Selfish
やっと点滴の取れた花京院が、ひとりで歩けるようになったと、病室に顔を出した時はちょっとした騒ぎになっていた。滅多と顔を合わせない花京院の両親の声がして、明らかに少し涙の交じったその湿った声に、承太郎はドアを叩こうとした手をそこで止めた。
無理はしないで。
女の声は、なぜだか花京院の声とよく似ていて、何と言ったかよく聞き取れない男の声が静かにそこへ重なって、その声がふたつ同時に聞こえると、尚のこと花京院の声そっくりになった。
承太郎は、音をさせないようにそっとドアを開け、中の様子を窺う。細く開けた隙間から、両親に両脇から抱きかかえられるようにして、けれど自分の足で立ってゆっくりと歩いている花京院が見えた。
生地の薄いパジャマの中で体が泳いでいるのがわかる。痩せてしまったのだと、そう思ってから、承太郎はドアをまた静かに閉めようとした。
ほんの一瞬、その手前で、花京院がこちらを見た。承太郎、と呼ぼうとして唇が軽く開いたのを、けれど承太郎は構わずにドアを閉める。
親子の水入らずに茶々を入れる気はなかったし、相変わらず花京院の両親と顔を合わせるのも気詰まりだった。制服の裾をひるがえしてドアに背を向け、特に深くは考えないまま、煙草を吸うつもりで屋上へ向かう。歩きながら、意味もなく、帽子のつばを軽く引き下げた。
午後のもう少し早い時間なら、まだ洗濯ものがひらめいていることもある。入院患者やその家族が何となく集まるその辺りを避けて、承太郎は屋上のもう一方の端へ行った。
でこぼこした街並みを眺めながら、人気のないそこで煙草に火を点け、まずは一服、深く深く胸に吸い込む。1日中胸ポケットに入ったままのただの紙の箱はくしゃりと歪んで、辛うじて煙草それ自体は無事だけれど、承太郎が手の中に握り込むと、そのまま粉々になってしまいそうに見える。
ものを壊すのは案外と簡単だ。直すのはずっとずっと難しい。今花京院が、必死で体を治しているように、傷つくのは簡単だ。けれど傷ついた体を治すのは、文字通りの意味で骨が折れる。
歩くどころか体を起こすこともできず、意識が戻った直後は、指1本動かせなかった。それを承太郎は、最初からずっと見ていた。
忙(せわ)しく1本を吸い終わり、2本目にはもっと丁寧に火を点けた。ゆっくりと唇に近づけて、まるで体全部に行き渡らせるように吸い込んだ煙を、今度は惜しむように、そっとそっと吐き出す。
煙の行方を目で追いながら、承太郎は寄り掛かっていた柵から離れ、出入り口近くの壁へ、背中をつけてしゃがみ込んだ。
陽射しは、もうずいぶんとやわらいでいるけれど、それでもまだ真っ直ぐに見上げるにはまぶし過ぎて、斜めに顔を上げて目を細め、煙草を持ったままの手で、帽子のつばの位置を少し変えた。太陽を眺めても、決してまぶしくはないように、そうやってじりじりとコンクリートの床を焼いている白い光にまるで挑むように、承太郎はそこでなぜかため息をついた。
承太郎の周囲でだけ、空気の密度が変わる。重くなったのか軽くなったのか、それはよくわからなかった。音が消え、視界が狭まり、物思いの淵に沈み込んでゆく。2本目の煙草は、ほとんど吸われないまま、承太郎の指の間で白い灰になる。
花京院。
胸の中で、思わずつぶやいていた。目の前にいるように、呼び掛けるように。
花京院の回復を喜んでいる家族がいる。その彼らに今は合わせる顔がないような気がして、承太郎は少しの間自分を恥じた。
煙草の火が指を焼きかけていて、熱い。灰になってしまったそれを眺めて、その熱さは、自分が耐えなければならない罰のような気がした。
指の間からこぼれ落ちてゆく灰は、花京院が、ほとんど死人同然になって過ごした時間を思わせた。ただ呼吸をしている、内臓は少なくとも機能している、呼び掛ければこちらに視線を向けて反応する、生きている、確かに生きている、けれどそれはただ、死んでいないと言う状態に等しかった。
そこから、花京院が戻って来る。こちらに向かって、自分の足で歩いて、戻って来る。それは、ただ怪我が治りつつあると言うだけではなく、承太郎にとっては、許されたと自分が思える、ひと筋の光のようなものだった。
死ぬなと祈ったのは、花京院のためではなかった。自分が、花京院を失くす痛みに耐えられないと、そう思ったからだ。
自分のことを、思いやりのある優しい人間だと思ったことなどなかったけれど、それでも、ここまで自分勝手と思ったこともなかった。
