静謐



 世界はまだ闇の中にあったけれど、流血と怒号は止んでいた。
 完全なる終わりは、朝日の昇るまでやっては来ない。けれど訪れた静謐に、ひとまずは息をつく。
 スタンドの気配はどこにもない。自分のそれ以外に、何者の気配もない、その異常さ---本来の、正常さ---に、ふと気が緩んだ一瞬後で、静か過ぎる世界の中に、求める呼吸の音すらないことに、突然気づく。
 呼吸の音、あるいは、心臓の鼓動。
 どこだと、思った。
 振り返れば破壊の跡が見えるあちこちに目を凝らして、まだスタンドとともに身構えたまま、唯一正確な居場所のわからない彼の、その在るべき姿を探す。
 翠の影、光る、鮮やかな宝玉の輝き、それを見つけるのは、そう難しくはないはずだった。
 けれど、呼吸の音が聞こえない。
 主の代わりのように、スタンドが吠えた。
 白金の輝きで、明るく周囲を照らそうとするかのように、スタンドが、主の意向を汲んで、求める気配を探り当てようと、鋭い感覚を、いっそう研ぎ澄ます。
 あそこだ。あそこにいる。
 長くはかからない。そう遠くへ来てしまっていたわけではない。わずかばかり先のどこかへいるだけだ。すぐにそこにゆける。すぐに。そこへ。
 そうして、承太郎は、足を止めた。
 求める姿はそこにあったけれど、それは求める姿ではなく、破壊に巻き込まれたのだと、明らかにわかる様子に、承太郎はそこから一歩も先へは進めない。
 何かを、聞いただろうか。悲鳴や、怒りを表す叫び声や、あるいは、肉や骨を砕く硬い拳の慄える音や、何かを、聞いただろうか。このことを予測させる何か、物音のようなものを、聞いただろうか。
 何も聞いていない。何も聞こえては来なかった。何かが起こったのだと、知ってすらいなかった。
 止めていた時が動き出すと同じに、それはあまりに突然で唐突で、もしかしてまだ、時は止まったままでいるのかと、自分の両手を眺めて、ひたすら混乱してゆく。
 確かめなければならない。確かめなくてはいけない。何が起こっているのかを、何が起こってしまったのかを、きちんと、自分のこの目で。
 けれど承太郎は、まだそこから一歩も動けず、これからも一生動けないだろうと、そんな確信めいた思いに、打ちのめされつつあった。
 静か過ぎる世界の中で、静謐に絡め取られたように、承太郎は、木偶の坊のように、突っ立ったままでいる。
 スタープラチナが、静かに前に出た。
 静かに静かに、両手を前に差し出して、ゆっくりと近寄ってゆく。
 近寄りながら、絶えず気配を探り続けている。呼吸の音、鼓動、わずかな声、そんなものを、必死で見つけようとしている。
 あの翠の影は、どこにいるのだろう。主の危機に、あの翠に輝くスタンドは、一体何をしているのだろう。
 スタープラチナの気配に応えて、ハイエロファントがどこかから飛び出してくるはずだ。どこかから、必ず。
 声さえ出せない。呼びかければ、答えるかもと思いながら、舌は喉の奥に貼りついたまま、承太郎を窒息させようと、そこから身じろぎもしない。
 息苦しさに、頭に血が上る。
 興奮ではない、逆上だ。
 闘いの間に感じていた、あの血の沸騰するような熱さではなくて、背筋に氷を突っ込まれたような、硬化した血管の中に今流れるのは、凍りつくような静けさだけだ。
 静か過ぎる。静か過ぎて、自分の呼吸も止まりそうだと、さっき、自分で止めた心臓の辺りに、承太郎は思わず右手を置いた。
 ハイエロファントが現れることもないまま、スタープラチナは、無事にそこへたどり着いていた。
 そんなふうに、そう言えば、近く顔を寄せたことがあった。あの肉の芽を取り去るために、闇の呪縛から、彼を解き放つために、あの少し体温の低い、けれど暖かな頬に、触れたことがあった。
 目を開けろ。声を出せ。花京院。
 スタープラチナは、その手を額に乗せて、頬に触れて、それから、心臓の上に、耳を押し当てた。
 今欲しいのは、静けさなどではない。何か、何かの気配、あるいは音、何か、そこに花京院がいるのだという、あかし。
 何か。何か。
 スタープラチナが、花京院の上に乗って、せわしく掌を滑らせる。あごや、唇や、首筋や、そして、腹に開いた穴の周辺や、血に濡れた制服の、ボタンの合わせ目の辺りや、思いつくすべてに、人の体温はない掌を、飽きもせずに滑らせ続ける。
 ぬくもりはないその手に、花京院の体温が伝わって来ることはなく、呼吸の音も、鼓動も、ハイエロファントの気配も、何もかもが、その指の間からこぼれ落ちてゆくのが、承太郎にははっきりと見えた。
 カキョウイン。
 頬を、両手でそっとはさんで、スタープラチナが呼んだ。
 紙のように白い花京院の頬に、スタープラチナの薄青い手指が、奇妙に美しい眺めだった。
 カキョウイン。
 動けない承太郎のために、スタープラチナが、呼び続ける。
 花京院は、そのどれにも応えず、形の良い眉の下で、あの涼やかな瞳は閉じられたままでいた。
 スタープラチナの手足が、花京院の血に濡れて、赤くぬらぬらと光る。
 カキョウイン。
 呼びながら、スタープラチナは、紫色に変わった花京院の唇に、その青い唇を押し当てて行った。
 そこから伝わる、呼吸と体温の気配はなく、唇も瞳も閉じられたまま、微動だにしない。
 スタープラチナは、唇を離しても、掌は花京院の頬に、添えたままでいる。
 何もかもが、怖ろしいほど、静かなままだった。
 それから、闇の色に引きずられたように、スタープラチナの青い肌が、一際色を濃くしたように見えて、そして、その頬に、青い涙が流れ始めた。
 承太郎の姿を写した青い巨人は、今は姿だけではなく、その心までも写し取って、承太郎のために、涙を流している。
 カキョウイン。
 慄える唇の、声さえ湿りを帯びていて。
 カキョウイン。
 スタープラチナが泣いている。
 もう決して応えることのない花京院を抱いて、スタープラチナは泣き続けている。
 カキョウイン。
 その声も涙も、どこへも届くことはないと言うのに。
 カキョウイン。
 花京院の頬や額が、スタープラチナの涙に薄青く濡れて、乾き始めていた血が、そこに溶けてゆく。
 泣き続けるスタープラチナを引き戻すこともせず、承太郎は、まだ動けずにいる。
 花京院の血と、スタープラチナの涙の混ざった、暗い紫色の雫が、花京院のこめかみから滴って、冷たい路上に落ちた。その小さな音だけが、承太郎の聞いたすべてだった。


戻る