ひげ剃り



 陽のよく差し込む明るい病室だったけれど、室内の明るさとは裏腹に、自力ではほとんど動けない花京院は、狭いベッドの上でいっそうかさの減ったように見える。
 放課後、毎日会いに来ているといると言うのに、その印象は一向に改まらず、確かにふさがれた腹の大穴は、けれどまだ完全な治癒──迅速な──を保証するものではないのだと、医者でも看護婦でもない承太郎にも何となく理解できた。
 SPWの管理下に置かれ、治療費の心配もなく豪勢な個室を与えられた花京院は、その待遇を喜びも、術後からずっと絶えない痛みの恨み言をこぼすこともせず、それはただ、今はそんな体力がないからなのだとわかっているから、承太郎はできるだけ傷のことには触れず、ここへはわざと外の空気をまとってやって来て、その日学校であったことやホリィが家でやらかしたことなどを、なるべくつまらなそうにぼそりぼそり語るだけだ。
 笑うことはおろか、長時間話し続けることさえ、腹の傷に響くと言って、花京院はもっぱら承太郎の話を聞くことに専念し、早く退院したいとは、まだ口にすらできない自分の状態を正しく理解して、相変わらず裾の長い学生服を重たげに揺すって自分の傍へやって来る承太郎に、それが精一杯だと言う仕草で、ゆるく首を回すだけだ。
 「ひげが伸びてるな。」
 必要もなく広い病室の中に、わけのわからない機械類に囲まれて横たわる花京院のベッドの傍に、さらに場違いな風に置かれたパイプ椅子が2脚、ひとつをがちゃがちゃ言わせながら引き寄せ、なるべく花京院の顔のそばに腰を下ろす。そうしないと、時々花京院の声が聞き取れないからだ。
 覗き込みながら言う承太郎に、花京院はうっすら微笑んで眉を上げた。
 「風呂にも入れないのに、ひげなんか剃れるもんか。」
 体さえ起こせない、腕の上げ下ろしさえ痛みがひどくて無理だと言う花京院が、忌々しげに答える。
 「君ほど目立つわけじゃないし、元々薄いからな、気にもならない。」
 ひとりきりの時は、点滴でひっきりなしに体の中に入っている強い鎮痛剤のせいで、ほとんどうつらうつらしているだけの花京院は、自分のあごに触れることすら滅多にないからだらしなく伸びかけたひげのことなど考えもしなかったことは言わずに、明らかにやつれているのだろう自分の今の風体を承太郎が自分以上に気にしているらしいのを、近頃はいつだって心配そうな濃い深緑の瞳の翳り具合に読んで、わざと言葉を強くした。
 「ハイエロに剃らせりゃいいじゃねえか。」
 生まれた時からスタンド使いなら、そんなことは造作もないだろうと、承太郎は思いながら言う。
 パイプ椅子が今にもつぶれそうな、承太郎の大きな体を上から下へ眺めて、花京院はほとんど見えないかすかさで首を振った。
 「ハイエロファントを動かすのも体が痛むんだ。呼び出すだけで息が切れる。今はほんとうに何もできない。」
 旅の間は、襟元さえゆるめることのなかった花京院が、どうしようもないとは言え、身繕いの一切できない状態でただ横たわっているというのがどれほど苦痛か、少し消えかけた語尾に悟って、承太郎は思わず自分のあごを掌で撫でた。
 朝、顔を洗うついでに剃ったひげが、今はかすかに指の腹に触れる。純粋な日本人とあまり変わらない程度にひげは濃くはない承太郎だったけれど、ジョセフのふさふさとしたひげの豊かさを思い出して、もう少し歳を取ればあんな風になるのかと、やっと薄くその陰の見えるだけの花京院の頬半ばに、承太郎はじっと目を凝らした。
 「おれが剃ってやろうか。」
 え、と花京院が聞き返す。冗談だろうと、笑みにゆるんだ口元が言っている。
 「なんかあるか? ないなら明日持って来てやる。」
