匂い



 靴を脱いで、部屋に上がる。承太郎はもう、花京院の、階段を上がる足音を聞いていたのか、片手にコーヒーのマグを持って、リビングで花京院を待っている。
 花京院は、足早にそちらへ行って、抱えていた本の包みをソファに置くと、承太郎からコーヒーを受け取る。
 「遅かったな。」
 マグを受け取る指先が触れて、花京院は、承太郎をあやすように柔らかく微笑むと、少し顔を傾けて、斜め下から目の前の承太郎を見上げた。
 「帰りの電車が混んでたから、1本遅らせたんだ。」
 承太郎が、ちらりと本の包みを一瞥する。紙袋の折れた口を止めてあるセロテープが、一度剥がしてあるのを見て、電車待ちの列の中で、買ったばかりの本を開いている花京院を思い浮かべる。読む本があれば、20分程度の待ち時間は苦痛ではない。
 そうかと、マグを受け取った花京院の肩を抱き寄せて、お帰りと言うように頬にキスをする。
 そうして、承太郎が、濃い太い眉をしかめた。
 「女くせえ。」
 すでにコーヒーに口をつけていた花京院が、訝しげに、形の良い眉を、承太郎に向かって吊り上げる。
 「何だって?」
 「てめー、女くせえ。」
 花京院のうなじにかかる髪の辺りに鼻先を埋めて、承太郎が声を尖らせる。そちらに顔を振り向けて鼻を鳴らすと、ほんとだと、花京院も眉をしかめた。
 「すぐそばで、誰か妙に香水の匂いがきつかったから、移ったんだろうな。」
 腕を持ち上げて、肘の辺りの匂いを嗅ぐと、
 「本にまで移ってそうだ。」
 舌打ちでもしそうに、薄い唇を曲げて、また承太郎を斜めに見上げた。
 「あやしいもんだな。」
 え、と唇でだけ言った花京院の、シャツの襟の後ろを軽く引き下ろすと、あらわになった肩の部分に、承太郎が噛みつく。並びのいい、力強い歯列が食い込むのに、花京院が痛いと声を立てて、承太郎の腕の中で軽く身をよじる。
 「承太郎、君まさかどこかの女の人と僕がって思ってるんなら、一度医者に行った方がいい。」
 そんなこと、ありえないと、花京院が妙に神妙な声で付け加えた。
 「おれが知るか。」
 言いながら、承太郎の舌が、肩口から耳の方へ滑り上がってくる。耳朶に触れる呼吸に、花京院は肩を縮めた。
 「ありえねえって言うんなら、脱げ。調べてやる。」
 耳の中に、舌先が入り込んできて、じかに注がれる声が、濡れて響く。
 承太郎の背高い体に、伸び上がって自分の体を沿わせながら、花京院が、ひどく扇情的に微笑んだ。
 「・・・君、誘うの、下手だなあ。」
 「やかましい。」
 短く言う間に、花京院のシャツの裾に、ふたりの手が同時にかかる。


 まるで、茹でた野菜の皮でも剥くように、つるりと服を脱いで、花京院が、まだ明るい部屋の中で全裸を晒す。
 承太郎は、まだシャツの裾さえ乱さないまま、花京院に触れる。
 くつくつ、おかしそうに笑っている花京院の肩や胸に触れて、ソファがきしむのにもかまわず、両脚の間に滑り込んで、そこに腰を落ち着けた。
 くすぐったいよと、花京院は、照れ隠しなのかどうなのか、大袈裟に体を震わせて、承太郎の手の下で跳ね続ける。そのたびに、滑らかな腹筋が揺れて、筋肉の線をあらわにして、それが、すぐ上にある大きな引きつれに、鮮やかな陰影を浮かび上がらせる。
 何かが爆発しでもしたような、巨大なヒトデがそこに張りついたような、傷跡。つるつるとした皮膚は、健やかではあるけれど完全に健康ではなく、同じ跡が、背中にもあった。拳が、信じられない力で突き抜けた痕だ。
 こなごなになった花京院の体の一部は、大量の血と一緒に流れ出て、永遠に失われた。
 再生した皮膚と肉は、元通りに限りなく近く、けれど不自然に薄い皮膚は、見た目と同じほど、あやうい。
 正面からその傷跡を見下ろして、承太郎は、また同じ場面を再生する。そして、同じように狼狽して、花京院の体温を確かめるために、その大きな傷跡に、自分の掌を乗せる。
 花京院の膚のどこも、掌に吸いつくように思えるけれど、そこだけは、まるで溶けてこちらと同化してくるように、そんなふうに触れてくる。
