9月



 長い夏休みが終わって、昨日は始業式だった。
 今日はもう、普通の授業が始まって、3時限目に承太郎はサボリを決め込んだ。
 すでに、体育祭がどうの文化祭がどうのと、そんな話がささやかれている。日差しは相変わらずだけれど、確かにもう、暦の上では秋だ。まだ青々と繁る校庭の樹々も、ひと月も待てば、赤や黄色に染まるのだろう。
 そうなったら、空条家の中庭も、落ち葉集めが承太郎の仕事になる。
 今年の夏は、そう言えば、小さなビニールのプールを出して涼むということをしなかった。
 子どもの頃に使っていたあれだ。ふくらませてくれる父親である貞夫は滅多と家にいたことがなかった---あの頃も、今も---ので、いつだって自分で、小さな空気入れを必死で踏んで、汗だくになりながらプールをふくらませた。そうして、伸ばしてきたホースで水を入れて、後は水だらけの天国だ。
 さすがに今では、あの中に収まるということは無理だから、せいぜい足をひたしてアイスクリームやかき氷を食べるという程度だけれど、いつの間にかぶ厚くなった胸のせいか、もうあの空気入れはいらない。自前の肺で、少しばかり大変ではあるけれど、プールをふくまらせられることを、口にはせずにひそかに自慢に思っている。
 承太郎は、ビニールのプールに息を吹き込む時のように、胸を大きく反らして深呼吸をした。
 まだじっとりと湿った空気が、熱く喉の奥を焼く。秋の気配は、確かにかすかにあるけれど、ここはまだ夏だ。
 じりじりと焦げたコンクリートの発する熱に蒸されて、屋上は、白っぽくあえいでいるように見える。
 来年の夏には、アメリカに遊びに来いとジョセフが言った。最後に話したのは、8月の初めだ。来年の夏には、一体何をしているのだろうかと、承太郎は考えながら、取り出した煙草に火をつける。赤く光る火が、よけいに熱さの増した風を、承太郎の鼻先へ飛ばしてきた。
 今日は家に帰ったら、物置にしまってあるはずのあのプールを引っ張り出してみようと思って、素足の爪先を冷たい水にひたす感触を思い出してみる。
 まだ日は長い。縁側で、何か本でも読みながら、夕涼みを楽しむのもいいかもしれない。
 本、と思ってから、昼休みか放課後に、図書室に寄って何か借りて帰ろうかと、少し薄暗い、かすかに埃の匂いのする本棚を思い浮かべる。鼻の奥に、古い本の独特の匂いが、まるで今ページをめくっているように、鮮やかに蘇った。
 本の背表紙を撫でる指先、求めるタイトルを探す目線、かたことと音を立てる、やわらかく磨かれた木の本棚、そう言えば、夏中、図書館にも行かなかった。
 この夏は何をしていたのだろうかと、長かったはずの夏休みを振り返る。ついおととい終わったばかりの夏休みが、よく思い出せない。
 家からあまり出なかった。行きたい場所が思いつかず、家の中ばかりで過ごしていた。
 のっぺらぼうの毎日は、どれも同じで、朝、少し遅く起きて、だらだらしているうちに昼になり、部屋に閉じこもっている間に夜になる。寝て目が覚めれば、翌日の朝だ。そんな夏休みだった。
 部屋の中では、本棚に並んだ本を、何の脈絡もなく手に取って読み、あるいは、指に引っ掛かったレコードを取り出して、聞いた。何を読んで何を聞いたのか、憶えてはいない。
 日記でもつけたら、毎日3行きりで終わってしまいそうな、そんな夏休みだった。
 ほんとうに夏休みだったのかと、冗談のように考える。もしかして、今もまだ夢の続きなのかもしれない。夏休みだという、長い夢を見ていたのだ。何もしない、どこへも行かない、誰にも会わない、終わってしまえば、一体何をしたのか覚えていない、そんな夏休みがあるはずがない。だからきっと、これは夢だ。
 そうか夢かと、承太郎は低く喉の奥で笑った。煙草の煙が喉に絡んで、3拍ほどむせた。涙が目ににじんで、喉の痛みを耐えるように、強くまばたきをして、ちょっと肩を振る。
 指の間にはさんだフィルターに唇を寄せて、深く、煙を吸い込んだ。
 一度、暗くなる少し前に家を出て、下駄をつっかけてだらだらと自動販売機まで歩いた。煙草がなかったのだ。
 ジーンズの後ろのポケットから取り出した硬貨をちゃりんと落として、ぱたんと透明なボタンを押す。そんな必要があるとも思えないのに、煙草の自動販売機は、未成年の喫煙を奨励するように明るく光っていて、それをちょっと忌々しく思いながら、ことんと落ちてきた煙草を、承太郎は腰をかがめて、機械の取り口から取り出した。
