこにもまとっていないことに、承太郎は気づいていた。学生服を着ていないせいではない。確実に空気が違う。これは確かに花京院だけれど、承太郎の知っている花京院ではない。
 「ここは、どこだ?」
 内心の動揺とは裏腹に、承太郎はいつものようにズボンのポケットに両手を入れ、やや胸を張る。
 ようやく花京院が、震えの止まったらしい手を下ろし、少しあごを引いて、低い声で答えた。
 「ここは、杜王町だ。僕はあさって、ここから去る予定だ。」
 「杜王町?」
 聞いたこともない名前に、承太郎は濃い眉をしかめる。そして、ここから花京院が出て行くと言っているのが、この町に住んでいるという意味なのか、それとも何かあって滞在していたという意味なのか、どちらかと思うけれど、うまく言葉にはならない。
 それよりも何よりも、訊きたいことは他にもある。それはどうやら、この花京院も同じようだった。
 てめーは誰だ。確かに花京院だが、どうやら、おれの知っている花京院ではないようだ。そんなことがありえるのか。
 承太郎のその問いを、花京院が先に口にした。震えてはいなかったけれど、喉先だけの、細い声だった。
 「君が、承太郎であることは間違いないようだが、僕らはどうやら、互いを知らないようだ。僕の知っている承太郎は、学生服を着ているような年齢ではないはずだし、そもそも──」
 そこで、花京院は言葉を切った。言いよどむように、また唇をわずかに震わせて、いつの間にか体の横で握りしめている拳も、かすかに震えている。
 「──君は、死んだはずだ、あの旅が終わった時に、君は確かに死んだはずだ、承太郎。」
 寄せた眉の間に、そこを射抜かれたような衝撃があって、やっと自分の今いるここが、自分の知っている場所ではないのだと、足元から震えが這い上がって来る。
 時を止めた時に、何がが起こったのだ。その何かが、承太郎をここへ運んだのだ。承太郎があの時に死んだという、そして花京院が生き延びたらしいここへ。
 「どうやら、おれには詳しい話を聞く権利がありそうだな。」
 あごを突き上げて、花京院に対してそんな必要があるはずもないのに、承太郎は威嚇でもするように、低めた声を出す。
 かかとを支点に爪先を開くと、革靴の下で、じゃりっと音がした。
 その音につられたように、承太郎の足元へ視線を落とした花京院が、硬張っていた表情を、なぜかほっとゆるめる。
 「君は相変わらず、靴紐の結び方が下手だな。」
 言われて、自分の靴を見て、承太郎も、これは確かに花京院だと思う。自分の足元にしゃがみ込んで、靴紐を結び直してくれた花京院の、背骨のはっきりと見える背中を思い出す。裾の長いあの制服、穴が開いて、血まみれになっていた。流れた血と肉の分だけ、軽くなっていた気がした、あの体だった。
 「お互い、つもる話がたくさんありそうだ。」
 こっちへと、招くように花京院が手を上げる。一緒に歩き出しながら、承太郎は、もう一度頭上の晴天を、短く見上げた。


 なめらかに車を運転する花京院の横顔を何度も盗み見て、着いたところが大きなホテルだったのにも驚いたけれど、輝くように明るいロビーを、ほとんど空気も揺らさずに歩いてゆく堂々とした姿が、何度も感じている、少年ではないこの花京院のその印象を、いっそう強く承太郎の中に刻み込む。
 日本人の中に混じれば、充分に背高い、覚えているよりも厚みを増して見える肩の辺りの線が、ほんの一瞬、承太郎を気後れさえさせる。
 あの頃は、隣りか、後ろにいた花京院が、今は承太郎の前を歩いている。
 「まさかここに住んでるわけじゃねえだろうな。」
 エレベーターで上階へ向かいながら、ぼそりと訊いた。承太郎を見上げた──見覚えのある角度だ──花京院が、あやすように微笑んだ。
 「この町へは、SPWの要請でスタンド使いを追って来たんだ。その用もつい二、三日前に終わってね、今は荷物をまとめているところだ。」
 「SPWのために、働いてるのか。」
 「……君がいなくなって、ジョースターさんもすっかり気落ちしてしまってね、ポルナレフは人の言うなりになるような男じゃないし、そういうわけで、旅の後は僕がSPWの使いっ走りをやってるよ。」