 すぐそばにあるサイドテーブルに首を回して、さらにドア近くにあるロッカーへ振り返る承太郎の仕草に、冗談ではないのだと悟った花京院が、
 「・・・カミソリとシェービングクリームがそこに入ってるはずだが。」
 半信半疑にサイドテーブルの引き出しに向かって首を伸ばし、所在を示して、けれど花京院の眉は寄ったままだ。
 「本気なのか承太郎。」
 「なんでおれがそんな冗談を言う必要がある。」
 至って真面目な顔つきで承太郎がきっぱりと答える。答えながら、余分なタオルはどこにあるかと、もうパイプ椅子から腰を上げかけている。


 花京院が自分ではまだ使ったことのないはずの備え付けの小さなバスルームから、蛇口から出るなるべく熱い湯で絞ったタオルを持って来て、まずは顔に乗せた。
 顔の下半分をそうやって覆うと、花京院が思わずと言った風に気持ち良さげに全身の力を抜いたのがわかる。それを見下ろしてから、取り出したカミソリを洗いに、承太郎はまたバスルームへ戻った。
 「君にひげを剃ってもらうことになるとは思わなかった。」
 シェービングクリームを掌にたっぷりと出している承太郎に、花京院が言う。何だか声が心細そうに聞こえて、他人に急所近くを刃物と一緒に預けるのが不安なのかと、ちょっと意地悪く考える。
 「治ったら今度はてめーがおれのを剃れ。それでおあいこだ。」
 白っぽく乾いていた皮膚が、温かく蒸されて、少し柔らかな艶を取り戻していた。ひげの見える辺りを掌の白い細かな泡を塗りつけて、ゆっくりとすべて覆ってゆく。なるべく丁寧に指先を使いながら、ごく自然な仕草で花京院が目を閉じたのを、承太郎は少し安堵して眺めている。
 頬骨に指先を乗せる。タオルを乗せなかったところは、触れれば滑りが悪いのがわかる。消毒液の匂いのする病院の中の空気は、外に比べれば乾いていて、そして腹の傷を塞ぐのに精一杯の花京院の体は、他のところへ栄養を回している余裕が足りないのだ。
 皮膚だけではなくて、髪の艶も失せている。旅の間に日焼けしてしまった、さらに赤みの増したその髪に触れたくなったけれど、今はカミソリを持った右手に集中することにした。
 頬の右側に、耳の下からそっとカミソリを滑らせる。思ったよりもきれいな幅にクリームが削り取られ、そこから覗いた皮膚が、なめらかに光って見えた。
 ほとんど花京院の上に覆いかぶさるようにして、承太郎はそうして、そっと花京院の伸びたひげを剃り落としてゆく。自分にそうする時よりももっとやわらかな優しげな手つきで、あごの向きを変えさせ、反らした喉に手を添え、濡らしたタオルで何度も使い捨てカミソリの刃先を拭いながら、少しずつあらわになって来るつるりとした皮膚に、承太郎は気づかず目を細めている。
 そうしなければならなかったから、唇にも指先を当てた。伸びたひげの陰が失せれば、今は色が褪せていてもそれでも充分に紅い唇が、青白い顔色の中でひどくまぶしく見える。一瞬だけ湿りを取り戻した唇が、広い窓から入る陽の光を集めて、承太郎が触れたせいなのかどうか、憶えている通りの鮮やかさがそこに蘇ったように思えた。
 花京院は間違いなく生きているし、どれほどのろのろとした進みだろうと、確かに回復しつつあるのだと、その色に、承太郎はこれまでのどの時よりもそれを強く感じて、ほんの数瞬、カミソリを使う手を止めた。
 突然明るさを増した唇のその色は、体の中を流れる血の色そのままに見えて、花京院の健やかさ──少なくとも、生きているのだという意味で──を示すと同時に、腹に開いていた大穴のむごさも一緒に、承太郎に思い起こさせる。
 文字通りにはじけた柘榴のように、砕けた肉と血の海と、あの時確かに死体だった花京院の体の重み──軽さ──を思い出して、紅い唇の端を滑るカミソリの手元が、ほんのわずかに狂う。