 溶けた皮膚の下に、剥き出しになる粘膜と、肉。ずぶずぶと沈み込む掌に、いずれ触れる、暖かくて柔らかな内臓。複雑なパズルのように、きれいに収まった内臓のすきまに、どろどろと溶けて、流れ込んでゆく幻想。体中に走る血管の外を、花京院の血液の流れと一緒に、どこまでも溶け込んでゆく。そうして、花京院と分かちがたくなってしまったまま、再生した皮膚の下に、閉じ込められてしまえばいい。
 ひとつになってしまえば、いずれ分かたれてしまうことなんて、考えなくてすむ。
 承太郎は、そんなことを考えながら、花京院の傷跡に触れていた。
 もう、傷のない花京院を、思い出せなくなっている。思い出そうにも、その頃の花京院のつるりとした腹など、まじまじと眺めたことなどなかったし、そんな余裕など、あるはずもない頃だった。
 承太郎は、顔を伏せて、その傷跡に頬ずりする。唇を滑らせて、まるで動物が、傷を癒やすような仕草で、飽きもせずに舐め続ける。
 いつだって、せわしなかった。敵からの襲撃を警戒して、ふたりきり、どこかへ閉じこもれることもなく、マナーを気にする時間もない食事のように、いつだって余裕のないやり方で、服をきちんと脱げるチャンスさえ、滅多となかった。そんな時に、相手をしげしげと眺められるはずもなく、何の心配もなく、互いの全身の皮膚を、残すところもなく視界に納められるようになったのは、花京院が一度死んで、生き返って、ようやく自力で起き上がれるようになってからだ。
 その時にはもう、花京院の腹筋しかなかった薄い腹は、その筋肉さえ失って、もっと薄くなっていて、砕けた肋骨のせいで少し歪んだ脇腹からの線と、巨大な傷跡が、少なくとも血の匂いはもうさせずに、承太郎の眼下にあった。
 承太郎のよく知っている花京院は、この傷跡を含めた花京院だ。
 その前の、まだ健やかだったはずの花京院を、時折恋しく思い出しながら、けれど、この傷跡の手触りに、承太郎はいつも間違いなく欲情してゆく。
 皮膚の薄さは、あの時の血の匂いを思い出させて、ひととき死体と化した、ぼろくずのような花京院の、手ごたえのないくたりとした体の重みを思い出させて、その猟奇的なイメージは、この傷跡の上に染みついている。
 そんなイメージが、なぜだかよく似合う、花京院だった。
 まだ自分は服は脱がずに、全裸の花京院に乗りかかって、また耳朶を噛む。花京院が笑う。
 どこか爬虫類めいた、体温の低い、人の匂いの希薄な、そんな印象を与えるくせに、その白い、冷たい皮膚の下で、紅い血が常に沸騰しかけているのを、承太郎は知っている。血で汚れた凄艶な姿と、敵を叩きのめす容赦のなさと、暴力まみれの中にあって、一際その表情が輝くのは、決して誉められたことではないのだろう。
 そんなところに、もう戻りたくはないと思いながら、体の内にある熱さを持て余している花京院の、その熱に溶かされて、承太郎も、暴力という異常な状況の中で見た花京院を忘れられずに、自分もまたそこへ、引きずり込まれたくなる。
 少し乱暴に扱えば、素早く反応してくる躯。脆さをそこにたたえて、優しく扱ってくれと、そう主張する腹の傷跡は、けれど、承太郎に、奇妙に荒々しい気分を呼び起こさせる。
 手首を少し強くつかんで、押さえつけて、まだ笑い続けていた唇を、噛みつくようにふさいだ。
 逃げる舌を引きずり出すように、絡め取って引き寄せる。そのまま噛み切るような勢いで、食む。
 初めて対峙した、あの保健室で、女医の口の中からハイエロファントを引きずり出したことを思い出したのは、花京院の全身が、うっすら翠に光っていることに気づいたからだった。
 「・・・てめえ・・・」
 こうする時には、絶対にスタンドを使わないというのが約束だ。
 自分の中に潜ませているだけで、それ以上どうするつもりもないらしい花京院は、承太郎ににらみつけられても、軽く肩をすくめて見せるだけで、まだ口元には、笑みが浮かんでいる。
 「引っ込めろ、花京院。」