 死んだという言葉を、わざわざ避けているのだと、変わらない表情から、けれど承太郎には読み取れた。使いっ走りというのは、花京院お得意の謙遜に違いなかったから、SPWは花京院を便利に使っているのだろうと、承太郎は勝手に理解する。気落ちしてしまったジョセフというのも想像できないけれど、スタンドに関係した事件を、SPWのためにひとりきりで追っている花京院というのも、承太郎には想像しがたかった。
 エレベーターを降りて、一度角を曲がったところで、花京院が半ばのドアの前で止まり、取っ手の辺りで何かいじってから、開いたドアの中を、承太郎に向かって手先で指し示す。
 「どうぞ、散らかってるが、君なら遠慮は必要ないだろう。」
 部屋の中は、思ったよりも明るかった。花京院が散らかっていると言った通り、あちこちにいろんなものが積み上げてあり、床の上には大きなスーツケースが広げたままになっている。その中には、すでにまとめた後らしい書類や本が詰められていて、雑然としているはずなのに、秩序の感じられる、花京院らしい部屋の中だった。
 大き目のベッドから少し離れた位置に、応接間のようなスペースがあって、ソファが並んでいる。3人掛けの真ん中辺りを、承太郎に向かって指し示す。そうしながら花京院は、そこへ承太郎が坐れば向かい合う位置になる小さなカウンターへ行き、顔だけで振り返って、コーヒーでいいかい、と訊いた。
 うなずいて、部屋の備え付けらしいコーヒーメーカーの準備をする花京院の背中を、承太郎は、やっと観察するだけの余裕を取り戻しつつあった。
 背中の表情は同じに見える。今前にわずかに折れている首筋は、あの頃より線がはっきりしているように見えた。肩も同じだ。ただ、声が少しだけ違う。承太郎が覚えている、時々言葉の途中がかすれてしまうことのあった、あの花京院の声とは、深みが違う。同じ音なのに、トーンが、かすかに違う。これは、間違いなく大人の男の声だ。
 この花京院は、一体いくつなのだろうかと、ずっと考えていたことを、承太郎は改めて考えた。
 あの学生服を着ていないということは、少なくとも高校は卒業した後のはずだ。こんなホテルに滞在しているというのなら、まだ大学生ということもなさそうだった。第一、SPWのために働いているというのなら、恐らく大学も卒業した後ということになる。二十の半ば辺りかと思って、今の自分よりもそんなにも年上の花京院というのが、承太郎には今ひとつぴんと来ない。そもそも、あれから年を取ってしまった花京院を、承太郎は思い描いたことすらなかったのだ。
 そうするには、まだ、花京院を失った記憶が生々しすぎる。
 あの時失った花京院が、今、承太郎の目の前にいる。あの時とは少し姿を変えて、どうやら、場所すらも変えて、けれど確かに、承太郎の目の前にいる。
 立ち上がって、ほんとうにそこにいるのかどうか、触れてみたいと思った。肩に手を乗せて、その手に向かって頬を傾けて来る花京院の仕草を、承太郎は死ぬほど懐かしいと、ふと思った。
 承太郎と話をするのを避けるように、花京院はコーヒーがはいるまで、カウンターから振り向かなかった。
 「君は、元気なのか?」
 コーヒーのカップを手渡しながら、花京院が承太郎の目は見ずに訊く。
 「どういう意味だ。」
 承太郎の傍には来ずに、コートも脱がないまま、花京院はわざわざひとり掛けのソファに腰を下ろした。
 「……僕の憶えている君は、ずいぶんひどい状態だったからな。」
 承太郎を見て、目を細めた花京院の瞳の表情が、すでに死んでいるという承太郎の姿を映している。花京院の死に様を思い出して、ここでの自分も、大方同じような具合だったのだろうと、承太郎は思った。
 コーヒーを飲む振りをして、その陰に表情を隠した。
 「おれの覚えてるてめーも、ずいぶんなもんだったがな。」
 花京院が、足を組んだ上にカップを乗せて、死んだ痛みを想像してではなく、その死に様を目にする羽目になった承太郎に同情するように、かすかに顔を傾けて、包み込むような視線で、承太郎を見る。