 ぱりぱりと外側のビニールを取り去って、びりびりと銀色の紙を破る。とんとんと、パッケージの上を指先で叩いて、みっしりとつまったフィルターが、やっと中から飛び出してくる。それをつまんで取り出して、口にくわえてから、ライターもマッチも持って来ていないことに気がついた。
 承太郎は大きく舌打ちをして、唇にはさんだ煙草を取ろうとしながら、ふと空を仰いだ。
 煙草は、火もつけられないまま、承太郎の唇の間にあった。指先は途中で止まり、上に突き上げたあごも、そこで止まっていた。
 空が、赤く染まっていた。珍しい鮮やかな夕焼けに、思わず目を奪われる。息もできずに、承太郎は、半ば開いた唇---煙草のせいだけではない---のまま、空を見上げていた。
 感動というのではない。けれどそれに限りなく近い感覚に、目を細め、空の紅さを凝視し、何か熱い塊まりが、喉の奥にいきなりこみ上げてきた。
 煙草の先に、そのまま火がつきそうな、そんな夕焼けだった。
 金色がかった雲の合間に、青みを刷いた紫色が散る。写真よりも、絵にしたいような、そんな光景だった。
 煙草を喫えなかった忌々しさなどすっかり忘れて、承太郎は、その夕焼けに見入っている。凄まじい赤が、承太郎のどこかに触れたけれど、それが一体どういう意味かわからないまま、金縛りにあったように静止していた体が、ようやく動いた。
 火をつけない煙草をくわえたまま、空を見上げて、承太郎は家に帰った。下駄をがらがらと引きずって、軽く振る手の中で、しゃりしゃりと、煙草のパッケージのビニールが音を立てていた。
 目の中いっぱいに広がったままの赤を思い出しながら、その夜、レッド・ツェッペリンの4枚目のアルバムを繰り返し聞いた。A面とB面を取り替える手間も惜しまずに、何度も何度も同じアルバムを通して聞いた。
 胸に膝を抱き寄せて、買ってきた煙草は、朝になる前に空になった。
 煙が目に染みて、歌詞を追って歌う喉に煙が絡んで、淀んだ空気が、ひどく心地良かった。煙草の先の火は、夕焼けの赤を写したようで、夕焼けの中で、好きな音を聞いているような気分になって、承太郎は何度もまばたきをした。
 ひずんでいるくせに、どこかやわらかな音が、夕焼けの赤と同じに、胸に迫る。どこか、薄暗いところに引きずり込まれるような感覚があった。まるで自分を抱き止めるように、もっと強く膝を引き寄せて、承太郎は、親指の爪を噛みながら、"天国への階段"を聞いた。
 しばらくギターを弾いていない指先は、すっかり弦の固さを忘れてしまっていて、アルペジオの指の動きを頭で追いながら、けれど指先に伝えられるかどうか、自信がなかった。
 噛んでいた爪を見た。少し伸びていて、けれど割れてもいなければ、泥で汚れていることもない。血のにじんだささくれもなく、剥がれかけた皮膚もない。健やかな指先を、久しぶりに見たと思って、承太郎は思わず微笑んだ。
 微笑んだ唇を噛んで、ゆっくりと目を閉じた。
 今日は帰ったら、またあのアルバムを聞こうかと、承太郎は2本目の煙草に火をつける。
 あんな夕焼けをまた見れるだろうかと、思いながら、今は真っ青な空を仰ぐ。
 雲もない。どこまでも高く、飛び上がっても、どこにも届くことのない空だ。素直に、その空をきれいだと思って、承太郎は思わず自分の隣りに向かって顔を傾ける。
 「おい---」
 視線の先に向かって、唇が、花京院と呼んでいた。形だけを作った唇が、半開きのまま、動きを止めた。
 時間は止まっていない。風のない空に雲は流れないけれど、指に挟んだ煙草の先から、紫煙がゆっくりと立ち昇っている。
 ここは、学校の屋上だ。今は3時限目の半ばを過ぎた頃で、この煙草は2本目だ。夏休みの間中、一度もスタープラチナを呼び出さなかったことを、不意に思い出す。
 承太郎は、唇の動きをごまかすように、開いたその間に、慌てて煙草を差し込んだ。
 ここは日本だ。エジプトではない。
 家に帰れば、自分の部屋があって、そこには本とレコードの山がある。清潔なシーツを敷いた布団があって、野宿の必要もない。水道をひねれば、きれいな水が出る。煙草は、どこででも買える。ここは日本だ。承太郎は、声に出してつぶやいていた。
 帰って来たのだ。だから、あれほど旅の間聞きたいと口にしていたレッド・ツェッペリンを、聞くこともできるのだ。