 「いやだよ。」
 あっさりと拒んで、承太郎の腰に、自分の足を絡めてくる。
 下手くそに誘ったのは自分だったけれど、今自分を誘っているのは花京院だと、承太郎は、意趣返しのつもりで、少し乱暴に花京院の下腹に手を伸した。
 あまり優しい手つきではなく、けれど傷つけはしないように気をつけて、承太郎は、強く押し込んだ。花京院の反った喉が、その時だけ、硬張って、つぶれた声を立てる。翠の光が強くなって、主を守ろうとするのか、ハイエロファントが実体化しようとしていた。
 「・・・花京院、スタンド、引っ込めやがれ。」
 言うことを聞かせようと、強く揺すぶり上げると、2、3度裂けた悲鳴を上げてから、懲りもせずに花京院が小さく笑う。
 承太郎のシャツの袖をつかんで、背中をソファから浮かせると、ハイエロファントを、ずるりと床に這わせた。
 「・・・見られてるみたいで、落ち着かねえ。」
 ようやく、承太郎から本音を引きずり出すと、花京院はハイエロファントをまた自分の中に潜ませて、今度は、しっかりと気配を消した。
 半分、ソファからずり落ちそうになっている花京院を、それにもかまわず責め立てて、承太郎は、長々と花京院の中にひたる。熱さと狭さに、何度も息を止めて、押し潰している花京院の、短い呼吸の数を数えながら、また腹の傷に掌を乗せる。
 薄い、引きつれた皮膚の下が、翠に光っている。花京院の内側の熱さに合わせたように、承太郎が押し入るたびに光の強さが増し、うねる腹筋の線が、数秒と同じにとどまらない不思議絵を、その上に描き出す。
 こんな花京院を知っているのは、自分だけだ。
 熱に浮かされた頭の後ろで、承太郎は思った。血の色の蒸気になって、花京院の中になだれ込んでゆく。繋がった部分から、まるで承太郎の思考が流れ込みでもしたように、花京院が、承太郎の目の前で、ふっと妖しく微笑んだ。
 「・・・こんな僕を知ってるのは、君だけだ・・・承太郎。」
 名前を呼ぶ声が上ずったのは、その時ちょうど、承太郎が、花京院の腹の傷跡の上に、耐え切れずに熱を吐き出したからだった。
 そのぬめりに指先を滑らせてから、花京院は、まだ息の荒い承太郎の大きな手を取って、白く汚れた自分の傷跡に乗せて、承太郎の手も汚した。それから、その手を自分の下肢に導くと、ぬるつく掌を、そこで使わせた。
 ゆるく動く承太郎の手に、自分の躯を沿わせるように腰を揺らしながら、花京院は、体を起こして、承太郎の唇に、自分の唇を重ねる。
 そうして、そこからほとんど唇を離さずに、息を吐くついでのように、ぼそぼそと承太郎に話しかける。
 「君が、医者に行った方がいいって話・・・」
 承太郎の指先が、全体に絡みついた。
 「・・・今度、小児科に連れてってあげるよ。」
 あえぎながら、くすくす笑うのはやめない。
 その笑い声を聞いていたくて、承太郎は、わざと指先の力を抜いた。
 今は花京院が承太郎の膝の上に坐り込む形で、ふたりは正面から抱き合っていた。承太郎の手に花京院の手が重なった時に、ふたりは、花京院の言った小児科という言葉から同じことを連想して、互いに見合って、声を立てて笑った。
 「お医者さんごっこ。」
 額をくっつけて、同時に口を開いていた。
 「僕の番だ。」
 「うるせぇ、黙れ。」
 くつくつ笑いを止められずに、ふたりは、互いの体を触り合う。もう一度と、無言のまま確認し合って、花京院は、承太郎の服を脱がせ始めた。
 どちらがどうすると、主導権を争うために、手足を絡めて、お互いの体を組み敷こうと、ソファの上でふざけ合う。自分に乗りかかってきた花京院に、下から抱きつきながら、まだ上品とは言えない香水の匂いの立つその肌を、きれいにしたくて、承太郎は舌を伸ばして片端から舐め始めた。
 互いの匂いをつけ合うために、肌をこすり合わせて、ふたりは飽きもせずに、くつくつ笑い続けている。


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