 花京院を失って感じた自分の痛みを、この花京院も、自分を失って感じたのだと、言わずに通じる不思議が、不思議とも思えない不思議さだった。
 やはりこれは花京院だと、自分の知っている花京院ではないけれど、これもまったく同じ花京院なのだと、ぶり返す痛みに、思わず胸の辺りを押さえたくなる。
 背中へ抜ける、腹に空いた大穴と、そこから流れる血とちきれた肉と、白い破片は、あれは砕けた骨だったのだろうか。水に浸って濡れた体は、そのせいではなく、冷たかった。けれど、制服の下に、生きていた人間の確かなぬくもりがあって、だから承太郎は、花京院があの時に永遠に喪われてしまったのだと、心のどこかで信じられずにいる。
 承太郎のそんな想いが、承太郎をここへ連れて来たのだろうか。承太郎を失った花京院と引き合って、喪われた何かを忘れられずに求め続ける気持ちが、ふたりを、ここで出会わせたのだろうか。
 小さく、花京院がため息をこぼした。
 ソファの背に体を添わせ、これは花京院だという遠慮のなさで、承太郎は手足を投げ出すように長く伸ばした。
 「てめーは、今いくつだ。」
 「僕かい? もうすぐ二九になる。君は、まだ高校生なのかな、その様子だと。」
 承太郎は、唇の端でだけちょっと驚いた。大人びていたあの頃を思えば、この花京院はむしろ若く見える。学生というには落ち着き過ぎて見えるけれど、まさかもう三十近いとは思いもしなかった。
 「ってことは、今ここは一九九九年ってことか。」
 花京院がうなずく。
 十二年だ。承太郎を失って、十二年も経っている。その十二年を、この花京院は一体どんな風に過ごして来たのだろうかと、花京院を喪った自分が、同じように過ごすのだろうこれからの長い時間を、承太郎は思う。
 その空虚さを想像して、少しだけ、寒気がした。
 「君は一体、どうやってここへ来たんだ。」
 興味よりも警戒を薄く浮かべて、今度は花京院が訊く。どこかの誰かに攻撃されたせいかと、そう考えているのだとわかる。わかることに、承太郎は見えないように自嘲を浮かべた。
 「今朝、家を出ようとして、ちょっと時を止めた。気がついたらあそこに立っていた。そこにてめーがやって来た。てめーはなんで、あそこにああタイミング良く現れやがった?」
 花京院相手だと、気遣いも必要ないから、ぶっきらぼうに要点だけを並べる。それを咎める視線などもちろんなく、花京院は承太郎の疑問に答えた。
 「まるでオカルトだが、君の声が聞こえた。確かに僕を呼んでいるように思えたから、足の動くままに進んだら、あそこへ着いた。そこに、君がいた。」
 承太郎に負けずに、花京院も簡潔に言葉を並べる。
 承太郎の声と話し方に、それが証拠だと言う確信が湧いたのか、花京院もソファの中に体を伸ばした。
 ふたりはどちらも今は胸を開いた姿勢で、斜めに向き合って、けれどそこから互いに近づこうとは、まだしない。確かに、お互いではあるけれど、違うお互いなのだと、そうわかってしまったから、容易に近づけない。何の心配もない。けれど、迂闊に近づいてしまうのは、攻撃を恐れているというわけではなく、別の危険があるのだと、ふたりは悟っている。
 なぜ危険なのか、そこからは目をそらしているのも、ふたり一緒だった。
 「君も、時を止められるんだな。」
 君も、というのが、ここにいた自分のことを指しているのかどうか、わざわざ尋くことはしなかった。
 「あの道は、スタンドとは関係ないんだが、すでに死んでしまった人間がうろつく場所でもあるらしい。君は、そのせいであそこに現れたのかもしれない。」
 「ここでは、おれは死んだ人間だからな。」
 「そういうことだ。」
 不思議は、あの旅でいやと言うほど経験した。今さらこの程度のことで、そんなことがあるはずがないと、思うはずもないふたりだ。起こったことは起こったこととして、そのまま受け入れる姿勢が、身に着いてしまっている。