 滑って皮膚を切った刃先から遠ざかるように、花京院の首が動いた。
 「・・・悪い。」
 慌てて、まだきれいなタオルの面でそこを拭って、承太郎が心底すまなそうに言うけれど、言葉の底が上滑りしているのを聞き取らない花京院ではない。
 「いい、大丈夫だ。」
 のろのろと腕を上げ、まだ血のにじむ切り傷を指先で確かめる。そうして、何を思ったのか、しっかりと承太郎を見上げて深い笑みを作った。
 「ああ、さっぱりした。」
 剃り立ての頬の線を指先でなぞって言う。
 感謝のこもったその声音を聞きながら、承太郎は、やっとカミソリから手を離した。
 残った泡を拭い取り、もう一度熱い湯で絞ったタオルで、ついでに顔全部と耳と喉や胸元までしっかりと拭いてやると、まるで皮膚1枚すっきりと取り去ったような爽やかさに、表情まで明るくなった花京院が窓の方へ目をやり、そろそろ日の暮れかけている空の眺めに、何か名残惜しそうに何度か瞬きをする。
 その間に、承太郎は使ったものを元の場所に戻し、濡れたタオルはバスルームにまとめ、またパイプ椅子にどっしりと腰を下ろした。
 「ちっと切ったが、次はもっと上手くやってやる。」
 「はは、そうだな、僕が自分でできるようになるまで、ひげ剃りは君に頼もう。」
 「おう、何でもやるぞ。何でも言え。」
 真剣に言い返す承太郎に、まったく君は、と言いたげに、花京院が軽く声を立てて笑う。
 「・・・退院したら、今度は僕が君のひげを剃ろう。それでおあいこだ。」
 なぜか声が淋しげに聞こえたのは、それが起こるのがずっとずっと先のことだと、ふたりとも知っているからだ。
 「おう・・・。」
 自分の淋しさを隠し切れずに、応えるまでに間が空いた。
 花京院の体のどこも、ほとんど触れることができない。どこにどう触れても、痛みを避けられないからだ。内臓が欠け、肋骨を失い、血管と筋肉の引きちぎれた痛みがどんなものか、承太郎には想像もできない。無理矢理に繋ぎ合わされた体はまだ元の靭さを取り戻せず、元に戻るということが、以前のままになるということではないのだと、花京院は避けようもなく自覚していた。
 死なずにすんだから、痛みを感じている。伸びたひげを承太郎に心配され、身繕いすらできないことを憤ってもいられる。
 生きているというのは、つまりはそういうことだ。
 目覚めた直後に、ああ死ななかったのだと感じた時よりも、とりあえず危機は脱したと医者に言われた時よりも、ジョセフと承太郎に会った後でやっと対面した両親に泣かれた時よりも、花京院は今、生きているのだと言うことを、全身で感じていた。
 そんな余裕などなかった、どこかへ置き忘れていたような熱い涙が、喉の奥からせり上がって来る。
 うれしいとか悲しいとか淋しいとかつらいとか、それは、どの感情によるものかまったく見極めのつかない涙だった。
 せっかく承太郎がきれいにしてくれたのにと思いながら、目尻から不意にあふれて来る涙を止められずに、花京院は一度窓へ向いた顔を承太郎へ向け、傷の痛みを一緒に飲み込むように、腹へ向かって深く息を吸い込んだ。
 「承太郎、ありがとう。」
 弱々しく持ち上げた左手を、承太郎が受け取る。
 「おう。」
 突然の涙に驚きながら、その理由をわざと訊かない承太郎は、力の入らない花京院の指先に唇を寄せ、そうして、もう一方の手で花京院の額を撫でた。
 唇の端にぽつりとある、小さな切り傷に視線を据えて、自分が傷つけたそれから流れた血の赤さを、ずっと忘れないだろうと承太郎は思った。


* 2009/8/29 承花音頭2009参加。無精髭お題。

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