 承太郎は、煙を胸の奥深く吸い込んだ。呼吸を止めて、数を数えた。時間を止められるのは、10秒くらいだったような気がする。もっと短かったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。
 だからなんだと、またひとりつぶやいていた。
 ひとりでいる時には、声を出せば、それは全部ひとり言だ。そんな当たり前のことに、もっと前は気づかずにいた。
 煙草を挟む唇が、かすかに震えていた。気がついていて、気がついていないふりをする。
 戻って来たのだ。無事に。承太郎は、ここへ戻って来たのだ。
 細く立ち昇る紫煙は、長く上がった先で、薄くかき消えてゆく。見上げる空の青さが、痛いほど目に染みる。
 夕焼けの赤さと、"天国への階段"のアルペジオの切なさと、煙草の煙の儚さと、空の青さが、いっぺんに重なった。何もかもが、一度に押し寄せてきた。
 すべてが指し示す先に気がついて、承太郎は、喉の奥にまたこみ上げてくる塊まりをゆっくりと溶かすように、深くて重い息を吐いた。
 花京院。
 ここにはいない。ここだけではない。探しても、見つからない。血まみれだった腹の穴を思い出す。苦しみはしなかったのか、やけに穏やかな顔だった。だから、よけいに、現実味がなかった。
 思ったよりも軽い体を抱き上げて、そのうち目覚めるのではないかと、何度も揺さぶった。
 空になった喉の奥が、がくがくと震えていて、必死の形相だったと、後でジョセフがぼそりと言った。
 夏の始まりだった。何もかもが終わって、けれどそこに、花京院はいなかった。
 そばにいるのが、当然になってしまったのは、一体いつだったのか。親しく人を寄せつけるということの滅多にない承太郎にしては、引っ掛かる何もないまま、ごく当たり前のように、揃わない肩を並べて歩いていた。
 顔を横に向けて、下向きに視線を傾けて、そうやって話しかけていた。いつもだ。毎日だった。
 何を話したろうか。深く語り合う時間も、機会もなかった。それでも、好きな本や音楽のことを、ぽつりぽつりと口にした。暑いとか、腹が減ったとか、指が痛いとか、ひとり言が、ひとり言ではなくなっていた。
 ひとりではなかったからだ。ふとしたつぶやきを聞き取って、答えてくれる誰かが、そこにいたからだ。
 花京院。
 もういない。応えてはくれない。承太郎は、またひとりだ。ひとりで、ひとり言をつぶやくだけだ。
 どれほど鮮やかな夕焼けも、どれほど心に響く旋律も、どれほど穏やかな時間も、それを分け合う誰かは、もうここにはいない。
 ふっと、詰めていた息を吐く。
 何を言うつもりだったのか、開いた唇から、あ、と小さく声がもれた。
 言葉にならない。声がこぼれるばかりだ。
 承太郎は、不意に足元からコンクリートの床に崩れると、べたりと腰を落として、不様に長い足を投げ出した。
 水の中でもがくように、手足をじたばたと動かして、やっと胸元に膝を抱き寄せて、気がつけば、久しぶりに見るスタープラチナが、表情もなく承太郎を見下ろしていた。
 空の青よりも暗い、その青い体は、記憶と同じに大きく、見上げる承太郎の頬は、濡れていた。
 あ、とまた声が出る。スタープラチナは、承太郎の震える唇に、濃い金色の目を凝らしている。
 煙草を指にはさんだまま、承太郎は、両手で顔を覆った。
 掌の中で、生暖かい涙が流れ続ける。
 すべてが涙に変わるまでに、こんなに時間が掛かってしまったのだと、喉の奥の塊まりが、今は大きくなるばかりだ。
 記憶のない夏は、時間の幽霊のようだ。
 その中に、花京院は、姿のないまま閉じ込められている。
 指の間で、じじっと熱く音を立てて、煙草が灰になり続けていた。
 承太郎は、声を殺して泣いた。泣き続けることしか、今はできなかった。
 大事なものなのだと、失ってからわかるのなら、大事なものだとわからないままでいい、失いたくないと、そう思う。失わなければわからないのなら、最初から欲しくはない、そう思うのは、けれどひどい強がりだ。
 両手と頬が、ぬるく濡れる。かまわずに、承太郎はひとり泣き続ける。震えるその肩を、そばにしゃがみ込んだスタープラチナが、そっと抱く。
 掌の中の薄闇に、空の青さは届かない。どしゃ降りの空は、暗い灰色だと決まっている。
 煙草の煙だけが、相変わらず音もなく、青い空に届くはずもなく、白く細く立ち昇り続けていた。


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