 同じような場所を見つけたら、どこかから生きている花京院が、承太郎の元へ引き寄せられて来るのだろうかと、ふとそんなことを考える。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。自分のいたところに戻れないかもしれないという恐怖は、なかった。花京院が生きて目の前にいて、自分に話し掛けていることに、承太郎は知らずに夢中になっている。あの旅を生き延びた花京院だ。承太郎よりも、十二年先を生きている花京院だけれど、花京院であることには間違いない。
 どこかの誰かの気まぐれにせよ、何かが、自分をこの花京院に引き合わせるために、自分をここへ運んだのだと、承太郎は確信していた。
 不思議なことなど、もう何もない。あの旅を、一緒に過ごしたふたりには、どんなことも信じられる靭さがある。その強靭さゆえに、切り抜けられた旅だった。そして、この花京院の旅の終わりに、承太郎は姿を消し、承太郎の旅の終わりには、花京院が姿を消した。永遠に。
 その永遠が、今ここで、沈黙を破っている。
 失ったその悲しみの深さと強さが、どこかで何かに反応したのかもしれない。ふたりの、それぞれの嘆きの深さが、どこかで結びついたのかもしれない。夢であるはずがないと、ぬるくなったコーヒーのカップを両手で包んで、承太郎は思う。まだ残る掌の中のぬくもりが、花京院の体温を思い出させた。
 何か、話し合うことがたくさんあったと思えたのに、こうやって向き合えば、言葉なしにわかり合えてしまうから、ふたりには語ることがない。沈黙が居心地を悪くさせるということはなかったけれど、とりあえずはこの状況を、少しばかりは心配した方が良さそうだと、それを花京院が先に口にする。
 「あの道に戻って、あそこで時を止めれば、多分また同じことが起こるんじゃないかな。そうすれば、君はきっと元のところへ戻れる。」
 「そうかもな。」
 一拍置いて、承太郎は、花京院を見ずに浅くうなずいた。
 そんなことはどうでもいい、という気がする。戻れないとわかれば、それはその時のことだ。むしろそうなれば、ここにこのまま、この花京院の傍にとどまることができる。とどまって、一体どうするんだと、胸の中で声がする。承太郎が突然消えてしまえば、元いたところで騒ぎになるだろう。承太郎を失って、すっかり気落ちしてしまったというここでのジョセフと同じように、あちらのジョセフも、そのことを死ぬほど嘆くだろう。ひとり取り残されるジョセフとホリィのことを、承太郎は考えられずにはいられない。
 それでも、ここには花京院がいる、とまた思う。
 直感で、承太郎は、いつだってここから去ることができるのだと知っている。心配する必要はないのだ。だからこそ、今すぐ元の場所へ戻る必要もないし、もっとこうして、花京院と同じ部屋で、不思議がりながら、いつまでも向き合っていたかった。
 花京院が、また小さくため息を吐いた。
 「いろいろと、話したいことがあったような気がしたんだが、いざとなると、何も思いつかない。」
 軽く開いた唇が、苦笑の形を作る。
 あれこれと、こまごま語り合う必要がないのは、いつだって同じだ。通じ合ってしまえるふたりだったから、見つめ合うだけで充分だった。そうしてそれを、失ってから死ぬほど──文字通り、死ぬほど──後悔する羽目になった。
 まだ何も、大事なことは伝え合っていなかったのだと、ひとり涙を流しながら思った。言葉では伝わらないことがある。見つめ合うだけでわかり合えても、それだけでは足りないこともある。もっと早く、旅が終わったらと、そんなことは考えずに、ただがむしゃらに、腕を伸ばしていればよかったと、心底思った。
 空になった体の半分に、風が吹き通ってゆく。風の立てる音が、時々、人の声に聞こえる気がすることもあった。自分を呼ぶ声だと思って、振り返るそこには何もない。それを、この花京院は十二年も耐え続けているのだと、そう思って、もう耐えることもないと、承太郎は自分に言い聞かせる。
 求めていることは同じだ。言わなくてもわかる。目を合わせた瞬間に、取り逃してしまった時間を、機会さえあれば、たとえどんな犠牲を払うとしても、取り戻したいと、そう思っているのだと、互いに通じてしまった。