そうして今は、また自分勝手に、許されるために、花京院の回復を願っている。花京院のためではない。花京院の家族のためでもない。ただただ、承太郎自身のためだけだ。
おれが痛みに耐えられないから、勝手に死ぬな。罪の意識に耐えられないから、早く治れ。早く治って退院しろ。何もかもを剥ぎ取ってしまえば、それが本音だ。最初から、自分のことしか考えていなかった。今も結局のところ、大事なのは自分のことだけだ。
死に掛けたのが自分だったら、もっと気が楽だったろうか。それとも、自分だけが痛い思いをするのに、八つ当たりで周囲を辟易させたろうか。
それでもなぜか、笑顔を絶やさない花京院の姿が目の前に浮かんだ。仕方ないヤツだな、君は。そうやって、承太郎の傷には触らないように、そっと手に触れて来る、花京院の姿がはっきりと思い浮かんだ。
「承太郎。」
フィルターの焦げる臭いが不意に鼻先に立ち、声が聞こえたのが、一瞬意識に届かない。前を見ていた視線を左へずらして、斜めに首をねじった。
「承太郎。」
花京院がこちらを見下ろしていた。顔色の悪い、けれどはっきりとした笑顔が、ついさっき幻に見ていた花京院の微笑みとまったく同じで、承太郎はまた数瞬、声が現実かどうか見極め損ねて、うっかり訝しげな表情を浮かべてしまった。
「悪かったな。母さんたちはもう帰った。」
現実に立ち返るのに、もうふた拍、そうしてやっと、病室で聞いた花京院の両親の声を思い出し、自分がなぜここでこうしているのか、しっかりと意識が戻って来る。
「ここまで来れたのか。」
上ずる声をわざと平たくして、胸を反らして立ち上がる。視線は、確かめるように花京院の足元へ這った。
「ハイエロファント・グリーンに手伝ってもらった。ひとりで何とか歩けるが、まだ自力でここまでは無理だ。」
微笑に苦笑が混じる。
「無理するんじゃねえ。」
諭すように言うと、あやすように花京院がまた微笑む。あごの先を、少しだるそうに左肩に預けている花京院を見ていると、承太郎の胸がちくちくと痛んだ。
「・・・来たのはいいが、戻る分までは考えてなかった。病室まで、手を貸してくれるか。」
尋ねる必要もない。承太郎は、花京院を支えるために右腕を伸ばして、その途中で、突然気が変わって両腕を花京院に差し出した。
腕の内側に触れる、骨の感触。痩せてしまった体は、抱き寄せると軽々と承太郎に寄り添って来る。元に戻るのに後どれくらい掛かるのかと、思わず腕に力がこもった。
「・・・すまない、もうちょっとそっとやってくれ。傷に響く。」
抗わないのは、承太郎だからなのか、それとも動けば痛むからなのか。言われた通りそっと力を抜いて、承太郎はできるだけ優しく花京院を正面から抱いた。
花京院は喉を伸ばして、承太郎の肩の上で、ほっとしたような息を吐く。傷の辺りを避けて、承太郎は花京院の背中を撫でた。
「君はあたたかいな。」
力のこもらない花京院の指先が、承太郎の制服の、肩の縫い目をなぞってゆく。
「・・・生きてるからな。てめーのおかげでな。」
「僕だってそうだ。君のおかげだ。」
「てめーが死に掛けたのはおれのせいじゃねえか。」
思わず吐き出すように言うと、承太郎の声音とは裏腹に、花京院がおかしそうに、承太郎の肩の上で喉を鳴らした。
「僕を引き戻したのは君じゃないか。ずっと僕を呼んでたのは、君だったじゃないか承太郎。」
血まみれの花京院を抱きしめて、泣いていたのは承太郎だ。花京院の名前を呼んで、戻って来いと叫び続けていた。
あの涙も絶叫も、承太郎の自分勝手だった。それでも、花京院はうっすらと目を開き、弱々しく腕を持ち上げて、血に濡れた指先で承太郎のまぶたに触れた。声にはならなかったけれど、唇が承太郎を呼んだ。
応えてくれる誰かがいれば、それは自分勝手にはならないのか。こうやって花京院が微笑んでいてさえくれれば、承太郎の時々の愚かさは、きちんと許されるのか。
「君はいつもあたたかいな。」
承太郎に抱きしめられたまま、花京院がつぶやいた。
自分ができるのは、これだけだと、腕に力を込めずに、承太郎は思う。
花京院のために。自分のために死に掛けた、そして自分のために戻って来た、花京院のために。あり余る自分のぬくもりを分けるくらいのことは、いくらだってしてやると、承太郎はそう思った。
花京院の背中をそっと撫でながら、さっき煙草で少し焦がした指が痛み始めていた。その痛みに向かって、承太郎は微笑みを浮かべて、それから、ひと筋だけこぼれた涙が、花京院のパジャマの肩に吸い取られて消えて行った。