 だから、と承太郎は思う。もう、ためらわずに、そうすればいい。あの時、そうせずに後悔したから、もう今は後悔はしたくない。絶対に。
 体の中を通り過ぎる風の音が、いつの間にかやんでいる。あの音は、確かに花京院が自分を呼んでいた声だったのだと、そう思い知って、ようやく、承太郎は椅子からそっと体を起こす。
 「もうあの道に戻るかい? 戻れるかどうか、早く確かめた方がいいだろうな。」
 承太郎と一緒に、花京院も立ち上がる。言い合わせたように、同じタイミングで目の前のテーブルにカップを置き、花京院はその手を引き戻してドアへ向かって体を回そうとしたけれど、承太郎はその手をそのまま、花京院の肩に伸ばした。
 なんだと、花京院が振り返る。自分を、顔半分だけで見上げるその瞳に、自分の顔が映っているのが見えた。ひどく熱っぽい、切羽詰った表情をしているのが、まるで他人の顔のように見える。
 「おれの方はまだ、終わってねえ。」
 やっとそう言った声が、思いがけず、震えていた。
 不思議そうに承太郎を見て、横顔のまま、何か言葉を探すように、花京院が軽く唇を開く。その唇に向かって、承太郎は、花京院を引き寄せながら、自分の唇を寄せて行った。
 こめかみの辺りに、承太郎の帽子のつばが当たり、けれど避けるような仕草はなく、それでも、すんなりと受け止めたとは言いがたい、花京院の、触れた肩の硬張りだった。
 砂漠の熱い陽射しと、干上がるような暑さに焼け乾いてはいない、思ったよりも柔らかい唇だった。軽くひび割れ、ところどころ薄い皮膚の剥げてしまっていた、かさついて、埃にざらつく唇ではない。
 触れた間に、なまあたたかく呼吸の気配がある。この花京院は生きているのだと、ここへ来てからのどんな時よりも、承太郎は強烈に感じた。
 唇が滑ってずれ、顔を背けた花京院が、困惑と苦笑を同じ量だけ混ぜて、承太郎に向かって首を振る。
 「何なんだ一体。」
 冗談とも本気ともつかない承太郎の口振りを耳にした時に、花京院はいつもこんな表情を見せた。それとは対照的に、承太郎の頬の線が、今は硬い。
 「何だじゃねえ。おれだけのことじゃねえはずだ。」
 「ちょっと待ってくれ承太郎。」
 まだ肩に置かれたままの手を避けようと、花京院が肩を揺すって体を回そうとする。それを許さずに、承太郎は、勢いのまま、花京院を腕の中に抱きしめた。
 「……おれだけじゃねえ、てめーだって、待ってたはずだ。」
 言葉の途中に、さっき少しずれた帽子が、今度こそ潔く床に落ちてゆく。小さなやわらかな音がして、帽子が、どこかへ転がった気配がした。
 「後悔したのは、おれだけじゃねえはずだ……。」
 承太郎、と押しとどめるような、声が聞こえて、それでも承太郎の腕の中から抜け出すことはせず、花京院はまるで惜しむように、承太郎の胸に両手を押し当てている。
 「あの時に後悔したのは、おれだけじゃねえはずだ。」
 花京院が、死んだという言葉を使わないように、承太郎も、死んだとは言わなかった。花京院が死んだ時に、承太郎が死んだ時に、始まりもしていなかったことが、永遠に途絶えてしまったのだ。終わったと、きちんと決着をつけるチャンスさえ、与えられなかったことだった。
 だから、と承太郎は思う。
 今が、そのチャンスだ。あの時始められなかったことを、今始めればいい。そのために、ここへ引き寄せられて、花京院を今、確かに胸に抱いている。
 抱きしめた腕に力を入れて、もっと近く体を寄せようとして、花京院の掌が、拳になった感触が、薄いシャツごしに伝わって来た。その握り込んだ指が、震えていた。
 「だめだ、承太郎。」
 声が、あたたかく、シャツの上に湿る。
 それは、呼吸の湿りというだけではなくて、花京院の唇の中から、抑え切れずにこぼれて来る、感情の高ぶりのように思えた。
 「君の言う通りだ。僕はあの時、死ぬほど後悔した。君に、ちゃんと伝えるべきことを、何も伝えてなかったことを、心底悔やんだ。」
 だからこそ、と吐き出した語尾に、花京院がさらに言葉を継ぐ。承太郎に向かって顔を上げて、前髪の奥に隠れた瞳が、言葉よりも先に、言いたいことを伝えて来る。それから目をそらそうとして、承太郎はうっかりそのタイミングを逃した。
 「僕はもう、二度とあんな思いはしたくないんだ。もう二度と、後悔したくないんだ。」
 「だったら──」
 「僕は、君とは違う。僕は、君の僕じゃない、承太郎。」
 花京院の瞳にとらえられて、承太郎は動けない。花京院はまだ腕の中にいたけれど、その体温が、不意に遠くなる。
 「君の考えていることはわかる、せずに後悔するなら、して後悔した方がいいと、君は考えてるだろう。だが僕は、あの時君を失ってしまったことを、そのまま受け止めたい、受け止め続けたい。僕はもう、君なしで、長く居過ぎたんだ。頼むから、僕をこのままにしておいてくれ。僕はもう、君を失うのには耐えられない。」
 「なんでおれが、すぐにここから消えると決めつける? おれがもし、ここにてめーと一緒にいると言ったらどうする。」
 花京院の唇の端が、くしゃりと歪んだ。泣き顔に、隠せずに現れるはずの幼さは、そこに浮かぶはずもなく、一緒にひずんだ頬の輪郭の辺りに、十二年と言う時間が、はっきりと現れる。それに、承太郎は目を細めた。見つめて、痛々しいと思ったのが、花京院のためなのか、自分のことなのか、よくわからなかった。
 「正気か? 何もかも捨てるんだぞ? 君が捨て身で救った世界を、全部捨てるんだぞ。そこで死んだ僕のことも、君は捨てるのか。」
 責める口調で、花京院が言う。承太郎を射るように見つめて、花京院の口調にはけれど、激しさよりも悲しさの方が、ひと色濃かった。
 捨て身であの世界を救ったのは、花京院だ。命を捨てて、花京院は確かに、あの世界を救ったのだ。その世界を捨てるのかと、承太郎は、花京院に問われた通りに、自分の中で繰り返す。
 そんなことはできない。そして、ならおまえがおれと一緒に来いと、花京院の腕を取ろうとした自分の手を、承太郎は止めた。
 承太郎が、死んだ花京院を捨てられるはずがないように、この花京院も、死んだ承太郎を捨てられはしないだろう。
 承太郎は、この花京院の承太郎ではなく、この花京院は、承太郎の花京院ではないのだ。ふたりは、別の世界に隔てられている。互いに、別々の時間を生きて、これからもそうして、ひとりずつで生きてゆくのだ。
 花京院に巻いていた腕を、承太郎は力なく落とした。
 互いの心の内が、本のページでもくるように、はっきりと読める。できることなら、このまま、煩わしいことなど考えずに、思う通り先へ進んでしまいたい。何か、きっといい考えが浮かぶだろうと、自分自身に嘘をついて、もう離れたくないと、抱き合っていたい。片目を掌で覆って、何かが違うということには、気づかない振りをしていたい。
 そうしてはいけないのだと、互いの頭の中で、声がする。それは、失われた承太郎自身の声のようにも、喪った花京院自身の声のようにも、聞こえた。
 「君は、もう行った方がいい、承太郎。」
 そうしなければ、心が流れるままに、承太郎を引き止めてしまうか、自分がそのまま、去ってゆく承太郎の手を離せそうになかった。花京院はだから、震えそうになる声を、喉の奥で必死で抑えて、唇の端で薄く微笑んで見せる。それから、まるで何事もなかったかのように、承太郎の足元に視線を落として、大袈裟に首の後ろで小さな笑い声を立てる。
 「靴の紐が、ゆるんでるじゃないか。」
 言うと同時に、花京院の背が床に向かって落ちる。止めようと伸ばしかけた承太郎の手は、宙で止まった。
 丸まった背が、かすかに震えているのが見えた。
 肩の線や揺れる髪越しに、指先が手早く動く。床に膝をつき、承太郎のために、花京院が体を縮めてその手を動かしている。
 その姿を、また見れるとは思っていなかったから、いつでも思い出せるようにと、承太郎は、薄い上着の上に浮かんだ背骨と肩甲骨の形に、じっと目を凝らす。
 靴の爪先に、水の滴った跡が見えたような気がしたけれど、もう確かめることはしなかった。すべきではないと思った。
 両方の靴紐を結び直して、花京院はまだ顔を上げずに、床の上を見回す。そうして、自分の右手に転がっていた承太郎の帽子を、腕を伸ばして取り上げ、立ち上がりながらその帽子を、おどけた仕草で自分の頭に乗せた。
 つばを深く引き下ろした花京院の目元の表情は見えず、そこに指を掛けたままで、花京院が微笑んでいる。その奥で、歯を食い縛っているのに気づいていたけれど、承太郎は、もう何も言わなかった。
 「僕には、似合わないな。」
 「おれにももうじき、似合わなくなるぜ。」
 笑いながら言った。つもりだった。
 未練がましく、帽子の陰に隠れて見えない花京院の表情を、承太郎は必死で読み取ろうとしている。 


 また花京院の車に乗り、あの道へ戻る。
 外はいつの間にか陽射しをやわらげて、もう夕方近いのだと、空気の湿りが伝えて来る。
 車の中で何も言わず、車を降りても口を開かず、ふたりは無言のまま、あの道にまた立った。
 吹く風が冷えている。ふたりの、同じように長い上着の裾をひらめかせて、互いを見つめていることに耐えられずに、ふたりは同時に、風の吹く方向へ目をやった。
 何と言って別れればいいのか、わからない。最期の挨拶を、交わすことなどできなかったから、今こうしてその機会を与えられて、けれど言葉を見つけることができない。
 ここではもう、手を取ることや、頬に触れることはできない。じゃあなと背を向ければ、それで終わりだ。終わりにしたくなくて、承太郎はぐずぐずとそこに立ったままでいる。
 花京院に伸ばすことのできない、やり場のない手を、ズボンのポケットに入れて、力いっぱい握りしめる。いつもなら尊大に見えるはずのその仕草が、今は肩を縮めた淋しげな姿を、よけいに寒々しく見せるだけだと、承太郎は知っていた。
 ふと視線を上げると、赤い空が見えた。
 その赤で気がついて、花京院の耳へ目を細める。変わらずに、金色の鎖の先に、赤い石が揺れている。花京院だと、承太郎はまた思った。
 「ピアスは、ずっとそのままか。」
 無邪気に見える笑みを浮かべて、花京院が耳朶へ指先で触れる。そちらに頭が傾いて、ふと、少年の花京院の面影がそこに重なった。
 「……替えるタイミングがつかめなくてね。」
 苦笑はけれど、やはり大人の男のものだ。承太郎は、つられてふっと笑いをこぼした。
 「だが、君のおかげで、これを外す決心がついた。そうだな、今度はハイエロファントのような緑色の石がいい。」
 耳に触れたまま、笑みを消さずにそう言う花京院の視線が、承太郎の頬を滑って流れる。その視線を、濃い深緑色の瞳だけを動かして追って、承太郎はゆっくりと瞬きをする。
 そうか、とだけ言って、また黙り込んだ。
 まだ未練がましく、花京院を連れて行ってしまいたい気持ちがつのる。腕を取って、時を止めればいい。そうすればきっと、一緒に、承太郎のいるべきところへゆけるだろう。
 そろそろ時間だと、承太郎は思った。
 夕焼けが、空を真っ赤に染めてしまう前に、その色に、花京院が、そして承太郎が、流した血の色を思い出してしまわないうちに、ここを去るべきだと、承太郎は思った。
 「もう、行くぜ。」
 低く言って、かかとを後ろへ滑らせる。腕を伸ばしても、もう届かない距離を花京院との間に置いて、承太郎はズボンのポケットから片手だけ出して、帽子のつばに指先を添えた。
 ああ、と花京院がうなずいて、今度こそはっきりと、淋しいという表情を浮かべる。けれどもう、引き止めることはできないのだ。
 「元気で。」
 「てめーもな。」
 スタープラチナが音もなく姿を現し、それに応えるように、花京院の背後にも、ハイエロファント・グリーンが、その光る姿を現した。
 ひとりになる花京院を慰めるように、ハイエロファントは半ば透き通った腕を花京院に回し、懐かしげ──表情はないけれど、承太郎とスタープラチナには、そう見えた──に、スタープラチナへ、どこにとはしかとはわからない視線を投げて来る。
 時を止めようと、その前に深く息を吸い込んだ瞬間に、花京院が、言葉を投げて来た。
 「承太郎。」
 名前を呼ばれたその続きがあるのだと、花京院の口元が言っていたから、承太郎は時を止めるのをやめ、帽子のつばには指先を掛けたまま、その陰から花京院を見る。
 眉の端をわずかに下げて、笑わないでくれよと前置きしてから、花京院の表情が、淋しげな色をさらに濃く刷く。それから、ゆっくりと唇が、また動いた。
 「どこかに、君と僕の両方が一緒に生き残って、そのまま仲良くやってる世界があっても、いいと思わないか。」
 そう言う花京院に、確かに承太郎が覚えている、あの少年の面差しがあった。
 花京院が目を細める。憶えている承太郎の姿を、いっそう鮮やかに思い出せるように、この承太郎の姿を、目に焼き付けている。
 承太郎も、同じように花京院を見つめた。いつか、この花京院の歳に追いつく頃に、自分と一緒に歳を取っただろう花京院の姿を、きちんと思い浮かべられるように。
 「ああ、そうだな。」
 これで最期だと思いながら、承太郎は素直に花京院の言葉にうなずいて、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。今花京院のいる、この町の匂いを覚えておこうと、大きく胸を膨らませて、小さく小さく、時を止めろとスタープラチナに言った。
 空気が凍る。その中で、切り取ったように、花京院とハイエロファンとだけが鮮やかに浮き上がって見えた。
 承太郎の周りでだけ、空気が揺れ始め、視界が歪み、その中に花京院の姿が飲み込まれると、足元から沈み込む感覚が、背筋を這い上がって来た。
 光の中を通る。弾力のある、悪意のない塊まりの中を、また通り抜けてゆく。承太郎はもう、体の力を抜いて、目の前を凄まじい勢いで流れてゆく光の筋だけを追っていた。
 不意にトンネルを抜けたように、光は消え、空気の揺れも消え、自由になった体は、気づけば自宅の玄関の上がり框に坐り込んでいる。
 戻って来たのだと思う前に、夢だったのかと、軽く頭を振った。
 眩暈も何もない、やけにすっぱりと軽い頭の中には、違和感のかけらもなく、たった今すっきりと目覚めたばかりのように、首の後ろの辺りが、爽やかでさえある。
 ここに坐り込んで、夢でも見ていたのだろうかと、また思った。
 そうして、開いたままの玄関の戸の外で、今でははっきりと降り始めた雨が目に入り、靴を履き替えるつもりだったのだと思い出す。
 君は相変わらず、靴紐の結び方が下手だな。
 あの声は、耳の奥でだけ聞いたのだろうか。それとも、きちんと、承太郎に掛けられた言葉だったのだろうか。
 曖昧な記憶が、頭蓋骨の裏側にぺたりと貼りついているようなもどかしさがある。
 雨の降る外をぼんやりと数瞬眺めた後で、そうだ靴を履き替えようと、承太郎は爪先に向かって手を伸ばした。
 君は相変わらず、靴紐の結び方が下手だな。
 声がした。はっきりと、記憶の中に甦った。
 自分が結んだのではない、きっちりと形の整えられた靴紐の結び目が、目の中に飛び込んで来る。大きさと長さの整った、蝶の羽に当たる部分、自分の足元にしゃがみ込んで、うつむいた首筋と背中を無防備に見せる、誰かの姿。
 花京院。
 降る雨に向かって、承太郎はつぶやいた。
 承太郎と、応える声が、確かに聞こえたような気がして、思わず後ろを振り返る。
 それから、自分も花京院も無事に生き延びて、そうありたいと思ったように、互いの肩に両腕を伸ばし合っている姿が、鮮明なイメージで、まぶたの裏側に浮かぶ。
 どこかにいる、自分たちの別の姿だと思いながら、承太郎はようやく立ち上がって、自分の体ではないような気のする長い足を、1歩前へ出した。
 承太郎、とまた呼ぶ声がする。
 目を閉じて、その声に応えながら、どこかに、自分を待っている、ここへ連れて来て欲しいと、そう思っている花京院がどこかにいるのかもしれないと思って、承太郎は白づくめの花京院の姿を思い出した。
 曇った空を見上げ、そこから落ちてくる雨粒に目を細めて、濡れるのも構わずに、承太郎は外へ出る。
 花京院の声はもう聞こえない。
 背筋をまっすぐに伸ばして、承太郎は、ひとり歩き出した。

戻る

* 2007年発行花受アンソロ参加再掲。